-༠༠༧- stood up
二時半の約束きっかりにホテルにいる凌を迎えに来た青年は、名を憶えられなかった凌に気を悪くすることもなくもう一度自己紹介をしてくれる。
ニケツという気のいい青年は昨日会ったダーシャのように日本語が堪能ではなかったけれど、「能」について一生懸命語っていたのが印象的だった。
「のう、のう」と何度も言うので何のことかと思ったのだが、まさかそこで歌舞伎ではなくて能に来るとは思わず、選択の渋さに凌は内心唸った。
「ぜあみ、かんあみ」と言われたのを検索して漸く理解できたような凌にはわからない世界だ。
共感できず新たに差し出せる知識もなくて申し訳なくなった凌は、帰国したらもう少し日本の文化について勉強しようと思った。
昨日の内に、予め行きたい場所は話してある。
とはいっても「のぐのお墓に行きたい」と告げただけだ。
その言葉を聞いて誰もが神妙な顔で頷いたので、凌は笑ってしまった。
キリスト教が浸透しているナガランドは、凌がイメージしていたようなインドとはまるで違う。
『Kohima War Cemetery』という場所に連れてこられた。
駐車して、「ここだよ」とニケツが言う。
シートベルトを外して共に外に出た。
とても整備された美しい戦没者墓地だった。
ここには英国人兵士が眠っている。
事前に調べてそれについては凌も知っていた。
ネット越しに見る切り取られた風景と違ってそれは当然ながらの質量をもっていて、均等に並べられた灰色の墓石を目の前に凌はここがコヒマなのだと改めて思う。
物悲しさよりも整然とした美しさと、すぐそばにあるコヒマの活気溢れる街並みの対比が凌の気持ちを捉えて、しばしじっと眺めていた。
その沈黙をどう考えたのか、言いあぐねた様子でニケツは言った。
「日本ののぐ、ここにはいません、ごめんなさい」
「知っているよ」
凌はその不安を拭うために笑って言った。
コヒマ随一の観光名所であるこの美しい墓地は、コヒマを統治していた英国の戦没者のみが埋葬されている場所だ。
撤退し、敗走した日本の兵士がここまで手厚く埋葬されるわけがない。
「慰霊碑、隣の街にあります。
行きたいですか?」
申し訳なさそうに問うニケツに、「いや、ここに来られてよかった」と凌は首を振った。
「日本ののぐは偉かった。
皆ひどいことをしなかった。
今、それを皆で記録している。
遅かったけど。
ごめんなさい」
「どうしてニケツが謝るの」
可笑しくて凌は笑った。
凌が「のぐ」だから、皆気にかけてくれるのだろう。
『ダーシャ』がそうしてくれたように。
凌自身は不幸な結果を生んだ過去の争いについて、思うところは何もなかった。
「俺は『のぐ』だけど、死んでいないよ。
戦ってもいない。
だから、謝らなくていい。
昔のことだ」
どこか割り切れないような顔でニケツは首を傾げる。
もう行こう、と凌は促した。
「日本が来て、ナガは立ち上がった(Japan came Naga stood up)」
帰り道、運転をしながらニケツが言った。
凌は助手席からその横顔を見る。
「ナガ族が戦い続けたのは、日本ののぐのお陰。
ありがとう」
よくわからなくて、凌も首を傾げた。
日が落ちるまではまだ時間があるからと、マザーマーケットに足を運んだ。
店員の顔触れは一様にモンゴロイドだが、ここにきてようやっと凌のイメージするインドを見た気分だ。
色とりどりの果実が並ぶ隣で、猪みたいな豚が寝かせられている。
端から端まで見て歩こうとしたが、すごい人の往来だ。
ニケツが手招くのを、人波を縫うように追う。
店前に出ると日用品を扱う店のようで、既にニケツが凌のことを説明したのか、店主の女性は絶好の営業スマイルで凌を迎えた。
「何か、必要な物はない?あと何日か居るでしょう」
言われて凌は物色した中から黒い靴下とタオルを手に取る。
サイズは大体合うだろう。
ホテルのアメニティも充実していて、特段困ったこともない。
一番困るのはホテルのWi-Fiが低速なことか。
けれどこれはナガランド全体でよくあることのようなので、文句は言えない。
「のぐ……お酒、飲む?」
ニケツが言いづらそうに問う。
「日本では飲むけど。
ナガランド州は禁酒令があるでしょう」
「そう、私は飲めない。
でも観光に来ている人には売ってるって。
ホテルの部屋で飲むのはいいって」
それは法令上そういう風になっているのか?深くは訊ねずに凌は「ならもらおうかな」と言った。
瓶に入った酒は見た目は甘酒のようで、何が材料なのかを訊いてみたら「Rice」とのことだった。
人ごみに飽きが来たところで、ホテルに送ってもらった。
いくらかの食料も手に入れて、今日の夕飯は部屋でそれを平らげようと思う。
夕方からの冷え込みは日中の温かさを忘れさせる位で、凌はまた喉をやられぬようにとシャワー後はすぐに服を重ね着した。
『ダーシャ』はオンラインにならない。
それを眺めながら米酒を煽った。
その後の記憶がなくて、凌はまた、ホテルスタッフに起こされるはめになった。