聖者と翡翠の物語5
人の力は数字で測るようなものではない。握力だとか、100メートル走何秒だとか、あくまで常識的な範疇に収まるそれの平均値を探るように数値で表すこともあるが、所詮はその程度。シャベルカーと比較されるような埒外の力なんて想定すらされていないだろう。
「それで、あれは一体なんだったのだ」
問い詰めるように、自分の身体で逃げ道を塞ぐように顔を突きつけてその人は俺に聞いていた。
拠点にしていた洞窟から少し離れた水場の小さな溪谷でのことだった。命からがら逃げ出した俺達は仮に追手が来たとしてもこちらからは向こうが見え、あちらからはこちらが見えないその溪谷に身を寄せて一息ついたところであった。
「だから勇者のSSSランクの力だって言っただろう」
山賊たちはこの人が勇者を殺したと言っていた。それが本当ならばこのような力は既に知っていてもおかしくはないのではないか。反応を見る限り、聖女と呼ばれたその人の噂とやらは嘘なのではないだろうかと思った。
「いや、確かにかつて勇者と呼ばれたおまえではない者に会ったことはある。確かに速かった。確かに想像を絶するほどに力強かった。化物と呼ばれるのも納得した。しかし、人間の範疇の話でだ。」
あれはなんだ。知らなかったとはいえ、あんな力で最初に抱き締められたというのか。流石の私でも圧死するのは嫌だぞ、と非難するような新緑の瞳で睨み付けてくる。
「いや、はは。普段は平気だろ?コントロールはできてんだ」
……多分。尻すぼみしながら顔を背ける俺を追うようにその人の不機嫌そうな顔はついてくる。
「まあ、良いだろう。助けられたのも確かで、いままで被害らしい被害もなく、日数の浅いおまえが己の力を知り尽くしていないのも道理だろう。不問とする」
腰に当てた手をほどいたその人はどこか遠くを見るように押し黙った。
そうか、私は祖国にも捨てられたのか。俺の耳には風に掻き消されるようなそんなか細い声が聞こえたような気がした。
流れてしまった声を追うように風が吹き抜けていった先を眺めようとした俺の首に何か冷たいものが当たった。
「超常の力を持っていようともこうしてやればおまえは死ぬのだろう?」
怪しい微笑で俺の首に艶やかな指先を当てたその人はゴブリンにもビビるくらいだったものな、と朗らかに笑った。
――――
山賊に襲われてから幾日か経った。聖女と呼ばれたその人は、もう知られてしまったからと住みかを捨て、もとよりなにもない俺はというと当然のようにその後を追った。
その人は国境を越えると言った。よくわからなかったが、国境とは言っても厳密には隣国の動向を見張る詰所が点々と前線を網羅するように建てられているだけであり、戦争下でもない限りは容易に抜けられるようなものらしい。
住みかのエバーウッドの森を捨てた俺達はどれほど久々か人里に降りていた。
「なんとも困ったものだな。鎧も服もくたびれ尽くしていて、市中に入ると下手を打てば通報されてしまいそうだ」
人里と言うよりは町外れの茂みの中に俺達はいた。
「まあ、そこは比較的、そう比較的汚れていない俺が行けば良いと思う。まあ、随分ぼろぼろになってしまったが、マシというものだろう」
野宿を数週間続けた生活で新品だった服は落としきれない泥と血の跡、摩擦でほつれ、千切れ穴が所々空いてる始末であった。
聖女と呼ばれたその人はいつからそのような生活をしていたのか、比較的丈夫な素材で作られた革鎧以外は殆んどその機能を失っているような有り様であった。
「あー。あんた?キミ?聖女さま?うーん。なあ、名を教えてくれないか、聖女さま」
今更ながら名前を知らないその人をどう呼べば良いのかわからなくて困ってしまった。二人きりの生活では互いの名前を呼ぶ必要が生まれることはなかったのだ。
「あー。聖女さまはやめてくれ。わかったわかった。……メレダ。メレダと呼んでくれ。長らく名を名乗ることがなかったから忘れてしまっていた」
ばつの悪そうにその美貌を歪ませるその人、いや、メルダはおまえの名も教えてくれないか、とどこか慌ただしく目線をさまよわせながら言う。
「そうだな。町に入るなら互いの名を呼べなくては声をかけあうのもあるいは困難になるかもしれない。俺のことは坂木沢と呼んでくれ」
「さかきざわ、さかきざわか。わかった、さかきざわ」
なぜか少し興奮を抑えているようなぎこちない笑顔で自分の名を連呼するメルダを見ていると気恥ずかしくなってしまった。
「ただ名前を交換しただけなのになせだろうか。メルダの反応を見ていると何かいけないことをしてしまったような変な気持ちになってしまった」
少し照れ臭くなって口元を隠しながら俺が言うと、メレダはなぜか慌てたようになにやらモゴモゴ言う。
「なに、さかきざわは気にしなくても良いのだ。ただ名を交換しただけ、そう名を交換しあっただけなのであるからな。そうだそうだ、ささきざわ。頼むぞ、二人分の服を買って来てくれ」
ささきざわ1人で慣れぬ土地を行かせるのは心苦しいがな、と急に早口になったメレダはまくし立てて追い払うように言ってくる。
不思議に思いながらも、まあ、幾日も師匠と弟子のような立場で生活の術を教えて貰った関係だ。珍しくも気安く頼まれたのはそれだけ気を許したのだろうと考え直して、少し足取り軽く俺は村へ向かうのだった。
それを見守るメレダの表情が俺に見えることはなかった。
メレダ師匠に対して坂木沢への恋愛感情はないのか?
→光に集る蛾が光に対して恋愛感情を持つかどうかを考えると答えがわかります。
つまり、坂木沢は蛾でもないし、メレダは光でもないので、坂木沢は非常に強い理性と敬愛を持って自分が蛾であると信じ込もうとしているでしょう。
なんせ、勘違いをすると後が辛いですからね。