ユリ
一階まで下りてくると、中村の前を歩いていたユリが突然姿を消した。その姿をじっと見ていたはずの中村は、瞬きをした間に消えたことに混乱した。
「え? ユリ? どこに行っちゃったの」
「前にいるよ」
何も見えない中村の目の前の空間からユリの声が聞こえた。恐る恐る手を伸ばしてみる。見えない手があった。中村は確かに見えない手と握手をした。
「ほ、本当に? これ夢?」
疑心暗鬼になって至るところを触る。
「夢じゃないよ。お姉ちゃんも透明になる!」
ユリがそう言った途端に、中村はユリに触れているその手からだんだん透明になっていった。まるで魔法だった。
「すごい! 魔法みたい!」
中村が透明になり終えると、ユリのことが見えるようになった。ユリは優しく微笑む。
「ユリも小さいころは、自分たちが魔法使いだと思っていたよ」
中村はその言葉に、よく分からないというように首をかしげる。ユリはそんな彼女の手首をまたつかむと、ビルの外へ足を踏み出した。
「これであいつらには私達の姿は見えないから、ゆっくり歩ける」
そう言って本当にのろのろ歩く。中村は普段早歩きをするので、それが酷く遅いように感じられた。人通りの多い道に出ると、いつもと見える世界が違うことに驚いた。
「これもあなたの力?」
ユリは中村に顔を向け、首をかしげる。
「なんだか、この風景が輝いて見える。……夢を見ているような。ふわふわした気持ちになる」
「それはユリの力じゃないよ」
では、この感覚は何なのだろう? 中村は不思議に思った。今までにない感覚。それでいて懐かしい。ユリの後ろ姿は何故か見覚えがある気がした。
透明になったせいか、彼女は自由を感じていた。
五分ほど歩くと、ユリは店の前で立ち止まった。中村は看板を見上げる。
「喫茶店……」
喫茶Armiee。
濃い色の木製の看板にゴールドの文字で書かれている。古そうな喫茶店だった。ドアにはガラスなどはまっておらず、店内が見える窓などもなかった。第一、この喫茶店はビルとビルの隙間にあり、ドアと看板しかなかったのだ。中村はこんなお店あったかしらと不思議に思ったが、ユリは慣れたようにドアノブを掴み、回した。
――あら? 私達、まだ透明人間じゃなかったっけ。このまま店に入ってしまえば、幽霊だとか騒ぎになるんじゃ? ……彼女の脳裏をそんな不安がよぎった。
カランカラン。
軽い音色が店内に響く。無人……。広い店内はシンと静まり返り、外観からは想像できないような小綺麗で洒落た内装だった。カウンターに木のテーブル。ソファー席、丸テーブルの一人用の席もあった。
不安など一瞬で吹き飛んでいき、引き寄せられるように店内へ入った。歩くたびに木の床がコツコツと鳴る。
「こんなに広いお店あったんだ……」
ユリが扉を閉めると、大通りの喧騒が遠のき、世界から隔離されたような静けさが非日常感へといざなった。
「いらっしゃいませ……あら? 誰? 姿を現してくださいな」
店の奥から小柄な女性が顔を出した。
「あ、忘れてた。……透明じゃなくなれ!」
ユリが少し大きな声でそう唱えると、二人の魔法は解けたようだった。
「それ呪文なの? ださっ」
「呪文じゃないよ。ただ、口に出さないと集中できないから。お姉ちゃんだって昔焦ってるときずーっと、透明になれ透明になれって唱えてたくせに!」
ふふふ、と笑い声が聞こえて、中村は思い出したように顔を向けた。先程の小柄な女性が笑っている。
「懐かしい! ……そちらの方がお姉さんなの? ……あの時全く透明になってなくて笑ったわ。危ない状況だったけど」
中村は変な顔になった。二人して自分が全く知らない自分のことを話すものだから無理もない。ユリはださいと言われ傷ついたのか、頬を膨らませている。
「何か飲む?」
「うん、飲む。逃げ疲れたよ。ホットココア頂戴。お姉ちゃんは?」
「ホットコーヒーでお願いします」
店員はそれを聞くと申し訳なさそうな顔をした。「ごめんなさい、カフェインは置いてないの」
変な店だなと思いながら、カウンターの壁のメニューを目を凝らして見る。
「えーっと、じゃあハーブティーで」
「えっ、まさかお姉ちゃん目が悪くなったの? あんなに良かったのに」
――だから知らないって。誰のことだよそれ。
イラつき思わずユリを睨んでしまう。その目つきに驚いたのかユリは体を震わせて、目をそらした。
「なんだか、変わっちゃったのね。ロディー」
ロディー……。それが名前だと分かるのに少々時間が掛かってしまった。
「さっきから一体何なの!? 変なものに追いかけられたり、透明になったと思えばあなたたちは変なことばかり言って! 説明してよ!」
中村が叫ぶように言うと、ユリと店員は顔を見合わせた。
「ごめんなさい、お姉ちゃん」
「だから私はあなたのお姉ちゃんなんかじゃ……!」
「お姉ちゃんだよっ!」
今度はユリが叫ぶ。はっとして見ると、ユリは目を潤ませて今にも泣きだしそうであった。
「ずっとずっと探してたの……」
中村はそれを見ると冷静になった。
「ごめん」
ユリは首を横に振る。……コトリとカウンターにカップが置かれた。
「ココアとハーブティ―です。どうぞ」
ユリがカウンター席に腰かけ、中村もその隣に座った。中村は出されたガラスのポットを眺める。黄金の液体がランプに照らされて光り輝く。
「今日のハーブティーは、レモンバームよ」
微笑んで店員が言う。ハーブティーなどあまり飲まないので、そういわれてもピンとこなかったが、カップに注ぐとその香りが彼女を落ち着かせた。そっと口に含んでみる。
「甘くておいしい……」
店員はただニコニコと笑っただけだった。
「――覚えてないかもしれないけど、あなたは前世で私のお姉ちゃんだったんだよ」
ユリが悲しそうに言った。
「あの世界では、皆が幸せに暮らしていた」
「あの世界?」
「そう、ここではない世界。名前なんかないからあの世界って呼んでるの」
熱いっと言ってココアをすする。
「私達は王家に生まれて、ママ……女王であるママが国を治めていた。幸せに暮らしていた……闇国の人たちが攻め入ってくるまでは……。それでパパもママも殺されて……ユリは出かけてて……帰ったら家の中は血まみれだった。独りぼっちになったと思ってた。そしたら、お姉ちゃんは生きてると知って、ずっと探していたの……でもまさか、人間界に転生してたなんて!」
中村はハーブティーをすする。説明されてもなお、状況はつかめない。
「私達の国、光国が滅びる危機なの。お姉ちゃんの力が必要だよ、お姉ちゃんしか世界を救えない。だからね、戻ってきて」
ユリは真剣な眼差しだ。中村は困った。
――どうしよう。この人たち、薬やってる? それとも私の夢? 役にたたないなんて言われたから、私の脳が世界を救うなんてヒーローみたいなこと言ってるんだ!
「わ、私はお姉ちゃんなんかじゃないからっ!」
そう言って立ち上がると、二人と目も合わせずに店を出ようとする。
「あっ、待ってよ!」
ユリが呼び止めるのも構わず、彼女は店を出た。