15 違和感
──残業を犯した者を蔵匿し、又は隠避させた者は、死刑若しくは無期若しくは五年以上の懲役またはそれに準ずる刑罰に処する。【悪性超過勤務の禁止および健康で人間的な最低限度の生活確保に関する法律(通称:残業禁止法)より抜粋】
「……もう、朝か」
ピピピ、という無機質な電子音。うすぼんやりとした意識の中で、休恵が最初に思ったのは「まだ寝ていたい」というシンプルな希望だった。いつもに比べて体に疲れが残っている気がするし、なんというかしっかり眠れたという実感が無い。こんなコンディションじゃまともに仕事ができない、眠いんだから寝るのが自然なあるべき姿だ──なんて、そんな思いが頭の中でぐるぐると巡る。
「……」
だがしかし、このまま寝ていて良いわけがない。なぜなら休恵は社会人で、この後すぐに出勤しなくちゃいけないからだ。
「……ふぁぁ」
──昨日、スーパーが閉じていることに呆然とした休恵たちだったが、幸か不幸か、このホテルの近くにあるコンビニを用いることで夕餉の調達を済ませることができていた。スズキの説明に会った通り、コンビニというのはこの残業がある社会においても二十四時間経営をしている、まさしくサラリーマンのためにあるかのようなお店だったのだ。
少々レパートリーが少なく、そしてスーパーのそれに比べて幾分か割高ではあったものの、どんな時間でも手軽に利用できるというその便利さは、他にはない代え難いものだろう。
「……」
朝餉を済ませ、身支度を整えて、スーツを身に纏って。
朝の時間は、あまりにもあっという間に過ぎ去っていく。ほんの五分だけゆっくりしたいと願っても、その五分があまりにも貴重で、そして短いのだ。
「……行くか」
あまり浮かない表情のまま、休恵は労河原と待ち合わせしているエントランスへと向かっていった。
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「ぐぎ、ぎぎ……ッ!」
「こン、の……ッ!!」
今日もまた、電車は信じられないくらいに混んでいる。物理的な圧迫感はもちろんのこと、生温い人の呼気が満ちるその空間は、精神的な面でも休恵たちを苛んでくる。
単純に酸欠気味になるのもそうなのだが、誰が好き好んで他人の吐いた息を顔面に受け続けるのを良しとするのか。もしそんな人間がいたのなら、そいつはきっと生粋のマゾに違いない……と、休恵は現実逃避気味にそう考えた。
「くそ……! 早めに出たのに、もうこんなに混んでるのか……!」
堪らずといった様子で労河原が呟く。あんな地獄はもう嫌だったから、休恵たちは朝の貴重な時間を割いてまで早めに家を出たのだ。それなのに結局こんなザマともなれば、愚痴の一つや二つも言いたくなるというものだろう。
「いや……! 違う、ぞ、労河原……!」
「な、に……!?」
「結局この電車は、同じところをぐるぐる回ってるだけ……! 乗ってくる人は多くとも、【降りる】ってことは極端に少ない……! そういう仕組みになっている……!」
「た、確かに……!」
「──おい! どうせこれも聞こえてるんだろう! この仕組みのせいで必要以上に人が乗りこむことになってるんじゃないか!? 明らかにこの混み具合はおかしいだろ! 即刻の待遇の改善を要求する!」
どこかで見ているであろう担当官に向かって、休恵は力の限り叫ぶ。この苦しみから解放されるのであれば、どんなことでもやってのける覚悟があった。
『お問い合わせの件ですが』
車内アナウンス。意外なことに、律儀にも休恵の質問に答えてくれるらしい。
『残念ながら、そのあたりを考慮してこのシステムは構築されています。乗る場所はバラバラでも向かう場所は大体同じなので、仮にこれが地上のような普通の路線だったとしても、このくらいの混み具合になるという試算が出ております』
「そんな、こと……ッ!! だいたい、俺達はわざわざ時間をズラしてかち合わないように……ッ!」
『みなさん同じことを考えますので。それに捌ける物理的なキャパシティは変わりません。それでは』
「あ……っ!?」
たったそれだけ。一方的に告げた後はもう、何の反応もない。それ以上は返答する義務も義理も無いのだろう。
というか、直接的な問い合わせでもない以上、プログラムの意義を考えれば本来ならば不干渉となるはずの場面だ。わざわざ答えてくれただけありがたい……いわばサービスか、あるいは憐み、気まぐれのようなものだったのかもしれない。
「ちっく、しょお……!」
揺られて揺られて、押しつぶされて。
耐え難きを耐えて──そして、休恵はその場面に遭遇してしまった。
『──火打駅、火打駅』
ぶしゅう、と音がして電車の扉が開く。
ああ、どうせまた人がなだれ込んでくるんだろうな──なんて思っていたら。
「……あっ!?」
休恵のほんのすぐ近く。人の波にのまれて車内の中ほどまで押し込まれていた若い女──さっきまでは死んだように目を瞑っていた女が、何かに気付いたかのように声を上げた。
「降ります! 降ります!」
「むぎゅっ……!?」
肩か肘か。あるいは体そのものか。休恵の体はその若い女によってさらに押しのけられ、肺が潰れて口から変な音が漏れる。
「降ります! 降りますってばぁ!」
「……」
「……」
だがしかし、休恵一人を押しのけることができたとしても、女の細腕ではこの人の壁──壁というよりかは、もはや巨岩といっていい程のそれを掻き分けることなんて出来はしない。むしろ、成人男性である休恵を押しのけられたこと自体が称賛に値することだろう。
「ねえ! お願い、降ろして……!」
「……っ!」
スーツ姿のその女。休恵たちと同じく、通勤途中なのだろう。
そしてそんな女が掻き分けようとしているのもスーツ姿の大人たちで……その大半が、しらんぷりを決め込んでいる。黙って死んだように目を瞑っているか、煩わしそうにこちらをちらりと見るかのどちからで、酷い者だと舌打ちをしてさえいる。
「……降ろしてやれよ! 良い大人がみっともない真似してんじゃねえッ!!」
心の中に沸々と熱い何かが沸き上がって、堪らず休恵は叫んでいた。
「入口に固まってるやつは一回降りろ! そこで動かなきゃどうにもなんねえだろうが! ……労河原!」
「ああ! ……頼むから、動いてください! あんたら聞こえてないわけないでしょう!? ここで一人降りれば、少しは楽になるってわかんないんですか!?」
「……」
「……」
「……ちっ」
休恵と労河原の呼びかけ。何人かが迷惑そうな顔をしながらも、ほんのちょっぴりとはいえ体を動かし、出口に至るまでのスペースを確保しようとしてくれた。
が、その程度でどうにかなるような話じゃない。
「あああ、もう!」
言って聞かないなら、実力行使しかない。どうせ、既にそんなことを気にするような段階はとっくに過ぎているのだから。
「退け、よぉ……ッ!!」
休恵は渾身の力を込めて、その人の壁を押しのけようとした。もちろん、純粋な義憤から起きた行動というわけでもなく、その四割くらいは八つ当たりの意味が込められている。大義名分のもと、ついでとばかりに個人的な鬱憤を晴らしているだけに過ぎない。
そして。
『──発車します。閉まるドアにご注意ください』
「──あ」
そんな休恵の努力も虚しく、ぶしゅうと音を立てて扉は閉じた。
「あ……そんな、そんなぁ……」
愕然としてうなだれる若い女。
周りにいる誰もが、知らんぷりを決め込んで──否、女のことなんてまるで気にしてはいない。意図的に無視しているわけでもなく、悪意の元に嘲るわけでもなく……単純に、純粋に、良くも悪くも興味の対象に入っていないのだ。
「なんなん、だよ……」
ほんのすぐ近くでこんな絶望の表情を浮かべている人間がいる。それなのに、まるでなんとも思わないでいられる彼らのことが、休恵には不気味に思えてならなかった。
「うっ……うう……!」
「あー……その、泣くなよ。次の駅で降りて、下りの電車に乗ればいいんだから。……あるいはほら、もう移動距離は稼ぎ終わったんだろ? だったら、次の駅から直に会社に向かってもいいんじゃないか?」
「うう……うあああん……!」
休恵のことも、もちろん労河原のことも見向きもせずに泣いている女。休恵がどれだけ声をかけても──体を張って助けようとしてくれた休恵にさえも反応せず、ただひたすらにポロポロと涙をこぼしている。
「……」
──せめて、お礼の一つくらいはあってもいいんじゃないか。そうでなくとも、一声かけてくれてもいいんじゃないか。あれだけ頑張ってくれた恩人をこうも無視するのは、あまりに礼を失した行いじゃないのか。
その泣き顔に何故だか苛立ちを覚えた休恵は、そして気づいた。
──考えてみれば、彼女も最初からずっとこちらのことをまるで見ていない。
「……なんなんだよ」
差し出そうとしたハンカチをポケットに戻して。
休恵は、ほぼ無意識のままに呟いた。
「おかしいだろ……この社会」
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残業体験プログラム、三日目。
「はい、おつかれさま。今日の業務はこれで終了だ。……よく頑張ったね」
現在時刻、20:58。普段の休恵たちからしてみれば、五時間の残業。どの勤務区分でも絶対となる──残業禁止法で定められている六時間の労働と比較すれば、一日でほぼ二日間働いたに等しい労働時間。
「今日もたくさん振り込まれているだろうから──少し奮発して、英気を養うと良いよ」
「……」
「……」
「いいや、それとも……こんなにたくさん残業出来て、精神的な充実感でいっぱいかな?」
「……」
「……」
フルサワから投げられたその言葉。
──もうすでに、フルサワに言い返す気力も、振込額を見る余裕も休恵達には無かった。




