実戦用マリオネット
カンナに先導されるまま──階段を登り続けていた。
あれから大きな空間には出ていない。ただ螺旋階段だけが続く道のり。きっと外から見て、一番高かった建物の中を僕達は進んでいるのだろう。
単純に体力が追い付かなくて、彼女は所々で足を緩めて僕を気遣ってくれた。薬が効いているのか、そこまで体調が悪くなっている感覚はない。止まる必要まではなかったが……それよりも先程の光景が頭から離れず、より足を遅くさせていた。
「……大丈夫かな」
カンナは何も答えない。ただ黙って前を見据えていた。
──正直、思ってしまうのだ。
「僕より、ミキの方が──」
発した瞬間、振り向くカンナ。足が止まっていた。
「何言ってんの」
「実戦だったら……」
言わずもがなの事実。城に入ってからの戦いを見れば、自分でも悲しいほど力の差だった。
「言い出しっぺの法則でしょ」
「それ、何か違くない?」
──神と対峙するならば。
どうしても不安が募る。仲間がどんどん減っていく様に、心が挫けてしまいそうになる。そんな弱音。導いてくれた皆の献身を無駄にはしたくないが、カンナ相手だと本音が出てしまった。
彼女は……僕の顔を無言で数秒眺めると、またゆっくり登り始めた。
「──アンタが寝てる間にね」
「寝てる?」
「城から帰って来て、意識なかった時」
「ああ……」
「三人で話してたの」
「何を?」
「──神様って、何だろうって」
彼女が言う神とは、本に出てきて人々を救ってくれる存在のことではないだろう。
今まさに向かう先にいるだろう、最後の敵──全ての根源。
「どうせふんぞり返ってるだけの偉い人だろうって、思ってた」
同意。だから城へ行って、謁見して話をして、説得できたならよし……しかし、もし現状のままの世界を望むならば、頂点から引きずり落としてやろうと思った。
──だけど。
「だけど……ミキさんのおじいちゃんのこととか、おばあちゃん達の話聞いて……多分普通の人じゃないんだろうなって、思った」
──そうだろう。
城の中は全てが異常だった……住まう人も、価値観も。マリオネットに帰依し、人を殺す万能兵器を欲する思考。
──しかもそれが、世代を越える長い時間さえ維持されてきた。
変化する人々の流れを抑え、永遠と奉られる絶対的存在。
「……カンナは何だと思う」
「分からない……カズエさんもミキさんも、分からないって言ってた」
「そうだね……僕もだ」
──ただ、言えるのは。
「ただ、話してたのは……きっと」
「──人じゃない」
カンナは小さく頷いた。
「うん……概念って意味でもだし、人としても」
表現が適正ではないが、分かる気がした。
「そうだね。人の精神じゃない」
「うん。正体が何かは推測の域を出なかった。けれど、二人から言われたの──」
『センチを最後まで連れていけ』
カンナの足が速くなる。
「力でどうにかなる相手じゃないかもしれない。最後に必要になるのは、きっと違うもの」
違うもの……僕の中ではどうしてもそれがマリオネットと結び付いて離れなかった。
こんな形になってしまったが──僕とオトナシの力で壊せるものなら全てを消し去りたい。
「だから私は、絶対センチを連れていく、神のところまで」
約束だから──前を向いたまま、付け足した。
「……ありがとう」
「だからさっさと足動かして。遅いよ」
「僕はカンナや兄さんみたいに速く走れないよ」
自分の存在意義があることの、なんと嬉しいこと。言葉にされると強くなれる気がした。自分が出来ることで戦えばいいのだと、彼女はいつも背中を押してくれる。
ツンケンしていても、カンナの言葉はとても温かく感じられた。
「助けてくれる存在が神様だとしたら──カンナは僕にとって、神様だね」
「……は? 何言ってんの?」
あからさまに変な顔をされて、より前を走られるが、よしとしよう。伝えられる時に伝えたいと思った。
──ミキは無事だろうか。
先に離脱した彼を想う……そういえば十分に気持ちを伝えられていない気がした。
全ては兄が死んだ日に始まり──ミキに背中であぐらをかかれた日から大きく動き出した。勿論以前から噛み合っていた歯車は幾つとあったのだが、彼こそが負の象徴だった。だからこそ最初は嫌悪の対象以外の何者でもなかった……毛嫌いした。大嫌いだった。見るのも嫌だった。
でも今は……それだけではないと知った。アイツも巻き込まれた一人なのだと、そうならざるを得なかったのだと、今なら分かる。
「ミキにさ」
「うん」
「背中に座られた恨み、まだ晴らせてないや」
「そんなことされたの?」
「いきなり後ろから押し倒されて、そのまま背中に乗られた」
「それは……ダメだね。フォローしきれない」
「うん。まだ仕返し出来てない。だから、無事に帰れたら投げ飛ばしてやる」
「センチに出来るの?」
図星を指されて僕は顔をしかめる。カンナは呆れながら少し笑った。
「それから──」
──カンナと横に並び、見える階段をのぼる。上に何かが見えた。
城の中央の棟を昇っているには違いないが、どの辺りまで来たのか内側からでは分からない。
ただ、また新たに現れた空間に……方向は間違っていないだろう確信が生まれた。
「やっぱり最後は貴女か──ウミナリ、さん」
先程まで戦ってきた場所より狭いが、一面真っ白に塗りたぐられた様からは神聖みすら感じる。
その真ん中で待ち構えているのは予想通りの……白衣姿だった。
「あら、妙なペアが残ったのね。戦力として非論理的だわ」
しかし彼女が傍らに携えているのは、先に会った時とは違い……軍服姿の男、ただ一人だけだった。
「センチだけなら大歓迎だったのに、使い道に困る付属品が一つ……随分とぼろぼろだけれども」
構えるカンナ。より一気殺気が増す。阿修羅のような形相は、今までが積み重なってきた結果だろう。
それに──その物言いに不満があるのは彼女だけではない。
一歩前へ踏み出た。
「カンナがいてくれるから……僕は進める。そっちこそ、今度は部下一人で大丈夫なんですか」
ウミナリは鼻で笑う。前で組んでいた腕をほどき、眼鏡を触る。
「お付きのレベルが比べ物にならないわ。この人はね、とっても優秀なの」
肩で隣の男を指すウミナリ。戦闘帽を深く被り、男の表情はうかがえ知れない。ただ、なにか……その鼻筋や口元に、見覚えがあった。
そこで突如、隣から風を感じた。
「お前のせいで、私の家族はめちゃくちゃだ!」
カンナが先に仕掛ける──ウミナリの正面に向かって、いきなり飛びかかっていった。
「あら、どうしたの?」
ウミナリは動こうともせず、余裕の表情で言葉を繋げる。すると案の定……隣の男が素早く動いて、腕で全て受け止めた。
「邪魔だ!」
何度も手や足技をかけるが、男にはびくともしない。最終的には強く払いのけられるものだから、仕切り直すためにもカンナは一度身を引いた。
体勢を整えながら、鋭い視線は動かさない。
「あらあら、乱暴ね」
「うるさい! お前のせいで、お母さんは……!」
──カンナの怒り方が異常だ。
かえって心配になり呼び掛けるも、僕の声は届かない……ウミナリを睨んだまま、カンナは叫ぶ。
以前会った時に、この二人の間には少なからず因縁を感じた。カンナの態度から、予感は確信へと変わる。
「お母さんはおかしくなったんだ!」
どういうことだろう──僕が知る彼女達の母親は、常に僕を睨み、悪態をつき、覚えのない嫌悪感を押し付けてくる。そんな印象。
それが、精神的におかしくなった結果なのだろうか。カンナの様子を見ながら考える。
「あら、どうして。政府への貢献の一部でしょう。ちゃんと謝礼として食糧も優遇しているじゃない」
──何をした。
「そんなもの……! お前達が勝手に……」
カンナの表情がはっと戻り、僕を捉えた。しまったという顔付き。
ウミナリは溜め息をつきながら吐く。
「あの時期はマリオネットに適した遺伝子を模索する時期だった。実際優秀なペアも生まれた。私達は間違っていないでしょう?」
──意味が、分からない。
「カンナ……?」
たまらず問い掛ける。今度は耳に届いたようで反応があったが……とてもバツの悪そうな様子。
口ごもるカンナに代わり、ウミナリが答えた。
「マリオネット自体に相性がいい個体と、そうでないものがあると分かったのが二十年程前。成績のいい遺伝子は把握していたから、試験的に様々な組み合わせで受精させたわね」
「──は?」
さらりと……この人は何を言うのだろう。
「まぁ、特に良い遺伝子の持ち主がこの人だったんだけど」
そう言ってウミナリは目を細めて、隣の男の肩を優しく撫でた。男は変わらず、無表情のまま。
──意味が、分からない。
かつての事情を知らないこともあるが、想像の範疇を越えている。僕は二人を見つめるだけ。
しばらく黙っていたカンナだったが……意を決したのか、口を開く。
「私とお姉ちゃん──半分血が繋がってないって話、聞いたことある?」
「……え?」
──そんなの、知らない。
カンナは正面を見据えたまま、続けた。
「お母さんが違うの……それが、うちのお母さんがお姉ちゃんのこと毛嫌いしていた理由。お姉ちゃんも辛そうだったけど、お母さん泣いちゃうから……庇えなかった」
私は強い人間じゃないよ──辛そうに呟くカンナを見たくなかったが、話を止めることも出来なかった。
「お父さんが政府に連れていかれてから、お母さんはもっとおかしくなった。お姉ちゃんを訳無く責めるし、すぐ怒るし泣くし……お姉ちゃんのこと好きだったけど、どうすればいいか分からなかった──それがうちの家だよ、センチ」
カンナが僕を一瞬見る。ようやく目があったが、悲しそうに顔は歪む。僕も胸が苦しくなる。
「じゃあ、オトナシのお母さんって……」
カンナは何も言わずに、目の前の存在に目をやった。
──オトナシは滅多に帰ろうとしなかった。
家が居づらいとは言っていたが、深くは語らなかった。仲が上手くいかず、オトナシと親しい間柄の自分も彼女の母親からしたら嫌悪の対象になっているのだろうと思ったことはあった。
ただ──血縁関係のこじれとまでは、考えも及ばなかった。
「なんで……そんなこと……」
「より優良な遺伝子を生み出そうと試みるのは当然でしょう。ただ同時に複数の妊娠はできないから、協力頂いただけよ」
「協力──?」
詳しい方法や当時の状態は知らないが、想像したくもない。言い方からして、多数の家庭も巻き込んだのだろう。吐き気がする。
「人形使いだけじゃなくて、関係ない人もマリオネットに巻き込んでいたの……?」
「技術の進歩があるから皆、生活していける。謝礼も充分だし、神様に貢献出来たのに」
ウミナリが言い終える前に──飛び掛かる。
「貴方がそこまで怒る必要が分からないわ、センチ」
「人を、何だと……!」
勿論届くはずもない。カンナの体術が通らないのだから、僕の拳は到底及ばない。
だけど……感情を抑えられなかった、あんまりだ。手首は男に鷲掴まれる。
「お前は自分の子供が、こんな姿になって何とも思わないのか!?」
「私はあくまで卵子提供者。その結果として優秀な存在が生まれたのなら、研究者として光栄だわ──貴方もそうよ、とっても優秀。自身の生を否定してはいけないわ」
優秀とは──何をもって定義するのだろう。とてもくだらないことに感じた。
それから……ふと、気付く。言葉の持つ意味に。
「僕が優秀──?」
「そうよ。彼は、貴方の遺伝子の提供者。とてもマリオネットとの相性がいいののも頷けるでしょう」
僕よりもカンナから小さな悲鳴がもれた。
──父親?
母の顔はもう僅かしか思い出せないが、よく覚えている。明るくて元気で、追い掛けられて怒られた。一方の父に関しては一切の記憶がない。まさかこんなところで会うとは思いもしなかった。だが。
──どうでもいい。
「関係ない。皆を傷付けるなら、僕の敵だ」
「センチ……」
手首を拘束したままの男の手を払いのけようとするが、なかなか外れない。
「あら、ひどい」
「うるさい、ふざけるな」
「やっぱり反抗期ね。悲しいわ」
本当に腹立たしくて。掴まれた手を払えない自身の非力も腹立たく思う。苛立って、睨み付けて……気付く。
「この人──」
角膜が混濁しきっている。
──寒気がした。
しかも今更になって、掴まれた箇所の皮膚に痛みを覚える。小さな音と焼ける臭い。本体からは酸の臭い。
恐ろしくて……思い切り振り払うと、手はやっと自由になれた。表面のただれを残して。
一歩下がる。怒りを通り越して、この時は恐怖を覚えた。
「まさか……」
以前ウミナリがマリオネットの技術に関して説明した時の一節が、頭に引っ掛かっていた。
『ちゃんと成功したのは一体だけ』
──もしかして。
ウミナリは嬉しそうに、声高らかに歌い上げる。
「そう、この人が唯一の成功例。とても素晴らしい遺伝子でしょう」
髪をかきあげたウミナリの耳元には、人形の時に使用するコネクターと似た物がつけられていた。首の後方にも装置。きっと操るために必要なのだろう。
「目はやっぱり余り関係ないわね、だって私達が見て指示するもの。でも今後は義眼にカメラをいれて、遠隔探査への応用も考えているの。まぁ……軽々しく実験は出来ないけどね」
赤くなった手首を擦りながら、動く人造人形を見つめる。いざ目の前にすると、言葉に表せないものがあった。
「頭おかしいんじゃないの……」
「有用性は実体験でこそ理解できるでしょうに」
にやりと、眼鏡の奥で妖艶に笑うウミナリ。
──構えた。
「センチ、来なさい」
そうして……ウミナリの人形が動く。速い。一瞬にして目の前まで接近する。
それをカンナがまた足で蹴飛ばす。僕の前へ出て、距離を詰めさせまいと連続で拳をぶつけるが……怯む様子は微塵もない。
ウミナリを盗み見る──人形自体の破損によって攻撃不能となることは、使い手の経験からも難しいと分かっていた。しかも生身の僕等が相手では、手足の破損すら敵わないかもしれない……痛覚も恐怖も感じない体。
案の定、回し蹴りを防がれたかと思ったら、カンナの足を掴んで引き上げる。己の知っている人形は小さく人に害を為せるとは思えないが、やはり実寸大となると力も桁外れ。脳の制限もないから、筋が壊れようと常に全力で命令に従う。
だがカンナだけに戦わせるつもりは毛頭ない。無防備なウミナリの元へ走る。
──二人なら。
人形をカンナが引き留めてくれれば、きっと。
「仲が良いのね」
向かう僕の方へ、カンナを投げつける。二人で壁に強打され……痛む箇所を押さえるが、カンナはすぐに再び人形へと向かう。
「センチ! そっちをどうにかして!」
打った頭を押さえながら、目の前で優雅に微笑むウミナリを睨む。
──コネクターを。
人形やウミナリ自身を倒すか、人形への接続を切って連携不能にするか。どちらが僕達に可能かは明白だった。
もう一度ウミナリへ向かう。耳元のコネクターが取れれば──だけど勿論、簡単には許されない。
「諦めなさい。人形使いの貴方なら、いかにこれが無駄なことか分かるでしょう?」
首を後ろから羽交い締めにされて……酸の臭いがする腕の中。
息苦しい世界の中、周りを見るとカンナも反対側の手で同じように捕まれていた。カンナを離せと言いたくても、掠れた音が出るばかり。
──そのまま二人揃って、思い切り地面へ叩き付けられる。
咳が止まない。呼吸が落ち着くまで時間を要するが、人形はその間、あえて動かない。余裕すら見せてきて、腹立たしい。
「ねぇセンチ……無駄なことは止めましょう? 貴方が来たらこの無駄な騒ぎは終わるのよ」
──無駄。
無駄にしたくない。無駄にさせないために、僕達はここにいる。痛くても、まだ動ける。カンナの方が体は痛いはずなのに、僕よりも先に立ち上がった。
──どうしたら。
そこで、カンナがポケットに手を入れるのが見えて……今度は僕が人形に飛び掛かる。
「今度はお父さんが恋しくなったの?」
──うるさい。
誰がどんな関係だろうが、関係なかった。オトナシはオトナシだし、カンナはカンナだ。
たとえ虚像ばかりの世界だったとしても……見て、聞いて、感じたものが僕の世界だった。
オトナシとカンナは近所の幼馴染の姉妹だし、カズエ兄さんは兄さん、ノゾミも家族だ。妄想の世界だったとしても、コロンは僕の友達だった。何があっても、それは揺るがない。
だから──怯まない。大切な人のために望みを繋ぐだけ。
「カンナ! 撃て!」
力比べに勝てるはずもないが、カンナの手を自由にしたかっただけ。
パンパンと、連続して何発も銃声が鳴った。ミキと違って僕達の命中率は期待できないが……少しでもかすれば。
だけど──瞬時に払い除けられて、人形はウミナリの前へ立っていた。何の躊躇もなく、その体で全てを被弾する。地面に叩きつけられて衝撃で眩暈がするが……目を開けても、変わらず人形は仁王立ちのまま。
ただカンナの狙撃は思いの外に良かったらしく、何発か穴があいていた。体と、頭と。だけど吹き飛んだ頭部から覗くのは……金属。
──以前ランさんに見せられた、破壊された人形を思い出した。
「人形……」
本当に、人形なのだ。姿形は人間なのに、ただ従命に全てをかける人形。かけている認識すら持ち合わせていないかもしれない……ただの人形。
カンナがもう一度、銃を放つ。近付いて角度を変えてウミナリを狙うが、全て人形が飲み込む。最後には乾いた音しかしなくなっていた。
「くそっ……ダメだわ」
舌打ちをしながら、カンナは空になった銃を捨て置く。歯が立たない。
「どうしたら──」
考えろ、考えろと。いつも兄さんとミキに甘えていたが、ここに二人はいない。
──あれも、ここでは使えない。
二対二なのに、向こうが動いているのは実質一なのに、手も届かない。全て人形が塞いでしまう。
──二人だけど、本当は一人。
体格も力も及ばない僕達が優っていることとしたら……二人であること。
「カンナ」
呼び掛けると視線が重なる。何も言わない、伝わるはずだから。カンナも僕を信じてくれているし、僕も信じているから。
互いに頷くことも何もせず、すぐに正面を見て──もう一度だけ、ウミナリへ向かって僕は駆け抜けた。
「呆れるわ、センチ。無駄だと──」
人形は、あくまで人形……従順であるが、それ以上も以下もない。
ただ従うだけ──だから
「カンナぁぁああ!」
裏切ることもなければ、信頼することもない。喜怒哀楽もない
──生きていれば傷付くことも多いけれど、信じられる相手を得た時の喜びが分からないなんて哀れだ。
人形は血の通った体ではない……生身ではないから。
文字通り、血──僕は自身の腕を相手に向けて、切り落とす勢いで思い切り、切りつけた。どれくらいの深さなら叶うか分からなかったが、少なくともウミナリの気を引くことは出来たようだ。視線がこちらへ集中する。幸いなことに飛び交う血飛沫は彼女の目元も汚した。
「センチ、なんてことを!」
人形には感情がないが、操り手は生身だ。揺さぶるようなことができれば、きっと。所詮一人なのだから、庇う人はいない。しかも血でウミナリの視界は遮られ、慌てて眼鏡を外そうとする。
──その刹那に生まれる隙を、待っていた。
まさかこの瞬間に僕が自分自身を傷付けるとは思いもしなかっただろう。一人で戦う時は攻めと守りしか意識しないはず。誰かに託すために、自分を犠牲にする選択肢はない……一人だから。
でも僕達は二人だ。しかも、カンナが一緒なら……危険も怖くない。
失血する前に片をつけてくれる──カンナを信じているから。
「っああああ!!」
タイミングを見計らったかのように、目標を変えたカンナが……ウミナリの元へ飛び込んだ。人形は動かない。
──いける!
僕達なら勝てるはず──人形と違って、互いを見てきた二人なのだから。
そう……思った。
「貴方の身体を傷付けるだなんて、なんて勿体ない」
ウミナリの言葉と同時にカンナの体が宙を舞った──落ちる時にどさりと鈍い音を伴った。
「カンナ!」
──絶対に、追い付けないはずなのに。
この距離に、標的の変更……何より一瞬の指示遅れ。それらが重なれば追い付けない段取りだったのに。
等身大のマリオネットはカンナを蹴飛ばし、何事もなかったのようにウミナリの隣に立っていた。
「なんで……」
左腕から流れ続ける血は床を汚す。うずくまったままのカンナに駆け寄る余裕すらなく、立ち尽くす。
「だから言っているでしょう。この人は優秀なの。何のためのマリオネットだと思っているの──生身の人間を超越するためよ」
人形を倒せない。ならばと宿主を攻撃しようにも及ばない。二つを繋ぐコネクターを破損することすら叶わない。
──力が抜ける。
膝からがくりと砕け落ちる。立っていられない……いやむしろ立っている意味などあるのだろうか。
ぽたりぽたりと、足元で大きくなっていく赤い水溜まり。時折ぽちゃり
と大きな音。そんなものしか耳に入らない。
次の考えを、策をと思うのに……思考が働かない。追い付かない及ばない。
僕は──この人に勝てない。




