12 デストラクション・プレッシャー
──残業が行われるにあたり、現場においてそれを助けた者は、自らが残業を行っていなくても、死刑若しくは無期若しくは五年以上の懲役またはそれに準ずる刑罰に処する。【悪性超過勤務の禁止および健康で人間的な最低限度の生活確保に関する法律(通称:残業禁止法)より抜粋】
『……終点、月島駅。終点、月島駅』
本来の到着時刻より十五分ほど遅れて、ようやくそのバスは駅へと到着した。電子マネーの支払い音が鳴る度に体にかかる圧迫感が少しずつ和らいできて、そしてとうとう休恵たちは息苦しい車内から新鮮で清々しい空気に満ちた外へと吐き出される。
「ふぅ……ッ! ふぅ……ッ!」
「こんなに美味い空気は初めてだよ……ッ! ちくしょうが……ッ!!」
二人とも、既に満身創痍に近い状態だ。あれだけ立派だったスーツもすっかり皺だらけになって、もはや見る影もなくなってしまっている。
「なんだってんだよ、あのバスは……!? なんで誰も異常だと思ってないんだよ……ッ!! あんなに人がいるだなんておかしいだろうが……!」
バス停に悠然と停まっているバスを睨む休恵。答えたのは……思い当たってしまったのは労河原の方だった。
「な、なあ休恵……もしかして、だけど」
「なんだよ?」
「もしかして、残業が無い社会はタイムシフト制もない……だから、みんなが同じ時間に働くことになる……」
「さっきそう言っただろ?」
「──そのせいで、人が集中しすぎるんじゃないか?」
二十四時間満遍なくバスを運行させるのではなく、必要な時間にピンポイントでその労力を集中させる。それは、その考え自体は、休恵がバスの乗車前に労河原に語ったことそのものである。
ただ、ちょっとばかりその度合いが異なったというだけだ。
「──そんなわけあるかよ! いや、考え方自体はあってるにしても、あの人の多さは異常だろ!? 時刻表だってあんなに細かかったのに、どう考えたらあそこまですし詰め状態になるんだよ!」
「…………単純に、あれだけじゃ足りない、とか?」
「そんなわけ──!?」
言おうとして、休恵は気づいた。
タイムシフト制は、勤務時間を八分割している。言い方を変えれば、始業時間を八つにズラしていると言っても良い。
そんな中で、もし、みんなの始業時間が同じになったのならば。八分割されていた勤務区分が一つになったと仮定すれば。
バスに乗る人間も、単純に考えて八倍になるのではないのか。
だとすれば──あれだけぎゅうぎゅう詰めになるのも、あれだけ細かい時刻表でも足りなくなるのも、不思議な話ではない。それどころか、むしろもっと酷い有様でないと辻褄が合わない。
「……いいや、考えるのはやめるぞ。どうせもう過ぎたことだし……予定を十五分も押している。さっさと電車に乗らないと」
きっとこれは何かの嫌がらせだろうと、休恵はそう信じることにした。残業推進派が仕組んだ陰謀であると、自分たちの考えを認めさせるために画策した卑劣な行いであると、そう決めつけた。そうでもなければ、いくらなんでもあの光景は異常すぎるのだから。
「……なあ、休恵」
沈んだ表情の労河原は、ぽつりとつぶやいた。
「……電車も同じくらい、混んでるんじゃないかな」
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結論から言えば、労河原の懸念は当たっていた。
「……なんだよ、これ」
「……!」
「……!」
無言なのに、騒々しい。その奇妙な雰囲気を何と例えればいいのか、休恵にはまるで思いつかなかった。
「なあ……人間ってのはさ」
休恵の目の前で。すでにどう見てもぎゅうぎゅうで人が入りそうにない車内に、無理やり人が乗ろうとして──文字通り、駅員が全身を使って乗客を押し込んでいる。ちょっと押し込めばなんとかなりそうってレベルじゃあなくて、どうみてもすでに限界だというのに都合三人ほどを詰め込もうと躍起になっている。
「こんなふうに、物みたいに詰め込まれるような存在なのか?」
労河原は答えなかった。いや、答えられなかったと言ったほうが正しいかもしれない。
混んでいる。この感覚はまぁ、理解できないことは無い。労河原たちの常識で言えば、席に座れない人間がいる──つり革の世話になる人が出ている状態が「混んでいる」であり、ここでの混み様は一切の誇張なく異次元的なものだが、そこは想像できないこともない範囲だ。
だけれども、押し合いへし合いしてなんとか乗車する……のではなく、もはや自分でどうすることも叶わないほど混んでいて、駅員の方が無理やり乗客を「箱」に「詰めている」のは想像だにできないことであった。
というか、普通に生きていたらどうして人がそんな風に扱われるだなんて発想に至るのか。
そんな発想に至るのは、人を食い物にしている──およそ、人を人として扱っていない化け物じゃないと不可能ではないかと、労河原は本気で思った。
「ははっ。見ろよアレ。あんな扱いされているのに誰も文句の一つも言わない。ぐちゃぐちゃに押しつぶされているのに眉を顰めるだけだ。……もしかしてあいつら、タマ無しの腰抜けチキンなのか?」
「……止せよ、休恵。それこそしょうがないこと……だろ? それよりも、さ」
「……すまん、ただの愚痴だ。何とか乗らないと……遅刻になっちゃうな」
発車ベルが鳴り響く中、意を決して休恵と労河原は電車の中へと進んでいく。
「ぐっ……!」
「なにくそッ……!」
その重圧感は、バスの時のそれとは比べ物にならない。文字通り、人の壁を全身で押していかないとどうにもならない。スーツに皺が寄るとか、カバンが潰れるとか──そんなことなんてもはやどうでもよくて、なんとか体をねじ込むスペースを作らないといけない。
車両の中の空気はひどく淀んでいる。生温く、濁っていて、限りなく不快だ。
しかしそれでも、休恵は渾身の力を使って自らの体をほんのわずかにできたスペースにねじ込んだ。耐えきれなくなった誰かが人の壁の向こうで体勢を崩した気配がしたけれど、これは自分のせいじゃないんだと休恵は思いこむことにした。
「……いるか、労河原」
「……なん、とか」
窓に手をついて、全身を突っ張らせるようにして労河原は踏ん張っている。おかしな例えだが、座っているスーツ姿の中年男性に壁ドンしているような体勢だ。あまりにも珍妙な光景だがその姿に文句を言う人間は一人もおらず、そして件の中年男性も、静かにちらりと労河原の顔を一瞥したほかには何の反応もしていない。
はっきり言って、異常な光景だった。
『発車します。ドアにご注意ください』
みっしりと人が詰められた箱がゆっくりと動いていく。
がたん、がたんと外からは大きな音がするのに、車内からは潜められた息遣いの音しか聞こえない。これだけ人間が集まっているというのに、いっそ不気味なほど奇妙な静寂に包まれている。
「……」
よくよく見れば、乗っている人間の顔にはまるで生気が無い。覇気がないというか、酷く疲れ切っているような、そんな顔だ。本来はあるはずの意志の光は瞳に宿っておらず、虚ろでぼんやりとした、文字通り死んだ魚のような濁った眼をしている。
不気味に思えてしまうのは、きっとこのゾンビみたいな表情のせいでもあるのだろう。そんな人間がこんなにも集まっていたら、そりゃあ尋常な様子であるわけがない。
「……なあ、あんたら」
堪らず、休恵は言葉に出してしまっていた。
「あんたら、誰もおかしいとは思わないのか? 自分たちがこんなふうに扱われて……今の現状が異常だって、思わないのか?」
「……」
「……」
「もう少しこっちのことを考えてくれって声を上げるのでもいい。現状を鉄道会社に伝えて改善要求をするのでもいい。なんで、どうして……現状をありのままに受け入れてるんだ? 抗おうとしないんだ?」
「……」
「……」
「何もしなきゃ、ずっとそのままだぞ。勇気が出ないって言うのなら、俺が一緒に戦ってやる。いいや……もっと簡単に、心の中で少しでもおかしいと思っているのなら」
「……」
「……」
「──声に出してくれ。たったそれだけでいいんだ。それだけで……なあ、頼むよ。本当の気持ちを教えてくれよ」
がたん、がたん。
「……」
「……」
車内はやっぱり奇妙な沈黙に包まれたままで、休恵の問いかけに反応する者は終ぞ現れることは無かった。
▲▽▲▽▲▽▲▽
「はぁ……っ! はぁ……っ!」
現在時刻、08:56。結局なんだかんだで電車も遅れ、そして休恵たちは「駅」から「会社」まで走る羽目になった。徒歩換算で五分の距離……おおよそ400mのそれだが、実際の物理的な距離はその半分もない。目の前にゴールが見えているのにもかかわらず距離を稼ぐためだけに走るのは、満員電車で疲弊しきった二人にとってはまさに拷問に等しい行いであった。
「間に合った、な……!」
「ギリギリ、だけどな……!」
まさか、一日目から遅刻だなんてふざけた話がまかり通るはずがない。何とかこうして無事に会社に辿り着けたことに安堵しながら、休恵は荒く乱れた呼吸を落ち着かせた。
「よし……行くぞ」
「おう」
建物の中は、昨日訪れたそれとほとんど同じ造りであった。取り立てて珍しいところが無い、特徴が無いのが特徴と言ってしまえるほどのありきたりなオフィスビルだ。応接室も昨日と同じ場所にあって、二人は特に迷うことも無くそこを目指していく。
「こんなギリギリで、担当の人は怒ってないかなあ」
「何言ってんだ、09:00に来いって言われてるんだから怒られる筋合いはないだろ。早すぎても却って迷惑だし」
なんだかんだで、今の休恵の心の中にはある種の期待と希望が満ちている。朝の通勤の段階で肉体的にも精神的にも疲労しているが、これからようやく望みに望んだ残業の合法化された社会を本格的に体験できるのだから。
昨日みたいなチュートリアルじゃない、本当の残業体験。いったいどれだけ素晴らしいのかと、そんな風に働く姿に思いを馳せるだけで、朝の疲労が吹っ飛んでいくような心持ちであった。
「──失礼します」
そして休恵は、なるべく明るい爽やかな声を以てその応接室に入室する。
「──やあ、おはよう。時間ぴったりだね」
「──え」
休恵は、その人の顔を見て固まった。
「どうしたんだよ、休恵。入口で突っ立ってたら俺が入れないだろ?」
固まった休恵を押しのけるようにして、労河原も入室する。ぽかんとしたままの休恵を訝しそうに見た後に、そしてにこりと笑ってその男に礼をした。
「はじめまして。自分は労河原と申します」
「うん、聞いているよ」
にこにこと、人のよさそうな──親近感に溢れる笑みを浮かべた、おそらく定年が近いであろうその男。
「な、なんで……」
いや、休恵はその男の実年齢を知っているし、人の良さそうなではなく……実際に人が良くて面倒見も良いことを知っている。
だって、なぜなら。
その男は紛れもなく。
「──私の名前はフルサワだ。ここでのキミたちの上司であり、担当者となる」
──休恵の本来の上司である、古沢。休恵が心の底から信頼し、尊敬していた上司が、いつもと同じ人懐っこい笑みを浮かべてそこに立っていた。




