体の記憶
一段、一段……ゆっくりと階段を降りる。
唖然としながら、真実を飲み込む。もう驚くことなんてないと思っていたのに。
世界のことだけでなく、自分自身のことすらも、把握出来ていなかったのだと──。
「なに……これ……」
黒い器械を手から下げながら、階段を下った先の空間に立つ。一階にはカンナと、あの男と──カズエ兄さんが揃っていた。
おはようの優しい響きも……重くのし掛かる。
「降りてきて大丈夫なのか」
昔に戻ったような穏やかな表情で、僕の体を心配してくれる。
僕の──からだ。
カンナは無言のままで目も合わさず、俯いている。アイツは興味無さそうに缶詰を頬張っていた。
兄さんは……反応がない僕を不思議そうに見つめ、首を傾けた。
「……センチ?」
すると気付いたのか、視線を僕が手に持つ物へと移す。
「何を持ってきた?」
兄は知らないようだ、これが何なのか。僕は答えない。
「ごめんなさい……」
「カンナちゃん?」
うつ向いて、手を握り締めたまま、僕の代わりにカンナが答えた。
音を録音するものだと。
「カセットテープか。珍しいのぉ」
一瞥してきたアイツが正式名称を告げる。詳しいのは意外だったが、正直名前などどうでもよかった。
「どうしてそんなものが?」
「昔……うちに給付がありました」
「昔? 今頃引っ張り出して、どうし──」
兄さんの中で、何かが繋がったのかもしれない。音、記録……昔。
低い声……少し前に戻ったような冷たい口調で、尋ねられる。
「──中身は何だ」
僕は沈黙したまま、カズエ兄さんを見つめるだけ。カンナは背中を丸くして……つぐんでいた口を、開いた。
「お姉ちゃんの……です」
目の色が変わった兄さんが、手を机について身を乗り出した。
「ちょい、カズエ! 危なかろう! どないした!」
突然暴れ始める兄を、隣に座っていた男がなだめる。急なことだから口にフォークを入れたまま、上半身を抑え込んでいた。
それを静かに……僕は眺める。
「カンナ……これ、本当なの」
一度唇をきゅっと結び、それから再び口を開く。
「──うん」
「何が入ってる……アイツは何を残した!」
兄さんの荒げる声にも、僕とカンナは決して慌てることはなかった……表面上は。
「いつのだ──いつの時期のものだ! 何を話した!」
「おい、カズエ! 落ち着かんかい! 何事じゃ!」
椅子から落ちそうになる……いや、既に半分くらい落ちているのをアイツが支える。
自分でも驚くほど、冷静に、淡々と、確かめたいことを声に出した。
「僕の手足は──」
「やめろ……」
「兄さんと、オトナシの?」
「言うな……」
「兄さんが、くっつけた──?」
「やめろ!」
拳を握り締める。突沸となった感情が言葉と一緒に洗いざらい、全て吐き出された。
「何で言わなかったの!」
兄が負けじと叫ぶ。
「言える訳ないだろう!!」
躊躇のない答えに、逆にこちらが尻込んでしまう。
「言えるわけ……ないだろ……」
そして──崩れ落ちる兄。暴れるのをやめて静まり、その場で脱力した。
「俺が……原因だ……俺が、あそこに……行かなければ」
全ての始まりは俺だ──震える声で紡ぐ。
「こんな姿を、見られたくなかっただけなんだ……ごめん……ごめん、オトナシ……俺がちゃんと伝えていれば、お前達までこんなことに……」
繋がれた声は聞くのがやっとの弱々しい音。まるで赤子のようにか細くて……何も返せなかった。
兄さんを椅子に戻して、男は鋭い視線を僕達に送ってくる。
「よう分からん──聞かせろ。別にそこの坊の事情に興味はないが、カズエの主治師はわしじゃ。事情を知る権利はあるやろう」
嗚咽を漏らす兄の肩を支えながら、あのミキという男が言う。カンナを見ると、ようやく面をあげて……目があった。互いに頷く。
唯一気掛かりなのは兄さんだったが……構わないと、震える泣き声で応えた。
僕も机に掛け、巻き戻したカセットテープの電源を再び入れる。今度は四人全員で耳を傾けた。
沈黙を破ったのは、アイツだった。
「……大罪犯したとは聞いとったが、あすこに行ったことだったんか」
多少の落ち着きを取り戻した兄さんは鼻をすすりながら、ミキと言葉を交わす。
「知っていたのか……」
「じっちゃが昔、教えてくれてな。呪われとるけん絶対行くな言われたのを子供心に信じとったが──」
アイツは頭の後ろで腕を組んだ。缶詰は空になったのに、口にはフォークをぷらぷら咥えたままだった。
「どう考えても、そら見せしめとちゃうんか……実際お前等以降、あすこに行く輩は現れとらんやろう」
「分からん……」
「政府は何を考えとる……幾らなんでも過剰とちゃうか……?」
難しい話を始めたが、僕の関心事はそちらではない。
まだ目が赤い兄さんに頭をさげる。
「怒鳴ってごめんなさい……」
「言わないことを選んだのは俺達だ……お前に擦り付けて悪かった」
言い争うのも二回目。腹を割って話した後だったので、頭が冷えるのは互いに早かった。
「もう隠してること……ない?」
「さぁ……どうだかな。色々あったからすぐには思い出せん」
「もう……」
ふざけているのか、真面目に言っているのかも分からない。兄さんが小さく笑う様は、僕には自嘲にも自虐にも映った。
「なんで話してくれなかったの。そりゃ知ったところで何か変わる訳じゃないかもしれないけど……」
「悪いとは思った……けれど、お前は言わば巻き添えだ。責任は俺達にある。だから──嫌な記憶を消してやりたかった。健忘作用のある鎮静薬も大量に使ったが」
兄さんは話しながらカンナを盗み見る。彼女は変わらずうつ向き、黙ったままだった。
「……ショックが大きかったせいか、見事にお前は解離性健忘を発症した。何故痛いのか、手足が上手く動かせない理由も分からず……毎日泣き叫んでいたが……そこも覚えてないだろ」
手の平を広げて視線を落とす。白く細長い指は女性的で、昔から好きではなかったが……今ではそんな好き嫌いでは言い表せないものがあった。
やはり辛そうに話す兄さんを見るのが嫌で、極力いつも通りに話すことを心掛けた。
「うん、あんまり……二人が看病してくれたの?」
「オトナシが特にな……献身的と言うには病的だったが、俺もかっとなってアイツを責め立ててしまったから……何も言えない」
当時を語られても本当に──何も思い出せなかった。
一呼吸置いてから、カズエ兄さんは続ける。ミキはちらりと僕等を横目で確認していた。
「それからは……今のお前に繋がる。自身に起きたこと、周りの変化に気付かず……おかしくなった後の世界を本来の環境として受け入れた──軟禁に近い生活も」
少し考えてから……尋ねる。
「それが結果的に──無知のままで僕を生かしてきた?」
兄さんは頷いた。
「もうあんなことは起こさない、思い出させない──お前を必死に守ろうとするオトナシを邪魔することは出来なかった。見て見ぬ振りを貫いた……すまない。俺のせいでもあるのに……とても言えなかった」
もう一度謝る兄さんに、首を横に振った。
「覚えてないけど……その場所に行くことを選んだのは、僕だ。二人だけが悪いなんて思わない」
兄はそれでもまた、すまないとただ繰り返した。
カンナが話した、オトナシとカズエ兄さんが守った僕の世界──その意味をようやく理解する。
僕は話を噛み締める。何度も何度も反芻して、意図を確かめる。事実を見落とさないように。
兄さんは目を泳がせていたが……少しすると再び話を始めた。
「それに……今のお前なら分かるだろうが、他人の四肢を、しかも二人から同時に移植するなんて正気の沙汰でない」
「……もしかして」
そう聞くと再度頷く。
外の世界との接点を持たせない──そのためだけだと思い込んでいた。
けれど、きっと……まだあるんだ。
「──免疫抑制?」
「ああ……」
そのまま悲しげに目を伏せる。
「移植──政府のその技術には目を見張るものがある。その結果が今のお前だが……同時に必須となるのが、免疫系への介入」
「ほう」
突如、口を挟んできたのはあの男。黙っていたのに興味を持ったのか、こちらに向き直った。
「つーことは」
「ああ──今のお前の体は、通常の免疫系とは異なる。特定の免疫が皆無だ」
「だから余所モンの臓器も受け入れるし、逆もしかり。拒絶反応も起きにくいっつう話か。そらかっこうの餌食やな」
「ミキさんは余計な話つっこまないでください」
ニヤニヤと口角をあげて、物珍しそうに僕を上から下へと見るアイツの視線がとてつもなく不愉快。恐らく盗られた腎臓の話をしているのだろう。
それもカンナが威圧してくれたので相手にせずに流す。安価な挑発に乗るより、自身を知ることを優先すべきだろう。僕はカズエ兄さんを見つめた。
「じゃあ、引きこもりの生活だったのは──」
「お前自身のためでもある。何が原因で合併症を起こすかが分からなかったからな。幸い……その後は大きな問題もなく、無事育ってくれた」
ふぅと、兄さんからは大きな溜め息……主だった関わりは無かったが、僕が成長するのを心配しながら見守ってくれていたのだろう。
──そう思うと、嬉しかった。
「……何を笑っている」
「え?」
自然と緩んだ口元は、指摘を受けるまで気付かなかった。自分で、はっとして両頬を触った。
「真面目な話しとる言うに、緩いのぉ」
「……お前に言われたくない」
ミキを睨むが全く効果はなく、アイツは鼻で笑ってカンナの方を向いた。
「んで──なしてカンナちゃんは突然こんなモン、ほじくり返したん」
「センチが……知りたいって」
「そりゃえらい進歩やの」
はは、と笑う姿が本当に腹立たしい。口を開けば悪態か嫌味ばかり。どうしたらこんな風に育つのか知りたい……いや、やはり知りたくない。
僕達の悶着はともかく、カンナは兄さんに向かって頭を下げた。
「カズエさん……何の相談もしないで勝手にすみません」
「いや、二人は正しいさ。留まらせていただけで、今が動くべき時なんだろう──人を傷付けさえしなければ、知りたい気持ちは踏みにじられるべきじゃない」
──知りたい気持ち。
その言葉で、僕はふと思い出す。
朧気で、曖昧で……でもとても大切な気持ちを。
「ねぇ、兄さん……」
「なんだ」
「僕に……外の世界の話、してくれたよね?」
別段責めるつもりではないのだが、どうしても話の流れでまた落ち込んでしまう兄さん。そうではないと、慌てて取り繕う。
「思い出したんだ。小さい頃、外の世界を見たい……知りたいって思ったのを」
「思い出した──?」
「うん、コロンといてね」
名前を出すと……やはり苦しくなった。けれど彼が取り戻してくれた大切な記憶を確かめる。
「外の世界……兄さんは見たの?」
きっと──その代償はあまりにも大きかった。
辛い記憶も伴うのだろうが、細めた目は……ふっと、優しく揺れた。
「──ああ」
「どんなだった?」
「外と言っても見えるところまで……海までだった。他の大陸は遠いのか、とても見えなかった」
「海──」
机の上で、もう音を出さなくなったカセットテープを見つめる。
オトナシが残した外の記録。眩しい光に、一面の動く水……きっと本で読んだ海というものに違いない。
「僕も……見たのかな」
兄さんから聞いて、憧れて、見たいと強く願った外の世界──。
カンナとミキの視線が僕に集まる。カズエ兄さんは静かに頷いた。
「そうだと思う」
「兄さんと同じ景色を……見ていたんだね。見られたんだよね」
「……ああ」
とても、嬉しかった。
──願いは叶っていた。
たとえ記憶に無くても……僕の夢は叶えられていた。幼い自分が叶えてくれていたのだと。その事実はとんでもなく嬉しくて胸に手をあてた。
「センチ……?」
突然黙った僕を心配したのか、カンナが顔をのぞきこんでくる。
「──いつかカンナも、見えるといいね」
外の世界を──想像出来ないのか、カンナは僕を無表情に見つめたままだった。
その後は起きてきたノゾミによって、話は自然と逸れていった。
「なんやノゾミちゃん、お寝坊さんやなぁ」
──いつの間にか、ミキに懐いていたのは想定外だったが。
「コイツは極悪人だから、あんまり近付いたらダメだよ」
「坊はねちっこいのぉ、いつまで根に持っとんねん。もっと客観的に現状見えるようにならんかいな」
「はぁ? 自分のやってきたことを棚にあげるのは年上としてどうなの?」
カンナとカズエ兄さんから呆れた視線を受けた気もしたが……気のせいだろう。