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11 最初の地獄

──生命、身体、自由、名誉または財産に対し害を加える旨を告知して人に残業させた者は、死刑若しくは無期若しくは十年以上の懲役またはそれに準ずる刑罰に処する。【悪性超過勤務の禁止および健康で人間的な最低限度の生活確保に関する法律(通称:残業禁止法)より抜粋】


 残業体験プログラム、二日目。


 今日も人工的に作り出された空には鮮やかな青と雄大な白が映し出されており、朝の清々しい気分を演出しようとしている。傍から見ればそれこそが逆に違和感を醸し出しているようにしか見えないが、しかし今の休恵にとってはそんなものが無くとも、実に清々しくて爽やかな気分であった。


「おっ、早いな休恵」


「おはよう、労河原」


 住居となっているホテルの前。休恵と同じように立派なスーツに身を包んだ労河原が、やっぱり休恵と同じような爽やかな笑顔でやってきた。


「お前にしては珍しいな。まだ出発するには早い時間だろ?」


「そうなんだけどさ……なんか、いてもたってもいられなくって。ここは一つ、ここでしか見られない作り物の空でも存分に眺めてやろうかと」


「はは、なんだよそれ」


 今日から休恵たちは、本格的に残業体験プログラムを受けることになる。勤務先は昨日の建物とは別の建物で、そしてきちんとバスと電車を使って一時間の通勤をしなくてはならない。


「今は……07:30か。このまま出発したら三十分も早く着いちゃうな」


「んー……初日だし、ここのシステムも初めてだからもう出発しないか? 一回余裕を持って慣れておきたいし、もし早すぎたとしても……」


「しても?」


 休恵は、にんまりと笑って言った。


「……もしかすると、【朝残業】ってのができるかもしれないぜ?」


「な、なんだって……!?」


 朝残業。残業推進活動をするにあたり知ることになった、斬新で革命的な概念。残業とは定時後に行うものだと信じて疑わなかった休恵だが、その本質とは定時間以外での業務である──つまり、始業前のそれも残業としてカウントされると知った時は、自分が如何に小さな視点でしか物事を見られていなかったのかと思い知らされたほどだ。


「始業前だって規定労働時間以外の労働になる……よく考えてみれば当然の話だ。だから、朝のちょっとした時間でさえも労働に宛がうことができる。まったく、無駄のない効率的で合理的な考えだよ」


「す、すごいなそれ……! というか、こんなすごい概念なのにどうして禁止されてるんだ……?」


「さぁな。……おっと、こうしちゃいられない。さっさと会社に向かおうぜ」


「おう!」


 通勤時間は一時間。自宅からバス停までが歩いて五分、バスの乗車時間がニ十分、電車の乗車時間が三十分で、そして駅から会社までが歩いて五分の計算だ。


 故に、休恵たちは目の前にバス停がありながらも、その徒歩の通勤時間を満たすためにホテルの前をぐるぐると歩く。冷静に考えるとなかなか滑稽な状況ではあるが、これはあくまで残業のある社会をシミュレーションするためにやっているのだから仕方がない。


 たった五分程度なんてすぐ終わる……と休恵が考える前に、その通知はやってきた。


『自宅からバス停への徒歩の通勤を確認しました。バス停に向かい、バスに乗車して駅を目指してください』


「こりゃいいね。ちゃんと知らせてくれるってか」


「ここって地下だよな? どうやってカウントしてるんだろ」


 懐に入れた端末からのアナウンス。色々諸々気になるところはあれど、ひとまず徒歩通勤は終了だということで、休恵たちはすぐ目の前にあるバス停へと向かった。


「労河原、次のバスは?」


「えーっと……おっ、三分後だ。……というかすげえぞこれ! この一時間で十本以上もバスがある!」


「はァ!?」


 そんな馬鹿な話があるのかと、休恵は慌てて労河原が見ているその時刻表を覗き込んだ。


「ホントだ……だいたい五分置きに来るってことになってる……」


「俺、こんなに真っ黒な時刻表初めて見た……というか、バスって普通は十五分置きだろ? なんでこんなに多いんだ?」


「……いや、そうか。これも残業禁止法が生み出した弊害だよ」


「……え?」


「残業禁止法により人々は働ける時間を規制されてしまった。だから仕方なく、あるいは必然としてタイムシフト制が生まれ、二十四時間休むことなく経済活動をせざるを得なくなった……ここまではいいな?」


「うん。だからバスも一律十五分置きで来るのが普通……だよな? 常に利用する人がいるんだから、そうじゃないと困る人が出るっていう……」


「そこだよ。満遍なく回さなきゃいけないのは、元を正せば残業禁止法のせいだ。残業が許可されているならみんなの働き始める時間は同じ……つまり、必要なところにピンポイントでその労力を集中させることができる」


「……あっ!?」


「はは……! そりゃそうだよな。一気に集中して処理したほうがはるかに効率的だよ。俺達からしてみればバスの待ち時間が無くなるようなものだし、バスのドライバーにとっても、朝と夕方の忙しい時間だけに集中すればいいんだから現行の体制よりもずっと楽だ!」


「おいおいおいおい……! こんなところにまで残業禁止法の悪影響がでてるってのか……!? マジで害悪でしかないじゃないかあの法律……!」


 考えてみれば至極当然のこと。みんなの始業時間が概ね統一されている以上、バスのダイヤもそれに見合ったものになる。実際、休恵のその考えそのものは間違っていないものであり、このバス停のダイヤも、朝の時間だからこそその本数が増えているということを物語っている。


 ただし。


「……うん?」


 それは、あくまで「そういう考えである」というだけだ。


「……なあ」


「……ああ」


 休恵も労河原も、気づいてしまった。


 いや、否が応でも気づかされてしまったというべきか。


「……バス、遅くね?」


「もうとっくに三分は過ぎてるよな……?」


 バスが来ない。待てど暮らせどバスが来ない。


 バスの時刻表を見て、その過密さに驚いて、残業禁止法がもたらした弊害を語り合って……なんてしている間には、とっくの昔に三分なんて過ぎている。


 既に本来の到着時刻より五分も送れているとなれば、「ちょっと遅れている」の範疇でないことは確定的に明らかだ。


「おっかしいな……時刻が間違ってるのか? さすがにここで信号待ちや渋滞にはまるってことは無いだろうし」


「もう次のバスが来る時間だぞ……?」


 何度も何度もバス停の時刻表を確かめて。向こうの曲がり角からいつバスの姿が見えるのかとやきもきしながら待って。


「……あっ!」


「ようやくか……」


 本来の到着時刻より約十分後。いよいよおかしい、何か異常事態があったのでは……と休恵が端末を通してプログラム運営に問い合わせしようとしたところで、ようやっとバスがその姿を現した。


 が、しかし。


『……月島駅行き、月島駅行き』


 バスの運転手からのアナウンス。このバスがどこへ行くのかを知らせるという、取り立てて珍しいものでもおかしなものでもない、そんな内容。もっと言えば、それは休恵たちの目的地を知らせるものでもある。だからもう、あとはそのままバスに乗り込むだけでいいのだが。


「な、あ……!?」


「そん、な……!?」


 休恵たちは、唖然としていた。絶句していたと言っても良い。あるいは、開いた口が塞がらず──目の前のその光景が信じられず、呆然としていたと言ったほうがいいかもしれない。


「……」


「……」


 バスには既に人が乗っている。休恵たちと同じ、スーツ姿の社会人だ。スタッフか同じようなプログラム被験者かはわからないが、これから会社に行くというのであれば何ら不思議な話ではない。事実、休恵達だってこれからそこに乗らねばならないのだから。


 問題があるとすれば。


『……乗車されませんか?』


「乗、る……!? こ、これにか……!?」


「ど、どうやって……こ、こんなのにどうやって……ッ!?」


 バスには既に人が乗っている。


「どうやって乗るって言うんだよ……ッ!?」


 席に座れないばかりか、体をぎゅうぎゅうに押し付け合うほどに。もはや人一人が入る隙間もないほど──そのステップを上がることさえ不可能なほどに、人がパンパンに詰められている(・・・・・・・)


『……発車します』


 ピンポン、と軽快な音と共にバスの扉が休恵たちの目の前で閉まる。


 そしてそのまま、バスは何事もなく行ってしまった。

 

「な……なんだよ、あれ……」


 目の前で見た光景を、休恵は信じたくなかった。夢か幻か、白昼夢か幻覚の類だと信じたかった。


「人が……人があんなにもぎゅうぎゅう詰め……。男も女も関係なく、体を押し付け合って……押し潰れていた……」


「……」


 だけど、休恵の隣にいる労河原も、しっかりその光景を見てしまっている。こうなるともう、あの光景は現実だったのだと受け入れるほかない。


 いったい何がどうなれば、あんな家畜のように人がバスに詰め込まれなくてはならないのか。ぎゅうぎゅうに押しつぶされて、身動きも一つできない状態で、そして誰もが死んだ表情でただそこにいる。物理的圧迫感はもちろんのこと、パーソナルスペースなんてもはや存在すらしていない。


 そう。男も女も関係なく、特売の詰め放題の野菜のようにバスに押し込まれている。ありていに言って、尋常な様子ではない。


「……さ、さすがに何かがおかしかっただけだよな? あんなにも混んでることなんてありえないし……次のバスは普通に座れるはずだよな?」


「……いや」


 遠目に見えた、次のバス。


 悲しいことにこの段階で──先ほどと同じくらいに人が詰め込まれていることが見て取れた。


『……月島駅行き、月島駅行き』


「……」


 ぶしゅう、と音を立ててバスの扉が開く。


 やっぱり何度見ても、もうそこに人が乗りこめそうなスペースはない。見ているだけで息苦しさを感じるほど、人がみっしりと詰め込まれている。


「……どうする、休恵」


「どうって……」


 休恵は、覚悟を決めた。


「──乗るしかない、だろ」


「おい?」


 無理矢理にステップに足をかけ。恨んでくれるなと心の中で言い訳をしつつ、くたびれたスーツ姿の男を体で押し込んでいく。


「労河原! 覚悟を決めろ! 俺達は何のためにここにいるのか思い出せッ!!」


 足腰に渾身の力を込め、体全体でぶつかるように。もはや傷害罪で訴えられるのも止む無しと言わんばかりに、休恵は全身全霊を持ってその人の山を押し込み、体をねじ込んでいく。


「……」


「……」


「……チッ!」


 いったいどうして、ここの連中はこんなにも暴力的な扱いを受けているのに文句の一つも言わないのか。無理矢理に体を押されているのに表情の一つも動かさないのか。下手に訴えられるよりかはマシだと思いつつ、感情の一切が欠如したようなその様子に、休恵の中で言葉にできない苛立ちが募っていく。


「労河原! 早く!」


「……ああ!」


 労河原の手を取り、二人で協力して体をねじ込ませていく。成人男性が二人掛かりでやっているからか、あんなにもぎゅうぎゅうだったそれにもわずかばかりのスペースが生まれ、なんとか二人の体はバスの中に入ることができていた。 


『……発車します』


 そしてバスは、やっぱり何事もなく走り出す。


「くっ……!」


「ふッ……! ふッ……!」


 作用と反作用。体を無理やり押し込んだということは、物理的法則に則りその反発力を受ける。休恵にも労河原にも、今までまるで感じたことが無い文字通りの圧力がかけられ、腹と肺が押しつぶされていく。


 もちろん、身動きなんて取れるはずがない。ベストなポジションを探そうにも、首の位置をちょっと動かすので精いっぱいだ。


「労河原……! 無事か……!?」


「なん、とかな……! ……ぐっ!?」


 信号による停車。別段、急ブレーキでも何でもなかったが、慣性の法則により更なる重圧が二人を襲う。


 みし、みしと体のどこかが軋む音を、休恵は確かにその耳で捕らえた。


『……発車します。揺れにご注意ください』 


 揺れもクソもねえだろ、と休恵は心の中で呪詛の言葉を吐き散らす。もはや何の意識をしなくとも、体のバランスを崩すことなんてありえない。あまりにもぎゅうぎゅうに詰められているから、倒れるスペースすら存在していないのだ。


「く、そ……! 息、苦し、い……!」


「耐えろ、耐えるんだ労河原……!」


 こんなにも狭い空間に、これだけの人が押し込まれていたのなら。そりゃあ空気も薄くなって、酸欠気味になることだろう。この物理的な圧迫感がなかったとしてもそれは疑いようのないことであるうえ、目の前に無数の他人の顔があるのだ。その生温く荒い呼気に晒され続けていれば、気分が悪くのも当然の話である。


 そして。


「……がッ!?」


「……」


「……」


「い、痛い……! や、やめろぉおおお!」


 唐突に増大した圧迫感。一体何事かと、なんとか首を動かしてみれば。


「……」


「……」


「な、なに、やってんだよお前ら……!」


「……」


 何のことは無い。


 次のバス停に到着して──新しい乗客が乗り込んできたというだけだ。


「入るわけねえだろ! 常識考えろよ! お前らみんな頭おかし……ぐッ!?」


「……」


 休恵が怒鳴るのもお構いなしに、死んだ顔の社会人たちがバスになだれ込んでくる。先ほどまでの圧迫感が児戯のそれに等しいものだったと思えるくらいに、重く、大きく、そして耐え難いそれが休恵と労河原を襲う。


 こいつらには人の心が無いのかと、労河原は本気で思った。


 もしかしてこいつらみんなマゾなんじゃないかと、休恵は本気で思った。


 つい先ほど、自分たちが同じように人を押し込んで乗車したことをすっかり忘れて、二人はなだれ込んでくる乗客を弾き返そうと、悲しくなるくらいに無駄な努力を試みた。


『……発車します』


 そして──無事に(・・・)乗客を乗せたバスは、目的地へと向かって走り出していく。


「く、そ……!」


 もちろん、バス停が一つで終わるはずがない。休恵の必死の努力もむなしく、ようやくその重圧感に体が慣れたと思った頃に新しい乗客がなだれ込んできて、休恵の体を締め上げていく。


 もう絶対に乗れそうにないと思えるくらいにぎゅうぎゅう詰めでも、人間の体の可塑性の限界は意外なほどに高いらしく、押し込めば押し込むだけスペースが生まれるというのが不思議な話であった。


「おかし、いだろ……ッ!!」


 だいたいバス停を五つくらい経由して。乗り込むばかりで降りることの無い乗客──みんな駅を目指しているのだから当然だ──にうんざりした休恵は、視界の端に捉えた腕時計を根拠に、絞り出すようにして叫んだ。


「もう……! もう、ニ十分は経ったぞッ! いつまでこんなバスに乗ってなきゃいけないんだ!?」


 そう、既にバス通勤時間の二十分は過ぎている。乗車前にあれだけ時刻を確認したのだから間違いない。いや、それがなくとも、この地獄から一刻も早く解放されたいと休恵は最大限の努力を持って時間を確認していたのだ。間違えるなんてことはありえない。


「答えろッ! この中にスタッフもいるんだろ!? だいたい、これはいったいどういう了見だ!?」


 妙に静まり返ったバスの車内。休恵のその叫びは、しっかり届いていたらしい。


『……ご質問の件ですが』


 バスの車内アナウンス。スタッフは──ここを管轄しているのは、バスの運転手であるらしかった。


『バス通勤予定時刻の二十分とは、バスが二十分で走行する距離分の移動であることを意味しており、運行予定そのものではありません』


「はあ……?」


『見ての通り、通勤する社会人が多いので、その乗り降りに時間がかかって予定通りに進めていません。時間こそ結構経っていますが、走行距離はまだ稼げていないのです』


「そん、な……」


『……心配せずとも、あと二つでお二人の終点になりますので。それでは、発車いたします』


 あと二つ。


 少なくとも、あと二回人がまたなだれ込んでくる。


「は、はは……」


 その事実は、休恵たちの心をへし折るには十分すぎるものであった。

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