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19 真に忌むべき本当の地獄


「そもそも……そもそもだ。前提からしておかしいんだよ」


 ゆっくりと、しかしはっきりと通じる声で。休恵は誰かに言い聞かせるように……あるいは、自分の言葉を自分で確かめるようにして、その考えを述べていく。


「過労死は悪だ。そしてあの地獄も許されざるものだ。だけど……それと残業をそのまま結びつけるのは間違っている」


「な……何言ってるんだよ、休恵。残業のせいで、あの地獄が」


「──違う、違うんだよ労河原。残業のせいじゃない」


 休恵たちは残業がある社会を疑似的に体験した。そこで残業による悪逆な弊害を文字通り身をもって経験した。家畜のような通勤、死んだ顔で働く人間、生きる気力すら希薄なその生活──と、あの環境がどれだけひどかったのかはもはや語るまでもない。


 ただし……そのすべてが悪いものだったかと言われると、答えは否だ。


 なぜならば。


「思い出せ、労河原。……最初の一日は、どうだった?」


「──あ」


「……楽しかったよな? 嬉しかったよな? 残業していたけど……本当に、最高だったよな?」


「あ、ああ……」


 残業体験プログラム、一日目。終業時刻はおおよそ18:00。一番最初の研修の日だったとはいえ、行った仕事内容そのものはほとんど変わらない。だけれども、休恵も労河原も心から残業を楽しみ、そして今までとは比べ物にならないほど多い給料に歓喜していた。


 唯一変わったものがあるとすれば、それは。


「そう……残業そのものじゃあない。問題なのは、残業時間の多さなんだよ」


「……」


「過労死の原因だってそうだ。残業をしているからなのは間違いないけど、毎日一時間残業しているだけで過労死なんて起きるわけがない。そうじゃあなくて、残業時間が多いことが本当の原因だ。あの地獄を生み出した本当の元凶は──残業そのものなんかじゃ、ない」


 休恵は想像してみる。


 もし、この残業体験プログラムで──一日目と同じ残業時間が続いていたら、果たしていったいどうなっていただろうか。


 おそらく、体に疲れが残るということは無かっただろう。


 おそらく、休日も寝ていたいと思うことは無かっただろう。


 そして、事実として手取りは増えて、余暇を自由に過ごす余裕もあった。


 そう──あの一日目が続いていたら、あんな地獄は起きえないはずなのだ。通勤は辛いかもしれないが、少なくとも人間としての精神性は保てるはずなのだ。それさえあればきっと、改善のために行動する余裕が、そのための気力があったはずなのだ。


 であれば……いつかきっと。その立ち向かい続ける意志の力により、あの地獄のような通勤でさえも解決策が見いだされることだろう。人間とは、そういう生き物なのだから。


「あんなのは……あんなのは、ただのやりすぎだ。一部を極端にあげつらっただけだ。どんなに良い薬でも、過剰摂取したら人の命を脅かす毒となる。そんなの、当然のことだ」


「……しかしアレは、誇張でも何でもなくかつての時代をそのまま反映したものだよ。そのうえで、キミはまだなお残業を認めると言うのか?」


 勤堂総理の口から出た、そんな質問。問い詰めるわけでもなく、恫喝しているわけでもなく、ただ単純に事実を確認しているだけ。ぞっとするほど冷たく、竦みあがりそうなほどおどろおどろしい気配を放ってはいるが、内容そのものはただの確認。


 休恵は、勤堂総理の目を真正面から見据えて答えた。


「あの社会は間違ってる。あの社会を俺は認めない。だけど、残業そのものは悪じゃない」


「……」


「俺が考えたのは、理想としていたのはあの初めて残業をした日のような一日だ。今の六時間に加えて、二時間残業の……合計八時間の労働だ」


「……」


「……」


「これなら何もかもうまくいく……! みんながちょっぴり長く働くだけで、残業社会の問題も、今の社会の問題も解決する……! 総理! あなたの理想だって……!」


 残業社会の深く混沌とした闇。その中に確かに存在した、一条の光。


 見つけてしまったその大いなる可能性に、休恵の眼差しは熱くなる。


 これならば、誰もが幸せになれる。これならば、みんなが納得できる。


 ──そう、信じてやまない休恵のその気持ちは。


「……つくづく、感心させてくれるね。いやはや、恐れ入ったよ」


「じゃあ……!」


 深い深いため息。今度こそ、本当に……心の内を隠されることなく吐き捨てられた言葉によって、打ち砕かれた。


「──君が言った八時間というのはね。残業でも何でもない。昔の定時そのままだよ」


「──え」


「この期に及んで、未だに理解が生温い。いったいどれだけ甘っちょろい世界で生きてきたんだ? ……いいや、ある意味じゃ私が甘やかした社会を作った弊害と言うべきなのか?」


「そん、な……」


「ダメじゃないか、給与明細はちゃんと見なくちゃ。……いや、キミたちの世代はそもそも残業代の計算という概念が無いのか」


 二時間の残業──残業だと思っていたそれすら。


 地獄のような旧社会では、残業ですらなかったのだ。


「いくらなんでも、初日の研修から残業なんてさせるわけがないだろう? そこで潰れてしまっては本末転倒なのだから」


「……嘘だ」


「嘘じゃない。そもそも、キミたちは自分たちが何時間残業したと認識しているんだ?」


「それ、は……」


 休恵も労河原も、頭の中の記憶を呼び起こしてく。


 一日目。18:00。

 二日目。20:00。

 三日目。21:00。

 四日目。20:00。

 五日目。21:00。

 六日目。休日。

 七日目。休日。

 八日目。20:00。

 九日目。21:00。

 十日目。20:00。

 十一日目。21:00。

 十二日目。20:00。

 十三日目。プログラム終了のための撤収処理。

 十四日目。最後の総仕上げ──つまりは本日。


 正確な時刻にはいくらかズレがあれど、概ねこれくらいの時刻に休恵たちは退社している。なんだかんだで合算すればプラスマイナスでゼロになるくらいの体感だから、計算値としては概ねあっていることだろう。20:00の時は一日四時間、21:00の時は一日五時間残業をしたという計算だ。


「ええと……だから、つまり。前半の一週間で20時間、後半で22時間残業したから合わせて44時間……です」


「一か月に換算したら、単純に二倍にして……そう、88時間。どう考えてもやりすぎで、だから俺は」


「……認識のずれというのは恐ろしいね。これじゃあ私の言いたいことが伝わらないわけだ。……スズキくん?」


「はい。──休恵さん、労河原さん。お二人の計算は間違っています。本来であれば18:00こそが定時。そこを超えた分が超過勤務──即ち残業としてカウントされるので、正しくは合計22時間。一か月に換算して44時間でしかありませんね」


 休恵たちのその認識の、たった半分でしかない。あれだけ辛い思いをしたというのに、成果としては半分でしかないのだ。


 休恵たちは──残業禁止法により残業の悪意から守られていた休恵たちは、残業という悪魔の本当の恐ろしさをこれっぽっちもわかっていなかったのだ。


「昔はね、今と違って八時間労働だったんだ。それを超えた分が残業となる。ただし……法律で謳われているのは【通常の労働として認められるのは八時間まで】であって、八時間必ずフルに働かせなくてはならないというわけじゃない。……言っている意味、わかるかね?」


「……は、い」


「本当の意味での昔は日が昇り、落ちるまでが労働時間だった。それが引き継がれて、だいたい六時間……要は、今と同じくらいがかつての定時間だったわけだが。旧社会の法律で八時間という文言が登場して以来、八時間は絶対に働かなくちゃいけないということになっていき……そして残業が当たり前になっていった。人間というのは、そういう生き物だ」


 休恵が望んだ、八時間労働。残業禁止法が無ければ──かつての暗黒の旧社会であれば。


 それは残業でも何でもない、ただの定時間。働くことを強要されているだけで……そして定時間であるならば、月給としては変わらない可能性だってある。


 さらに言えば、その本当の意味は、真に恐るべき事態はまた別にある。


「わかるかい? キミが最初に体験したそれは残業でも何でもない。そのうえでもう一度言ってもらえるかな。自分は残業をしたい……と」


「でも……だとしても、二時間だけならまだ20:00だ。これなら……」


 誰かが息をのむ音。あれだけの地獄を見てなお、休恵は残業を肯定している。


 もはや意固地になっているのか、それとも本気で残業を信じているのか。そんなのもう、誰にもわからない。親友であるはずの労河原でさえ、もう休恵が何を考えているのか……果たして今隣にいるその人物が、自分の知っている休恵本人なのか信じられなくなってきている。


「つくづく……本当につくづく、笑わせてくれるね」


 それは、言われてみれば至極当然のことであった。


「残業が二時間だけでいいだなんて、誰がそんなことを言った? 自分で勝手に残業時間を決めて良いと、なぁ、誰が言ったんだ?」


「……っ!」


「決めるのはキミじゃない。キミの上司だ。もっと言えば……いや、根本から話したほうがいいな」


 ちら、と勤堂総理はスズキを見る。すでに総理のグラスはすっからかんになっていた。話す時間が長くなっていたのはもちろん、総理自身も少しばかり気持ちが昂ったというか、本気になりつつあるのかもしれない。


「……お注ぎします」


「すまないね。いつもありがとう」


「いいえ……これも仕事ですから。他の皆さんはどうですか?」


 古沢のも、ヤマダのもグラスはとっくに空になっている。休恵や総理に比べて全然話していないはずなのに、喉が渇いてしょうがないのだろう。それもある意味じゃしょうがないのか……と、スズキは自らのそれも含めて、空になっているグラスにお茶を注いだ。


「ふう……さて。実を言うとだね、残業が多いことによる弊害は、かつての旧政府も把握していたんだ。それによる諸問題をどうにか解決しようと、先人たちも頭を悩ませていた。……キミが考えるようなことくらいは、とっくの昔に行われているんだよ」


 そして総理は、あまりにも悍ましい事実をさらりと告げた。


「──その結果が、45時間。キミたちに体験させたあのプログラムだ」


「…………え?」


 総理が何を言っているのか、休恵にはさっぱりわからなかった。


「いったい、どういう……総理、あなたは何を言いたいんだ……」


「わからないかね? ……そうか、言葉足らずというか、概念そのものが無いからか」


 もう一度、勤堂総理はお茶で喉を湿らせた。


「──残業時間の上限さ。残業による心身への健康被害を防ぐために、時の政府は月の残業時間は45時間までとし、法律よりそれを規制した」


「……は?」


「45時間であれば、それくらいであれば人間として生きていくのに問題が無いレベルだと、ほかでもない国がそう判断した」


「……ばか、な」


「故に、キミたちに体験してもらったプログラムでもそれに則った」


「そんなわけ……あの地獄が、許されるレベルだなんてわけは……」


「そういう時代だった。誰もがそういう認識だった。問題を捉えていた国でさえ……内容を検討し、吟味し、ブラッシュアップさせて出した結論がそれだ」


「……」


「おかしいだろう? それがすべての答えだよ」


 もはや、言葉にするまでもない。


 ただただ休恵の認識が甘すぎただけで、残業という悪夢が想像以上に想像以下の地獄だったというだけの話だ。


「ま、待ってください総理……!」


 ここで、話を聞いていただけだったはずの労河原が声を上げた。


「旧社会の政府が生み出した残業防止策が、月45時間の上限だって言うのなら──」


 当然出てくる、その疑問。


 あるいは、最悪の未来への可能性。


「……それが制定される前は。地獄を地獄とも思わない旧社会の人間でさえも認める──総理が体験してきた、本当の地獄って」


 今の社会の人間からして見て、毎日四時間から五時間の残業。旧社会の人間からして見て、毎日二時間から三時間の残業。この段階ですでに休恵たちにとっては文字通りの地獄だったわけだが、旧社会ではそれすら政府が認める残業防止策の結果に過ぎなかった。


 ある意味では、二時間の残業を良しとした休恵のその考えは、旧社会的な人間のそれなのだろう。


 だけどそれはあくまで、残業禁止法が制定される前の──いわば、前身の穴だらけな暫定策でしかない。


 残業禁止法が真に滅ぼそうとした、残業の悪意そのもの──倒すべき巨悪の正体とは。残業禁止法が無ければ訪れてしまう、地獄の暗黒世界のその真実とは。


「地獄……か。そうだね、確かにアレは地獄だ」


 勤堂総理は、はっきりと告げた。




「残業時間──月に80時間。それが旧社会に蔓延っていた、残業の悪魔だ」




 ──休恵と労河原の常識は、再び粉々に砕け散った。

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