-༠༠༩- 海栗の色
「昔、戦争の時、コヒマはめちゃくちゃになった」
青年が盛り土を見つめながら言うのを、凌はその横顔を見ながら聞いた。
「日本、イギリス、インドの兵士がコヒマに来た。
死んだじいちゃんは、インドの兵士が一番残酷だったって言ってた。
私は小さい頃にその話をたくさん聞いて、どうやってじいちゃんが飢えを凌いだかも聞いた。
ネズミの捕まえ方と皮の剥ぎ方、それに葉っぱや木の根の食べ方。
食料を分けてあげたとき、いつか換金できるようにって日本兵が置いていった軍票のこと。
でも、結局日本兵は誰一人帰って来なかったこと。
イギリスの統治時代に回復したコヒマのことも。
じいちゃんは帰って来なかった日本兵のことを責めていた。
嘘つきだって、信じてたくさん助けたのにって。
でも、死ぬ時に私に言ったのは、このお墓のことだった」
静かだがはっきりとした青年の声と言葉に、凌は戸惑いつつも耳を傾けた。
コヒマで起こった悲劇的な歴史の背景は知っている。
けれど、それは凌にとってはどこまでも歴史としての知識なのだ。
青年がここに凌を連れてきてこの話をすることの意味を、推し量ることができずに戸惑う。
どんな相槌を打てば良いのかもわからずに黙っていると、青年は凌の側を向いて、真っ直ぐに目を見て来た。
凌もその視線に返した。
「この一週間、ここで過ごしてわかったでしょう。
あなたがここで、『のぐ』と名乗ることには大きな影響がある。
私のように小さい頃から、コヒマの子どもはここであった戦争の話を聞く。
それがとても、悲しいことで、悲しい思いをした人がたくさんいたことを教えられる。
皆はあなたが日本人で、『のぐ』だから、仕事の調整をしてまで観光案内したんだよ。
皆、心のどこかでずっと考えているから。
コヒマで死んでいって、ちゃんとしたお墓すら作ってもらえなかった日本兵のことを」
「……考えなしに名乗ってしまって、申し訳なかった。
ダーシャからいろいろ聞いてはいたけれど、俺は全然それを理解できていなかったんだね」
「そうだね、あなたは日本人で、私たちはインド人。
そしてその中でもナガランドの人間。
日本人に対して良く思っている人間も、悪く思っている人間も、いろいろ。
たまたまあなたは日本語コミュニティの皆に助けられたけれど、ナガ族の全員が親日なわけではないよ。
もしあなたが日本のことをよく思っていない人に『のぐ』と名乗ったら、今回のようには行かなかった」
青年は盛り土に向き直ると、目の前にあった長い雑草をいくらか引き抜いた。
「私のじいちゃんは、日本兵のお墓を作りたかったんだ」
言われなければわからない、雑草に埋もれた土を盛っただけの埋葬場。
目を先にやれば、確かに他にいくつもそれらしい隆起がある。
青年はやけくそのように雑草を引き抜いては捨てていたが、やがて肩でひとつ息を吐いて、止まった。
「日本兵には立派な人も、そうじゃない人もいたって。
でもそれはイギリス兵も、インド兵も同じ。
それなのに日本兵のお墓だけがない。
だから待ってたんだ、軍票をくれた兵士たちが戻って来て、自分の仲間たちをちゃんと弔ってくれることを。
それなのに来なかった。
じいちゃんは失望して、日本人は嘘つきだって、いつだって言ってた」
凌は思わず「ごめん」と呟いた。
そしてそれがとても意味のないことだ、ともすぐに気付いた。
「……あなたが謝ることじゃない。
でも、少しだけ、あなたが来てくれてよかった、と思っている。
たぶんここに来た日本人は、あなたが初めてだから」
それを聞いて、凌はおもむろにしゃがみ手を合わせた。
宗教心はないが、悼む気持ちはある。
そして青年の祖父が抱いた気持ちを、有り難いと思う程度には日本人らしい。
様々な時代背景が複雑に絡まってこのままの状態の盛り土は、次の世代の青年が、こうして記憶してくれているのだ。
有り難い、と思った。
「……こうしてここを、憶えてくれていてありがとう」
「……当然のことだよ」
「戻ろう」と青年はひとこと言って車へと足を向けた。
凌も立ち上がりそれに続く。
助手席に着いてシートベルトをしながら、凌は思ったことを口にした。
「とても、日本語が上手いね。
誰かに教わったの?コミュニティで?」
「……ときどき、通訳と、翻訳の仕事をしているから。
それで」
「すごいね、日本語の文章は難しいでしょう」
「始めは。
てにをはがよくわからなかった」
「完璧に使いこなしているよ、日本人でも間違える人いるのに。
すごいな」
「……そうでもない」
ハンドルを切る青年は何かを言いかけて、口をつぐんだ。
そして言葉を選ぶようにしながら「今、日本兵に関する記録を、翻訳している」と呟いた。
「本当に?出版されるの?」
「わからない。
どうしても、内容に政治的な側面が出てしまうから。
日本人の協力者を探したけど、コヒマで会った人は皆、政治的な思想を持つ人ばかりだった。
そうじゃなくて、ちゃんと記録として残したい。
誰かの考えに染まったものじゃなくて」
「すごいね、手伝えることがあれば言って」
「もう、たくさん、手伝ってくれたよ」
「なに?」
「『のぐ』は、たくさん手伝ってくれた」
意味がわからなくて凌は青年の横顔を見た。
どこにでもいそうな、日本人にしか見えないナガ族の青年の顔を。
青年は前を見たまま、呟いた。
「カレーは食べた?」
「食べたよ、辛かった」
「そうでしょう。
日本で食べるインドカレーとは違う?」
「全然違ったよ。
真っ赤で、ライスは紫だった」
「海栗の色じゃなかったでしょう」
「……え?」
一瞬何のことかがわからなくて、凌はぽかんと青年の顔を見つめた。
そしてそれがどういうことか思い当たった時に、青年は告げた。
「海栗の存在を教えてくれたのも、『のぐ』だった。
――私だよ、『ダーシャ』は」
クラクションをけたたましく鳴らし続けている車が反対車線を通り過ぎて行って、その後は車中に沈黙が落ちた。