無知からの脱却
それから──しばらくはひっそりと暮らした。家から出ない引きこもり生活は、以前と違って物足りなく感じたが……同時に安心感もあった。心身の回復を待ちながらゆっくりと過ごす。
幸いなことに、あのミキという男は朝晩二回患部を見に来るだけで、顔を合わせることはほぼ無かった。主な対応はカンナが担った。
ノゾミはと言うと、最近はカズエ兄さんに始まり他の人にも遊んでもらえる機会が増えたことに味をしめ、家の中をうろうろしている。僕の部屋にいないこともしばしば。
結果──カンナと二人でいる時間が多かった。まともに顔を合わすのは幼い頃以来。決して気軽にあれやこれを話す訳でもないし、むっすりして無言のことも多いが……今までの冷たい態度は鳴りを潜めていた。
『お姉ちゃん、どこ』
──そう言ってきた心中を今になって察する。
ドレーンが抜けた箇所を黙々と消毒する彼女を見つめながら、話し掛ける。
「全部……分かってたの?」
手の動きを止めず、特に反応もないが……否定もなかった。
──気付いていたのだろう。
気になって気になって仕方なくても、誰にも訊ねられなかったことを口にする。
「カンナ……聞いてもいい?」
「答えられることなら」
「何で……オトナシじゃないといけなかったの」
人形の中枢──それが彼女だと伝えられたが未だ受け止めきれずにいる。
だけどランさんはキドを、コロンは……家族を犠牲にしていた事実を知った。
「人形は……身近な人じゃないとダメなの?」
処置の片付けを始めるカンナ。僕は服を直しながら彼女を盗み見るが、目線は合わせてくれなかった。
「……大方のパーツは最悪誰でもいいんだけど」
こちらを見ることはないが、ぽつりぽつりと語り始めた。
足りない知識をカンナに分けてもらう──。
「大方? じゃあ……」
「動かすのに最低限必要な脳とかの中枢神経系は、関係ない人だと全く使い物にならないんだって。情報伝達が極端に遅くなるから」
一呼吸置いて、彼女は続けた。
「だから絶対必要なのは──血縁者か、親密な間柄の人」
「家族とか……親友、恋人ってこと?」
「うん。近い遺伝子を持つか、強く刺激できる関係だとちゃん反応するんだって。相性の問題もかなりあるらしいけど」
親密──その言葉で明らかだった。
「それが……オトナシじゃないといけなかった理由──」
頭を抱える。
「僕と親しかったから、人形に選ばれたってこと?」
「……確かに、この上ない相手だったんだと思う」
痛む頭に、こめかみを押さえる。この数日で怒りに泣き疲れ……荒ぶる気持ちはある程度、発散されていた。関係のない彼女に感情をぶつけるのは間違いだと、抑制出来るほどには落ち着いていた。
この上ない相手──人形のために使われていい命などない。以前ならそう叫んでいただろう怒りを飲み込んで、感謝を伝える。カンナの知識を教えてもらうことで、新しい情報を吸収出来るのだから。
「皆……同じなんだよね。そうやって、やってきたんだよね」
家の中に閉じこもり、世とは隔離された世界で培った価値観のずれを、より一層認識──。
彼女は無言で頷いた。
「そう……マリオネットをする人は、誰かを差し出して参加してる」
同時に、オトナシ自身が気持ち悪いと吐き捨てていた理由も明確だった。カンナも決して肯定的ではないし、人としての気持ちと葛藤しながら妥協、諦めてきた……それが正直な印象だった。
「そこまでして、やる必要って」
「政府が推しているのもあるし、アンタが一番分かっているんじゃないの」
そうだね、と静かに返す。
勝てば欲しいものが手に入る──僕の場合は食糧だったが、今回の件で上限が限りないことを身をもって知った。想像するに恐ろしいが、荒んだ生活の中では確かに魅力的だろう。
──だとしても、到底許容出来ないが。
「だから……分かった? 」
「え?」
「皆がアンタのこと、気にしていた理由」
考え込んでいると、突然全く違うとも思える話を振られる。単語だけでは何のことか理解出来なくて、尋ねると……コロンの名前が出た。
「カズエさんにも止められたでしょ」
「ああ……」
窓の外から遠くを見る──懐古には到底及ばないが、遠い昔のように感じられた。
「アンタが……人形にさせられないかって」
キドの忠告も思い出す。人のことなど気にする余裕なんてあの時は無かったはずなのに……最後の真剣な表情を思い返すと、胸が苦しくなった。
けれどコロン──彼が悪いとも到底思えなかった。そう長い時間を共に出来た訳ではなかったが、嘘をついているようには決して思えなかった。
「お母さんと妹さん……犠牲にしたって本当?」
「母親は病気で、自ら志願したはず。でも負け通しで壊されて……妹を殺して使ったって噂は有名。本当かは知らないけど」
「でも、所詮噂でしょ……」
「まぁね──だとしても、人形の代償となった人の死を受け止めきれていない。これは事実」
笑顔で家族の話をしていた彼を思い出す……嘘偽りなんて全く無かった。彼の中では家族はきっと生きて、一緒に生活していた。母親も妹の姿も見えていたに違いない。
「そうさせたのは……自責の念だ」
優しすぎた故にならざるを得なかった──僕にはそうとしか思えなかった。
「でも……そっか」
ふと笑うと、カンナは怪訝な顔をした。
「僕とコロンが、親密に見えたってこと?」
「そうだと思ったけど……なに笑ってるの。気持ち悪い」
「ひどいな……」
僕達は、キドとランさんのような関係とは違う──ああにはなれなかった、なれていなかった。苦しみを理解してあげらなかった。
──それでも、僕には大切な友達だった。
「ありがとう……」
変わらずカンナは変な顔をしていた。
それからも、少しずつ話を聞いた──主にマリオネットに関することを。
近しい人が必要なことに始まり、初期設定では従命のための中枢神経系、良くて瞬発力の起源となる心臓までしか入っていないこと。パーツと呼ばれる各々の器官を追加することで、人形の機能は向上される。ただし条件は……違う個体であること。
「違う人ってこと?」
「中枢の人とね」
人形師と物々交換も可能だが高価なので現実的に困難。実際は、二つある臓器であれば自らのもの入れることも……チームに人形使い以外がいるのはそういう貢献者を含むからだそう。それから……コロンがされたように、他者から奪取する場合と様々。マリオネットが関わっている限り、人を殺しても咎められることは一切ない。
あえて複数人から構成される理由は──優れた機能のため。病気の臓器は好まれず、健康体や生前に優れていたものを組み合わせるのが良しとされている。良質であれば、その分人形の性能もあがるらしい。
「つぎはぎだらけ……フランケンシュタインみたいだ。人の体を取っ替え引っ替えにして、信じられない……」
「そういうものだって、思ってるから」
知らないことが多過ぎる──オトナシと家にあった本から得た知識だけでは、世間の価値観との間に溝が大き過ぎた。引きこもりの代償でもあるが、この溝を埋めるには今のままではとても足りない。
そもそも……こんな人形の制度自体がどうかしている。机の上に置かれ、カプセルが入ったままになっている鞄を見た。
不快感を持っていても、異を唱える者はいない──不思議に思えた。
──知らなければと。
僕はカンナを見つめる。改めて頭を下げる。
「もっと教えて欲しい……僕が知らない、この世界のことを」
傍らの椅子に座り、うつ向き加減のカンナ。ゆっくりと瞬きをしてから、顔をあげた。
「嫌なんじゃないの、ここのこと」
「そりゃ嫌だよ。出来たら知りたくないよ」
でも──知らないと何も出来ない。そう伝えると、オトナシの面影がある瞳に自分が映った。
──これ以上、無知で無力の無意味なままでいたくなかった。
だからと、続ける。
「助けて欲しい──カンナの力を貸して欲しい。虫のいい話だと思うけれど……」
この数日の間、共に過ごしただけの関係と言われればそれまでだ。せっかく近くにいたのに、この数年の間、まともな会話もない距離だったのだから。
けれど僕がそこまで言えたのは、カンナとの空気感。上手く言葉に表せないが、敵意を感じない──オトナシの過度な庇護とは違う、また否定ばかり訳でもない妙な感覚。勿論素っ気なかったり冷たいのは相変わらずだが、話し始めてから刺さるような鋭い視線は無くなっていた。
言ってみたものの、なんて馬のいい話だろうと気まずくなり、視線を反らしてしまう。返事がなかなかないので、こそっともう一度見つめると……カンナは何か考えている素振りだった。
「──お姉ちゃんが守ってきたアンタの世界が崩れるよ」
ようやく発した言葉はそれだった。
「守った……?」
「ううん、お姉ちゃんだけじゃない……カズエさんも──」
少し悩むような仕草。彼女が何を言わんとしているのか、その時はまだ分からなかったが……関係なかった。
答えは──決まっている。
「何も考えない人形でいるのは、もう嫌なんだ」
あの時、カンナ自身から言われた言葉を思って伝えた。
「……明日また来る」
返事を貰うことは出来ず、彼女はそのまま部屋を出ていった。閉じられる扉を静かに見送った。
早朝──バタンと突然開く扉の音に目を覚ます。何事かと驚いて反射的に起き上がった。
「カンナ?」
余りにも早すぎる時間に頭が回らない。少しうなったノゾミも眠気に勝てず、目をまた閉じていた。
けれどカンナはお構いなしに仁王立ち。昨日と違い、何処か吹っ切れた表情だった。
「行くよ」
「え?」
「リハビリ」
──意味が分からない。
思いつつも、とても口にすることなんて出来ない。言われるがまま軽く身なりを整えて、誘導されるまま外へ向かう。
あの一件以来の久しぶりの外だった……何も変わらない。やはり世界は何も変わらない。当たり前だが、人が死んでも変わらない世界は無情に感じた。
「遅いよ」
ずっとベッド上の生活だったので格段に体力が下がって、すぐに疲れるが……悟られないように必死で着いていった。
街から離れているので元より人気の少ない場所、朝早くともなれば尚更だった。何処に向かうのかと心配になるも、何てことない──とても近場。
「……え」
「早く」
──カンナ達の家だった。
玄関先で躊躇。
「でも」
「お母さんまだ寝てるから。早くして、静かに」
手を引かれるまま、中へと招かれる。敷地内に入ってからは言葉は交わさず、着いていくだけ。
──少し、懐かしい。
幼い頃に来た記憶が微かに残っていた……明るい色で飾られた女の子らしい部屋。楽しい思い出もあるが、彼女の母親に嫌な顔をされる度に、足が遠退いた場所でもあった。
「こっち」
居間を抜けて、二階の片隅の部屋へ向かう。家の中は誰もいないように静まり返っていた。
立たされたのは一つの扉の前。
「ここ」
カンナが呟いて戸を押す。開けた瞬間に舞う埃と、漂ってくるきな臭さ。閉めきられたカーテンは光を拒否していた。
「ここは……?」
「──お姉ちゃんの部屋」
鼓動が一瞬にして跳ね上がった。見る目が変わる。目を見開いて、全てを記憶に刻もうと辺りを見渡した。
物が少なくて質素な部屋。真ん中に大きなピアノがあるが、それ以外は何もない物悲しい空間……思った記憶の中とは全然違っていた。
──彼女に何があったのだろう。
ピアノに触れる。きっと高価なのに埃が被り、手入れもされず……もう持ち主は戻ってこない。冷たい鍵盤を音が出ないように、そっと指でなぞった。
「オトナシ……」
感傷に浸っていると、肩をとんとんと叩かれる。振り返るとカンナは部屋の隅を指差していた。
「何?」
ここからではよく見えないので近付いて確認するが……やはり正体が分からない。床に散らばっていたのは黒い器械で、両手で持ち運べそうな大きさ。幾つか押す箇所があるが、下手に触るのは怖い。その周りには二つの穴がある透明な物が幾つも散らばっていた。
「何これ」
答えずに、カンナはその黒い器械と透明な物を一つ選んで持ち上げた。
「戻るよ」
「えぇ……」
振り回されている気しかしなかった。何の説明もなく、ひとまず言われるがまま自分の家へと戻る……幸い、彼女の母親と出くわすことはなかった。
そうして──部屋に戻ると、先程の器械を渡される。やっと答えを教えられた。
「音を記録出来るんだって」
「音?」
彼女は三角の印がついた箇所を押すと、確かに音が流れ始めた。がさがさと衣擦れの音に、床がきしむ音……面白く、不思議だなと聞いていたが
「え──」
懐かしくて、聞き慣れていて、でももう聞こえない音。唖然として、驚きの余りに……声も出なかった。
「お姉ちゃんの声……入ってる」
彼女が言う通り、それはオトナシの声。間違いない、聞き間違えようのない、ずっと傍にあった声……人形と繋がった時に聞こえてきた悲しい歌声。器械を触る手が震えた。
「こ、これって……」
情けないことに声まで震えているが、抑えることはとても出来なかった。
「……私、下にいるから」
一人で聞けと言うことだろう──カンナは決して目を合わせることなく、そそくさと部屋を出ていった。
雑音が入り交じる音の中に、かつての隣にいた人の存在。音を聞くと、二人きりでいるような錯覚すら覚えた。
けれどそれは、彼女の独り語り──。
「オトナシ……?」
雨が嫌い──その台詞から始まった話に。語り口調は、自分が知っている彼女のものとは全く異なる。
僕はただ耳を傾けた。
『──雨。
最悪の雨。こんなことになるなんて最悪。最悪。最悪。誰か死んでしまえばいい。死んでしまいたい。でも死にたくない。
誰が悪いの? 私なの? それともカンナ? センチくん? やっぱりカズエ?
それとも──この世界なの。誰も悪くない。誰もが悪い。
何かに訴えたい残したい書きなぐりたい。どうにかなりそう。
書きなぐるための手も、ピアノを弾くための手も……もう無いけど。
ねぇ……何がいけなかったの?
私の全てを奪った雨が憎い』