兄の死
【人形】
知るとは、知っているとは何だろう。何処から湧いてくるのか。
知識とは、知恵とは。常識とは何をもって言うのだろう。
──無垢は純真。
『そのままでいいんだよ』
──無知は怠惰。
『何も考えないなら人形と同じ』
知ろうとしないことが罪なのか、教えないことが咎なのか。
いつか言われた言葉を思い出しながら──友人の割かれた腹に溜まる雨をただ眺めた。
──何も知らない。
思い起こせば、何も知らずに彼女達に生かされ、庇護を受けていただけなのだと。
思い起こせば──兄が死んだあの日から始まったのだと、思った。
「千智」
聞き慣れた優しい声で目を覚ます。とても心地好い響きで、綺麗な声……鈴を転がしたとでも表現するのだろう。
「朝だよ。起きなきゃ」
目を開けると、クスクス笑う彼女の顔が世界を占めた。
起こすのなら揺さぶるなり他の方法もあるだろうが──彼女には手が無い。正確には腕が、上腕から下半分が無かった。だから起こす際にはいつも優しく呼び掛けるだけ。
ベッドの前で膝をつき、楽しそうに顔を覗きこんでいる。そのせいで、長い髪が僕にも少しかかった。
「起きたって、やる事ないよ」
「そうだね」
布団の中でうとうとしたままだが、彼女は決して怒らない。
「……音無はいいの?」
「いいよ。こうやってセンチを見てる」
恥ずかしいから止めて欲しいと言っても、いつもの調子で続けた。
「センチはそのままでいいんだよ」
オトナシはいつもと同じ言葉を繰り返した……いつもと同じように。
だけど起きないことを許さない小さな影が、体の上へと勢いよく乗ってくる。
「せんち、ごはん!」
寝起き早々、腹部に圧力を掛けられるのは負荷が大きいので止めて欲しいが……幼いこの子に言い聞かせるのは難しいだろう。
「分かったよ、望」
──これが日課。
家の近い幼馴染のオトナシと、彼女の家族の幼いノゾミ。二人と日がな一日過ごす日常。
オトナシは母親と上手くいっておらず、ノゾミは精神遅延の様子があるせいかぞんざいに扱われるらしい。二人ともうちで大半を過ごし、ノゾミに関しては心配なのでほぼ預かっていた。
──何も悪いことはしていないのに。
詳しい事情は知らないが、少なくともノゾミに対しての扱いは理解出来なかった。こんなにも純粋な子を毛嫌いする理由が分からない。
そういった経由もあるが、オトナシの他の家族は、正直僕自身も苦手だった……彼女の母親と、もう一人の妹が。会う度に冷たい視線を浴びせられるから。
だけど、彼女の親を含め、他人との接触を回避することを特段責められることもなく──そうやって僕達は小さくささやかに生きていた。
「ごはん」
「分かったよ」
ノゾミの体を抱えて、僕はベッドから起き上がった。
一階に降りるが……誰もいない。分かり切っていたことだが、真ん中の大きな机で僕達三人は朝食を済ます。食事と言っても、支給される缶詰だけと質素なもの。
終わった戦争の影響で、農作物や畜産を営むことは困難……食糧管理の苦肉の末、政府からの配慮だった。支給される基本量は少ないが、兄達のお陰で食いっぱぐれることはない。
──甘えている。
理解しながらも、現状維持を続けてきた。兄達が稼ぐ缶詰を食べ、オトナシと家の中で過ごすだけの日々。
──随分会ってないな。
うちにも兄は沢山いる……いた。恐らく今も家の地下にいるだろう一つ上の兄と、外を出歩いているだろう暴力的な二つ上の兄。後は死んだそうだ。
誰かが死ぬ世界、人が冷たい世界……外へ出ることに何の期待もない。
──小さい頃はもっと沢山の憧れを抱いていたはずなのに、その記憶は遠い彼方。
それでも、こうやって三人で過ごす時間が愛しいのは……紛れもない事実だった。
部屋に戻ると、頼まれて小さなピアノを弾く。白い細長い自分の指は好きではなかったが、彼女がうっとり眺めてくれるこの瞬間は嬉しく思えた。音に合わせてオトナシが歌うと、ノゾミは気持ち良さそうに眠ってしまう。
「オトナシの声は綺麗だね」
音が無いという名に反して、彼女はいつも歌を口ずさみ、その響きはとても清らか。透き通った硝子のようで、少し儚くもあった。
ふふ、と妖艶に笑う。
「私はいつでもセンチのために歌っているよ──いつでも、センチの隣で歌っているよ」
そう言って浮かべた笑みを、僕は永遠に忘れられない──。
夜は泊まって、同じ空間で眠った。
しかし、家に戻ったのか……次の日の朝から、彼女が僕を起こすことはなかった。
遅めの朝御飯をノゾミととっていると──珍しいことが起きた。
地下へと続く扉の開く音で、視線がそこへ集中する。
「万笑兄さん……?」
一つ上の兄が現れて、驚いた。顔を合わせるとは随分久しぶりだったこともあるが……他の兄達とは違い、憧れの兄だったから。小さい頃は一緒に遊んでもらったし、色んな話を笑ってしてくれた記憶が微かにある。
今は……笑わなくなったが。
それでも会えたことが嬉しく、慌てて駆け寄った。
「どうしたの?」
と言うのも──カズエ兄さんには足がなかった。膝より下が欠損。腕の力で床を這うことが必要だから、少しでも負担を少なくしようと自ら近付く。
昔、一緒に走って遊んだ覚えもあるが……記憶がしっかりあるほど大きくなってからは、今の状態が当たり前になっていた。
「いい、触るな」
心配とは裏腹に慣れた様子で階段をあがり、椅子に腰掛けている様は器用。近付いた兄からは消毒薬のせいなのか、鼻の奥がツンとする臭いがした。
「……ご飯食べた? 缶詰持って来ようか」
「いらない」
沈黙に耐えかねて話し掛けるが、冷たくあしらわれて終わる。共通の話題など、もはや持ち合わせていなかった。
兄は細身で、食べるところをあまり見たことがない。時折、別の配給を受けていて、それは口にしているようだった。どうやら政府から特別な待遇を受けているらしい。地下では幾つもの重ねられた医学書を見た。兄は恐らく医者の類なのだろうと理解していた。
──そういうところも、憧れた。
今以上には嫌われたくないので、後は話を切り出すのをひたすら待つ。
そうして目線を合わせず、下を向いたまま待ち続けていると……ようやく話し始めた。
「兄貴が死んだ」
「……え?」
「死んだ」
繰り返された言葉は部屋の中で、静かに響き渡る。
「死んだ」
カズエ兄さんはもう一度、抑揚もなく淡々と繰り返した。
何人も兄がいた──けれど順番に上からいなくなり、この家にいるのは僕を含めて三人になっていた。どの兄も暴力的だったり、意地悪だったから好きではなかった。けれど、強くて体が丈夫だったから……少し驚いた。
「そっか……」
心は動かない。非情だが、別段慕っていなかったし、兄達の死に慣れてしまっている面もあった。
だけど──そんなことを言いたいのではないとすぐに察する。
「あ……食糧」
「そうだ」
配給だけに頼れば一人一日二食分、決して充分な量ではない。隣に座り、ひたすら缶詰を頬張っているノゾミを見つめた。
──僕は構わないけど、小さい子には不充分。
兄さんにも食べてもらいたいが、要らないと吐き捨てられるだけだろう……兄に関しては触れず、要点を確認するだけにした。
「──マリオネット?」
「ああ」
カズエ兄さんは目を伏せたまま頷いた。
マリオネット、人形──僕達が唯一持ち得た共通指標。
勝者が強く、強者が欲しいものを手に入れる……引きこもりの僕ですら知っている世の中の常識。兄達が人形を使って勝利し、食糧などを集めていたことは知っていた。
──実際に見たこともある。
とても……ドキドキした。水槽の中を意のままに動く、人形とは名ばかりの鉄の仮面を被った傀儡。人々に唯一許された争い事でもあるせいか、戦闘となると周囲の熱気も凄かった。
以前ふとした時に見かけた戦いは、観客の歓声や怒声が飛び交い、中心には自由に泳ぎ回る操り人形達。ただただ見惚れた。
それも……オトナシに引き連れられて、すぐに終わった。
──彼女はあれを異常に嫌悪していた。
『気持ち悪い』
見た目は確かに気味が悪い。目玉はぎょろりとひんむき、人工の皮膚らしきもので覆われているが頭部や関節部では金属が覗く。服を着せて誤魔化している個体もあるが、何も身にまとっていなければ異様な姿は一層際立つ。
無表情にそう呟いたかと思えば……またいつもの笑顔で、僕に囁く。
『センチは今のままでいいの。何もしなくていいのよ。早く帰ろう?』
笑っていても言い諭すような、説き伏せるような眼差し。そのせいもあって無意識に避けるようになった。
だけど今は、やりたい気持ち。やらなければいけない責任。今まで甘えてきた罪悪感。でもやはり、彼女が嫌がるのではないかという懸念。
もう一度横をちらりと見る。食べ終えて、もはや缶で遊ぶだけとなっている小さな彼女を見た。
「僕は──」
言い終える前、被せるようにカズエ兄さんは言い放った。
「やるならオトナシは忘れろ」
彼女の鈴のような声が記憶の中で木霊した。
──良いとは思われないだろう。
あれだけ嫌っているのなら当然だ。たとえ食糧のためと説明したところで、受け入れてもらえない可能性が高い。嫌気が差したら、もうここへは来てくれないかもしれない。ずっと彼女といた、それこそ幼い頃から。一緒にいられないのはとても悲しい。
──そうだとしても。
「……やる」
迷わずに伝えると、兄さんはようやく顔をあげた。久方ぶりに目が合って堪らず嬉しくなる。
──それもすぐに終わる。
「わかった」
独り言のような呟きは聞き取るのがやっと。感情は読み取れない、何を考えているのか、ずっと分からない……響きは冷たいまま。
「用意が出来たら教える」
「どのくらい掛かるの?」
「……いいから黙ってろ」
短い会話を済ませると、兄さんはまた地下へと潜っていく。それ以上、言葉を交わすことは無かった。
マリオネットの話を耳にしてしまったのか──それからオトナシが訪ねてくることは、本当に無かった。
家が近いので会いに行こうとするも、玄関先で運悪く母親と出くわす。会釈するが相変わらず睨まれるだけで声を掛ける猶予も与えられず、そのまま家へと入ってしまう。
──扉が閉まる瞬間、内側にいたもう一人の妹と目が合った。
バツが悪くなり、逃げるように部屋へと舞い戻った。
『ねぇ、また弾いて』
彼女が好きだった鍵盤を静かに叩く。ぽろんと、今日は物寂しい。
「かなしい?」
「……ちょっとね」
「いっしょにねよう」
「うん、おいで」
柔らかい肌を抱き寄せ、一緒に毛布をかぶる。ノゾミは楽しそうにきゃっきゃと笑った。
目を閉じる前に、オトナシのあの言葉がまた頭を過ぎる──何もしなくていいと。そうやって過ごす時間は心地好かった。
──でも。
誰かのために。そう伝えればいつかは彼女も理解してくれるだろう。今すぐは難しくて、いつか。
淡い期待を胸に眠り、待つ日々をただ過ごした。