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仄日

作者: 都槻 郁稀

 あの夕焼けは、永遠に沈むことなく、私の心に焼き付いている。最後に見た夏の夕焼けは、紅く輝いていた。

 七月も終わる、ある蒸し暑い日。私は、私の知らない私に、殺された。


 七月の二十七日、珍しく金、土、日と部活が休みであることをいいことに、級友と遊び歩いた初日の疲れを、午前中を目一杯使って、寝て癒やした。どうせ今年は大会には出られない。来年、高校最後の年に備えて、今のうちにゆっくりしていても罰は当たらないだろう。尤も、射手として選ばれるかさえ不確実なのだけれど。

 遅めの昼食に冷や麦を食べ、自室の畳に寝転がると、突然に、ふっ、と感覚が遠のいた。

窓を突き抜ける蝉の声も、部屋の熱を汲み出すクーラーの音も、カーテンの隙間から差し込む酷な陽射しも、背中と腕に触れる藺草の心地よさも、全て、何もかも剥ぎ取られて、何もない、寂しげな世界の外側へと放り出された。


 深く、水に潜っているような感覚に包まれる。ゆっくりと底へ沈んでいるような気もするが、押しつぶされることも、苦しくなることもない。ひたすらに動かした手足は空を切り、何もできないまま下へ〳〵と沈んでゆく。

形容できない光が遥か遠くから注ぐ。見えない水底へ、ゆっくりと降りていく。

 ついに、光さえも届かない底へと足をつけた。視界が闇に包まれた中、ひとつ、灯りが灯っているのが見えた。それは、小さな家から漏れた、暖かい窓明かりだった。不安を抱えながら、トン〳〵〳〵と、扉を叩いた。程なくして戸が開かれる。おかえり、と言ったその住人は、紛れもなく私自身だった。

 促されるまま部屋へ入る。ほとんど何も飲み込めないまま、二つある椅子の片方に座った。私にそっくりなその人は、執拗に疑問を投げかけてくる。しかし私は、その人から、顔も体格も、服や部屋の好みまで自分にそっくりなその人から、目を離すことができなかった。

「ゆず?」

名前を呼ばれ、目の焦点が変わる。こちらを覗く視線と、私の視線とが重なった。

「え?」

「何かあった? 変だよ?」

視線を逸らす。何かがあったわけではないが、

何もなかったこともない。気分が盛り上がることもあれば、大きく凹むこともあった。その総和は、ゼロだ。

 誰かが答えに詰まり、口を噤んだとき、私は相手の次の言葉を、目線を落として待つ。目の前のその人も、そうした。答えるか答えないかを決める権利は、質問を受けた相手が持っている。

「ねぇ。」

私が一言発すると、もうひとりの私は、バウムクーヘンを食べる手を止めた。

「何?」

「聞きたいことがあるんだけど。」

「一つずつ。」

と言い、カフェ・オ・レの入ったマグカップを置く。

 一つずつ。それは、私が誰かの問に答えるときの常套句。目の前にいる、私の知らない私は、紛れもなく私自身なのだ。

「あなたは、誰?」

認めたくも、疑いたくもない確信を、これ以上揺らさせないために問う。

「私は──」

──二ツ木柚希。もうひとりの君だ。

 目の前にいる人物は、私のような誰かではなく私自身だ。その事実は、今まで私を縛っていた緊張の鎖を断ち切り、安堵させた。

 カフェ・オ・レを口に含む。いつも通りの落ち着く味だ。私が淹れただけある。

「なんでここに来たの?」

もう、ずっと帰ってこないと思ったのに。と柚希が言う。──ここ? 安堵に追い出された疑問が一つ、影を見せた。ここに来た理由。

いや、そもそも私は、どうやってここへ来たのか? それより──

「ここ、どこ?」

「知らないで来たの?」

「うん。」

私らしい。と柚希は笑う。

「ま、私もよくは知らないんだけどね。」

憶測の域は出ないが、恐らくは精神世界。私達の内側の世界だそうだ。ここでは全て、私の思い通りに変えられる。景色も、空間も、時間も、自由自在だ。ただ一つ、生命を生み出すことを除いて。と語る。

「ゆず。」

一拍あって、話題が私に向けられる。

「どうしたの?」

苦しかった。と、私は、私が抱え込んでいる全てを、柚希の前に一つずつ、並べ始めた。

 一つ、世間の価値観と、自分のとが、相容れないこと。一つ、家を継ぐことを期待されていること。一つ、世間と同じ価値観を持つことを、望まれていること。一つ、その為に、自分の中身を偽っていること。一つ、本当の自分を押し殺していること。数え上げれば限りがない。無数に並べられた箱の中身を、柚希はひとつ、もうひとつと覗いていく。

 私は、自分がこんなにも荷物を抱えていた事実を、初めて理解した。

「どうする?」

と柚希が訊いた。私は、抱えたくない、と答えた。

 代わろうか。と言った。柚希に、この無数の箱を抱えさせるのか? 自分で背負い込んだのに? 関係のない柚希を巻き込んでまで、楽をしてもいいのか?

 関係なくないから。と、小さい声が聞こえた。その顔を見ようと前を向いた時、何かが破裂する音が響き、私は再び、暗闇へと放り出された。


 消えたときと同じように、突然に感覚が蘇る。遠くで名を呼ぶ声が聞こえた。

 足の間で眠る黒猫を踏まないように、部屋を出る。一階とを繋ぐ階段の踊り場で、登ろうとした佐々川さんと目があった。

「あ、柚希さん。晩ごはんですけど。」

彼女は二ツ木家の使用人で、今では私の同居人兼保護者役になっている。佐々川さんは、夏休みに入ってから毎日のように、私に晩ごはんの希望を聞いてくる。考えとく、と言葉を返し、二階のベランダへ洗濯物を干しに行く彼女とすれ違い、私はリビングのソファに腰を下ろした。

 誰かが隣にいるような安心感に気が付き、意識を戻した。佐々川さんは二階にいる。今は、いや、いつだろうと、この家には彼女と私しかいない。

 けれど、誰かに呼ばれている気がした。リビングから離れ、二階へ繋がる階段へ向う。一段目に足をかけた時、踊り場にいた笹川さんと目があった。手にされた空の洗濯カゴが、家事の終了か、もう一度洗濯するのかのどちらを意味するのかは知らないが、私は彼女に、一方的に言葉を押し付けた。

「あ、千春さん。今日、山で寝ようと思います。」

わかりました。と言ったのを確認し、私は二階の自室に入った。


 白昼夢の中から溢れ出した暗闇が、私の身体に巻き付いている。泥のようにくっついて蠕き、私の名をしきりに囁いている。バッグパックに一日分の携行食と水を入れて、籠の中の鷹に餌を与えてから、外へ飛び出した。

 北に見える山へ向う。中腹まで作られた住宅街を抜けると、フェンスが見える。鍵をあけ、自転車を駐めて奥へ入った。

 父が所有する「端山」に、私はツリーハウスを建てた。山頂に生える3本のカエデに、いくつか箱と梯子を取り付けたものだ。ライフラインはなし。強いて言えば、部屋の一つに簡易的な発電機があるくらいだ。

 一番上まで登った。柱と、屋根だけの部屋。西と南側のすだれを巻き上げ、外へ足を投げ出して座った。遠くに霞む鈴峰連山に、細いとも太いとも言えない、下弦を少し削ったような月が沈みかけていた。何もない部屋を、一陣の風が吹き抜けた。

 ついに月が見えなくなった頃、その人は突然に現れた。

「どうしたの?」

「疲れちゃった。」

彼、ないし彼女がいる時、時間が止まったように静かになる。顔も、名前も知らない。知っているのは、その声だけ。

「どうしたい?」

「どうすればいい?」

「ゆうは、どうしたいの?」

「全部捨てて、逃げたい。」

一拍だけ、時間が動いた。

「ゆう。人ってのはさ。」

彼が私の隣に座った気配がした。

「最初にね、人は、だいたい三種類くらいに分けられるんだ。」

と、話し始めた。二種類では? という疑問は掻き消しておこう。


 曰く、解決すべき問題があるときに、それを解決する人、できる人と、できない人と、しようとしない人だそうだ。

「解決する人ってさ、生まれつきそういう力を持ってるんだよ。最初はできないかもしれないけど、できないって問題を解決するんだ。」

私は──

「ゆうはさ、しようとしなかったんじゃないでしょ? 本当に『できない人』なのかな。今抱えてるのが、今、どうしようもないことなら、少し遠回りして考えるのも、手段としてはアリだと思うよ。」

さらに一拍、時間が動く。

「別に、逃げるな、なんて言わないよ。」

と彼は言う。

 できない人はできないんだ。立ち向かったって時間も労力も無駄に終わる。自分はどっちなのか、逃げたときと立ち続けたときの、失うものと得るものを、しっかりと見極めてから決めても、遅くはないと思うよ。


 そう言うと、彼はゆっくりと立ち上がった。

「ゆう。君がボクに会いたいとき、八割は答えが決まっているんだ。」

 残り二割を誰かに埋めて欲しくて、ボクに会いに来る。保証するよ。君の八割は、間違ってなんかいない。ボクが埋めた二割みたいな不確実なものじゃないよ。

「だからさ、ゆう。十割なんて言わないけど、もっと自分を信じてみるべきだよ。ボクなんかに頼らなくても、自分で答えを出せるように。」

 落ち着いた声を残して、気配が、ふっ、と消える。風が吹き抜けた。

 腕時計が午後二時を指す。右の薬指に嵌めた指輪が、まだ高い陽を受けて光る。

 上半身を後ろへ倒す。堅い板が背中に触れる。真っ青に広がる空の下で、思考を放棄して眠った。

 目を覚ましたとき、右には柚希が座っていた。その目が見つめていたのは、山脈のさらに奥へ、ゆっくりと沈む、紅く大きな夕陽だった。山際が紅色に染まる。陽の沈んだ余韻まで沈み、薄明さえも沈もうとしている。やがて、私達を包むのは、電池式のランタンと、市街地の灯りだけになった。

「で、どうするの?」

と視線を動かさずに訊かれる。

「任せる。」

「わかった。」

「……ごめん。」

それ以上の言葉は要らなかった。言わなくても伝わるし、他に伝えることも、もうなかった。

 ボソボソとしたご飯を温めて、レトルトカレーをかけて二人で食べた。今日にしては味気ない食事だが、簡素な食事にしては美味しく感じられた。

 一晩中、星を見上げて過ごした。静かな夜が終わり、静かな朝が始まろうとしていた。背中に朝を受けて、木と二人の、西へ伸びる影を見つめていた。何かが変わったような違和感が駆け抜けた。柚希が徐に立ち上がる。さして高くない腕時計が、キラリと光った。歩き出した彼女を目で追う。

 ねぇ。と、私に背を向けたまま言った。

「いつ、帰ってくる?」

気が向いたらね。と、できるだけ明るく答える。実体のある彼女の背中を、私は見つめ続けた。何か、小さく呟くと、柚希は私のバッグパックを背負うと、階下へ消えた。回した首を戻すついでに、南側の街を眺める。慣れ親しんだ雑多な街も、これで見納めだ。何かが私を包み、溶かしていった。

 シュークリームをひとつ咥え、もう一つとマグカップを持って外に出た。小さな家のウッドデッキに座り込み、遠く水平線へ沈む夕陽を眺める。カフェ・オ・レを飲み終えたマグに用はない。私はそのまま、緑色のマグカップを投げ捨てた。

 割れることなく消える。続いて、ウッドデッキも、家までも消え去った。背後から大地を飲み込む闇が、私と夕陽を残して消した。


 深く、深く。私はゆっくりと闇を降りていく。真っ赤に染まった仄日は、同じ速度で沈んで行く。全ての感覚を放棄して、感情を抛擲して、ただ深く〳〵、何も届くことのない、水底へ。

 全てが溶けて、消え去った。私は、死んだ。最後に見た仄日は、今も、紅く輝き続けている。


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