-༠༡༠- 空の青に足りない。
沈黙の時間は喉をからからに乾かせて、もう生涯声が出せないかもしれないと思うくらいには凌を追い詰めた。
車はディマプールへと向かう道を行こうと車線を変える。
「君が」
やっと出した凌の声は上擦って、隠しきれない動揺が表れている。
それを情けないと思う余裕すらなくて、凌は縋るように言葉を継いだ。
「ダーシャだと、いう、証拠は?」
緩やかな速度を保ったまま車は進む。
時折横断する人を徐行して避けては、さらに遅くなる。
「……何でもいいよ、質問して。
答えるから」
青年が静かに告げた言葉を、その顔を見ることができずに凌は聞いた。
「ダーシャが、一番好きなアニメは?」
「特にジブリ作品、一番はコクリコ坂。
見てから俊の声を当ててる岡田准一のファンになって、彼の出てる映画はほとんど見た。
長澤まさみも好き。
いつか三鷹の森ジブリ美術館に行って星をかった日を観るのが夢。
その他の推しはアンダルシアの夏。
自転車が好きだから」
「好きな、食べ物は」
「タケノコ。
でも母親が嫌いで、他の家みたいに煮物とかカレーに入っていなかった。
独り暮らし始めてから料理に凝ってたくさん食べたけど飽きない。
食感が好き。
好きな飲み物はスタバのキャラメルフラペチーノ。
でも高いからお祝い事とか頑張りたい時に飲む」
「……好きな、日本語は」
「……木漏れ日。
俳句を作る練習をしていたときに知った季語。
意味は……のぐが、教えてくれた」
再び沈黙が落ちて、車は行き交う歩行者をやり過ごすために停まる。
日本とは違う大らかな交通事情に、凌は延々とこの時間が続くのではないかと感じた。
「……じゃあ、見せて欲しい」
捻りだした声は先ほどよりは落ち着いていて、凌は安心した。
「何を?」
「『木漏れ日の丘』」
ぐ、と青年がハンドルを深く握る。
「ディマプールに着くのが遅くなる」
「構わない、君さえ良ければ」
「……わかった」
少しバックしてからUターンする、青年の腕の動きを見るともなく見て、凌はああ、と心で呟いた。
この青年は、きっとダーシャだ。
きっと間違いない。
あの写真の風景を、見るまでもなく。
来た道を少し戻って繁華街を通り過ぎ、車は左折した。
先程とは違う急な坂を登って行く。
言葉なく二人はずっと前方を向き、ぐんぐん近づいてくる空の青を見る。
人通りはなくて、何もかもが静かで、その中の車の駆動音に凌は泣きたくなった。
「……もうすぐ」
沈黙に耐えかねたのか、青年が呟いた。
車は民家がない平地に入って、少し進んでから停車した。
サイドブレーキを引いた様子を傍に感じながらも、凌はフロントガラス越しに見える景色から目が離せなかった。
――ああ、『木漏れ日の丘』だ。
ダーシャがそう名付けた写真をSNSのコミュニティのスレッドに貼り付けたのはもうかなり前だ。
それこそ、彼女がまだてにをはの間違いを指摘されていた頃。
けれど見間違えるわけがない。
ダーシャに会えるように、と願いを込めて、日本を発つ前にPCの壁紙にしてきた程だから。
「……近くで見る?」
小さく訊ねた青年に、凌は微かに頷いて、シートベルトを外した。
綺麗だ。
滑らかな木肌の大きな木だった。
葉も大きく、茂ったその間から光が落ちて、丘の下に広がる住宅街をさながら祝福しているようだ。
幹に触れて凌は樹を見上げる。
語らぬその姿はそれでも平等に凌をも祝福してくれているようで、けれどどうしたところで凌は悲しくてやりきれなくて、破れかぶれな気持ちで腐葉土の広がる樹の根元に不意に寝転んだ。
驚いた青年の様子が目の端に見えた。
空は青かった。
「足りないことだらけだ」
呟いた凌に、何事かを尋ねるように青年が数歩近付いた。
凌は瞬きを忘れて自分に降りかかる光の紋様をじっと見る。
「ダーシャへの理解も、自分の勘違い野郎ぶりへの理解も」
言葉にできたのはそれだけで、くぐもった気持ちが凌の口を閉じた。
そもそもが、画面越しのテキスト情報であるダーシャへの恋慕を募らせた凌が愚かだったのだ。
確かに女性名を名乗ってはいたけれど、『ダーシャ』が自分を女性だと述べたこともない。
そのことに今更ながら気付いて凌は少し笑った。
可笑しくて笑った。
「……騙してしまった。
ごめんなさい」
立ち尽くした青年は本当に深刻な様子で言ったけれど、それすら可笑しく思えて四肢を投げ出したまま凌は笑った。
何もかもわかった気になって、すべてを知っているような気がして、そのくせ何一つダーシャに近付けなかった。
それはそうだ。
凌が恋した『ダーシャ』はいないのだ。
ふと首を向けて見ると、凌よりも青年の方が泣きそうな顔をしていた。
微笑みを渡して、もう一度空を見る。
青くて、凌が知るどの青よりも青くて、その中に落ちてしまいそうで凌はぐっと手を握る。
なにか問い掛けでも投げてくれればいいのにコヒマの空はただそのまま凌を見返す。
叱られている気持ちになって凌は青年と同じように「ごめんなさい」と呟いた。
疑問にすら思わなかった。
『ダーシャ』も凌と同じ空の下に居ると。
ダーシャはいなかった。
空すらも青かった。
凌が持っていたものは思い込みと限られた知識による偏った常識。
これを学ぶためにここに来たのだとしたら、なんと滑稽で、なんて無様で、救いようがない阿呆だろう。
いっそ清々しくて、空から樹の枝を通して零れる光を掴もうと凌は手を伸ばした。
何も掴めずに、凌は笑った。
青年の名は問わずに帰ろう。
きっともう会うことはない。
彼が秘密を明かしたのも、その覚悟があったからだ。
凌は起き上がって体を払い、もう一度空を見上げた。
この青を見ることももうない。
手をかざして日の光を遮り、それを記憶に刻み込む。
『ダーシャ』への気持ちはいずれ忘れて行くだろう。
けれど今日ここで見た青を決して忘れることはない。
未成熟で小さな自分を、それと気付かせてくれたこの青を。
いつか、今後自分をなにか立派な人間だとでも思うことがあれば、この空を思い出そう。
それでいい。
きっといつまでも自分は、未成熟で、迂闊で、後先を考えない愚か者だろうから。
日本の淡い空の下で、違う空があることを思い出そう。
そして自分がこのコヒマの空の青に足りない者であることを思い返して、前に進めばいい。
落ちていた木の枝を拾って、凌は思いっきり空へ投げつけた。
樹にひっかかったようで落ちては来なくて、それが空に吸い込まれたように思えて、凌は笑った。
そうだ、きっといつまでも。
凌はこの空の青に足りない。
読んでくださりありがとうございました。
後日、こちらの作品を書くにあたり何を参照させていただいたか等の情報をまとめて、全体の後書きとして上げさせていただきます。