2 若者たちの本音
──この法律は、日本国内において残業およびそれに関連した罪を犯したすべての人間に適用する。【悪性超過勤務の禁止および健康で人間的な最低限度の生活確保に関する法律(通称:残業禁止法)より抜粋】
「悪い! ちょっと待たせたか?」
「いいや、全然」
夜の21:00。休恵の住む安アパートに訪ねてきたのは、休恵の高校時代からの友人である労河原だった。会社から直接休恵のアパートにやってきたのだろう、少し草臥れたスーツはそのままに、ネクタイだけが取っ払われている。
「でも、どうしたんだ? 羊定時は20時終業だろ? お前の所からウチまで、三十分もあれば着くと思うが」
約束の時間は20:45。先ほどは全然問題ないと休恵は言ったが、労河原が遅刻したことには間違いない。
「それはだな……ほら!」
「おお!」
背中に隠していた左腕を、労河原はサプライズだと言わんばかりに前に差し出した。
「すごいな……! 酒も肴も、ずいぶんと買い込んできたじゃないか! ……でも、予算オーバーしてるんじゃないか?」
「ところがどっこい、しっかり予算内だ。実はちょっと離れたところに激安の業務スーパーが出来てさ。そこまで買い出しに行ったから遅れちまったんだよ」
「ナイス判断だ」
荷物を受け取り、そして休恵は労河原を招き入れた。勝手知ったるなんとやら、労河原は特に言われるまでもなくスーツのジャケットを脱いでハンガーにかける。どうやらかなり急いで走ってきたのか……あるいは励んで仕事をしていたのか、労河原がスーツを脱いだ瞬間に、サラリーマン特有の汗のにおいがふわりと漂った。
「まずはビールか? どうする、ちょっと冷やすか?」
「や、この気温なら温くなっちゃいないって……ほら、冷たい」
「ホントだ……もうすっかり冬だな」
「俺の出勤する頃は、汗ばむくらいに温かいこともあるんだけどな」
腰を下ろして、くだらない話をして。同じタイミングで缶ビールのプルタブをひねった二人は、互いに労いあうように乾杯をした。
「おつかれ、労河原」
「おつかれ、休恵」
月に一度のちょっとした贅沢。こうして仕事終わりに宅飲みをすることが、休恵の数少ない憩いのひと時だった。決して広いとは言えないアパートの一室だから、かなり窮屈で華もない宴ではあるものの、旧友とのそれなら遠慮も礼儀も必要ない。文字通り、無礼講でありのままに楽しめるのである。
「仕事終わりの一杯は格別だな……!」
「おーおー、馬定時のお偉いさんが何言ってるんだぁ? 仕事終わりって言うには時間が経ちすぎてるだろぉ?」
「その分、余計にこの時間のおあずけを食らってたんだぜ? 酒に恋い焦がれるあの三時間……お前だったら耐えられずに、一人で始めてただろ?」
「そうかもな!」
意味もなく笑いあって、そして再び缶に口を付ける。合間合間におつまみに手を付けつつ、週末の夜のつまらないテレビをBGM代わりにして。非生産的なことこの上ないこの時間が、休恵は何よりも好きだった。
「でも、たまには居酒屋に行って飲みたいよなあ……。家で用意できるものは限られるし、何より片付けが面倒くさい」
「しょうがないさ。金をかけずに飲む方法なんてこれくらいしかないんだから。……それに、居酒屋だと帰りの心配もしなきゃいけないし、周りの目も気にしなくっちゃいけない」
休恵も労河原も、金はない。生活をするのに困ることは無いが、逆に言えばそれだけで、贅沢なんてできるはずもない。
そうともなれば、割高な居酒屋ではなく安上がりで済む宅飲みを選択するのも、ごくごく自然なことであった。
「あー……居酒屋だと、飲んでいい気持ちになってそのまま寝落ちができないもんな」
「それはウチで飲んでるときも止めてほしいんだけど」
「ケチ臭いこと言うなって……でも、金かあ」
不意に、労河原の声のトーンが落ちた。おや、珍しい……と思った休恵は、二本目のビールを開けながら問いかけた。
「どうした、改まって」
「いやさ……ほら、次のクリスマスがさ……」
「ああ……お前の所、大家族だもんな」
労河原には年の離れた弟妹がいる。七つ離れた弟を筆頭に、一つ違いずつの妹が二人。すなわち、十八歳の弟と十七、十六歳の妹だ。
「もう子供って年じゃないから要らないって三人とも言うんだけどさ。それでも兄貴としては、何かしら送りたいわけだよ」
「良い心がけだし、良い弟達じゃないか……無理するくらいなら、甘えちゃってもいいんじゃないか? 向こうだって、お前が無理するのなんて望んじゃいないだろ」
「……それもあるだろうけど、違うんだ」
「違う?」
「どっちかっていうと……諦めているって言ったほうがいいのかな」
妙に多く買いこまれた酒の意味。もしかしたら、今日はそういう気分だったのかもしれない──と、休恵は聞き役に徹する覚悟を決めた。
「四人兄弟だからな。そりゃあ普通の家に比べて貧乏になるに決まってる。たしかに親父は優良企業に勤めているけど……それにしたって限度はある」
「……まあ、そうだろうな」
「あいつらのおもちゃや服はいつだって俺のおさがりだった。そして、俺のはいつだって新品だ。しょうがないことなんだろうけど……それでも、納得するのと理解するのは別の話だ。面と向かっては言わないだけで、兄貴ばっかりずるい……ってのは、常々思っていただろうよ」
「……」
「親父の収入が劇的に増えるわけじゃない。お袋がパートでフルで働いて、それで生活するのが精いっぱいで……そんな中、俺を大学に行かせてくれた」
労河原が十八歳の時、弟たちはまだ小学生だ。当然、大学の学費は凄まじいものがあり、家計に対する影響は計り知れない。労河原の通学中の四年間の生活がどんなものであったかだなんて、休恵には想像できないし、勝手に想像する権利も無いのだろう。
「ま、少しでもまともな稼ぎ口を増やしたかったって考えは理解できるんだけどさ。それでも、多感なお年頃には……な。幸か不幸か俺と違って良い子に育ってくれたから、ワガママなんて言ってくれないんだよ」
「そうか……」
「──でも、ようやく俺が社会人としてまともになってきた。収入もちょっとは安定してきて、自分以外のことを気にかける余裕も出てきた」
だから労河原は、今までの分も含めて弟たちにクリスマスプレゼントを贈りたいのだという。今までずっとちゃんとしたクリスマスプレゼントをあげられなかったから──弟たちが何もかも諦めた表情をするのが悔しくて、なんとしても普通の子供らしい笑顔にしてみせたいという話だった。
「じゃあ、まずは欲しがっている物のリサーチからか?」
「うんにゃ、実はそれ自体はもう終わってる。どうせ俺には本当のことを言わないから、ママさんネットワーク経由で学校の友達を通して……な」
「ほお」
「ただ、最近の高校生の欲しがるものってすげえのな……。人気ブランドのアクセサリーだったり、財布だったり……」
「うわー……最近の女の子は進んでるんだな」
「……財布が欲しいって言ってるのは弟の方。上の妹がアクセサリーで、下の妹が万年筆」
「……これも時代、か」
三本目の缶ビールを開けて。新しいスナックを適当に開いて。労河原の手がすっかり止まっていることに気づいた休恵は、新しいグラスに安物の焼酎を注いで労河原に押し付けた。
「お前ひとりでは難しくても、親父さんと協力すれば何とかなるんじゃないか?」
「上の弟、今年受験だから……家の中、今すごくピリピリしてる」
「う……」
「むしろ俺が仕送りしないとヤバいんだよなあ……。高校生三人を育てるってマジで金がかかるんだ。今更ながら、親父とお袋には頭が上がらないぜ」
「俺が言うのもおかしな話だが、来年はその……大丈夫なのか?」
「弟の方は奨学金を使ってギリギリ。上の妹は進学する気はないらしい。さっさと良い旦那を捕まえるから勉強なんてしたくない……って言ってるけど、お袋が短大くらいは出ておけって言ってる。下の妹は……」
「……」
「……勉強が好きだからな。まだ高一だから何も言ってこないけど、きっと進学したいと思ってる」
アクセサリーではなく、万年筆を欲しがるような子だ。きっと、四人兄弟の中で誰よりも大学で勉強したいと思っているのだろう。他人である休恵でさえ簡単に推測できることが家族にわからないはずもなく、労河原はかなり悩ましい顔をしていた。
「……じゃあ、下の妹の受験までに、お前が出世して稼ぎを増やすしかないな?」
「無茶言うなって……このご時世、みんな稼ぐことに躍起だからな。俺なんかが普通に就職できただけで奇跡に近いっての」
焼酎を一息で呷って、労河原は小さくつぶやいた。
「お前は良いよな……一流の優良認定企業で」
「……名前ばかりだよ。中身はどこにでもある中小企業さ。お前、俺の稼ぎを知らないわけじゃないだろう?」
「そうだけど、さ……安定感と将来性がやっぱ違うよ。親父は優良認定企業なのに、同じ血が流れている俺はどうして……」
「……」
「みんなに苦労を掛けてまで大学を出た結果がこれだぜ? もし下の妹が長男だったら、きっともっといい会社に入れていたさ。どうせ俺なんか努力してもこの程度なんだ、だったら普通に働いていたほうが……」
「労河原」
「……いや、悪い。愚痴っぽくなっちまったな」
「全くだ……ほら、飲め。飲んで全部忘れちまえ。あと……お前が必死に努力して今の会社に入ったってことは、俺も、親父さんたちも知ってるぞ」
「……ありがとな」
結構なペースで無くなっていく焼酎。どうせ明日は休みだし、ここはひとつ学生時代のように潰れて昼まで寝てしまうのもいいかもしれない──と、休恵はグラスを傾けながら思った。
「でもよぉ……そういう話は抜きにしても、クリスマスプレゼントの一つも送れない兄貴ってのはカッコがつかないんだよなあ……」
「今から収入を増やすってのもな……。このご時世、副業の審査はかなり厳しいし、素人が始めたところでまともに稼ぐのは難しいだろ。……そっちの業種、勤務区分による賃金補正は無いのか?」
「ああ、夜シフトだと割増賃金になるってやつ?」
「そうそう。役所に区分変更の申請をする手間はあるけど、やって損はないだろう?」
労河原の勤務区分はいわゆる羊定時、すなわち14:00~20:00の六時間が労働時間として許されている法定許可勤務時間だ。
業種によっては深夜帯業務による賃金補正がかかるものがあるので、例えば20:00~02:00の犬定時に勤務区分を変更した場合、同じ労働時間であってもその分収入が増えるはずなのである。
「残念ながら、ウチは割増賃金の対象外の業種なんだ」
それが出来たら真っ先にやっていた──と、労河原はため息をつく。
「なあ、休恵」
「うん?」
「出世も見込めない、シフト変更による賃金割増も期待できない……そんな俺がもっと稼ぐ方法って言ったらさ」
労河原の口から紡がれた言葉は、今の休恵にとってはあまりに衝撃的なものだった。
「──もっと働くしか、無いよな?」
「おま……」
それは、数時間前に休恵自身がもっと直接的な形で口にしたことだ。労河原と同じ理由で……いや、労河原よりももっと俗物的で卑俗な理由から思い至った結論だ。たとえ同じことであったとしてもその過程は大いに異なり、そしてそんな休恵が労河原のことを批判するだなんて、本来であれば許されないことなのだろう。
それでも、休恵は労河原の友人だ。だから、止める理由がある。
どの口がそんなことをほざくのかと、自分でも思いながら休恵は言葉を紡いだ。
「バカな真似は止せって……お前、ちょっと疲れてるんだよ」
「はは……やっぱそうだよな。いや、わかってるよ。お前相手じゃなきゃこんなこと、間違ったって口にしないさ。でも──」
「……」
「働きたいって思うのは、そんなにダメなことなのかな。さっきまで普通にやっていたことなのに、時間を一分でも過ぎたら殺人と同等の犯罪になるって……おかしくないか? いったいどうして、それが法で規制されなきゃいけないんだ?」
「それ、は……」
「俺は若い。体力だってある。もっともっと働けるし、もっともっと稼ぎたい。ベテランやエリートたちと同じ仕事が出来ない以上、俺ができるのは体力に任せてがむしゃらに働くことだけで……それこそが、俺の武器だ。実際、それだけの余裕がある」
「それは、まあ……」
そんなの、休恵だってそうだ。普段の業務は定時時間内に余裕をもって終わらせることができるし、物足りなさを感じている。どのみち金が無いから家に帰っても暇を弄ぶばかりで、やることもない。だったら、もっともっと働いて稼ぎたい。
「余暇をどう過ごそうと勝手だろう? 余暇で同じ会社で働くってだけだろう? 自分ができる範囲で仕事をしていたい……本当にそれだけなんだ。なのに、それは法律で禁じられている。殺人と同じレベルの重罪として、規制の対象となっている」
「……」
「稼ごうとするのを、国が法規制して邪魔するってのは……どうなんだよ。どんなに望んでもたった六時間しか働けないって、どうして国がそんなの決めるんだよ。もっと働くことを許されていたら……親父もお袋も、ウチの家族がこんなにも苦労することは無かったのに」
「……そうかも、な」
休恵は、度数の高めな焼酎を一気に飲んだ。言い返すことが出来なくて……止める必要を感じなくなってしまった自分が怖くなって、きっとこれは酒のせいだと、そう思い込みたくなったのだ。
「……これでもう、記憶は残らないだろうな。今日はとことん、愚痴に付き合ってやるよ」
「……ありがとう」
──学生時代以上に大いに飲んだ二人は、翌朝、今まで体験したことが無いほどに酷い二日酔いに悩まされることになった。