絶望していたら天使が降ってきた
空は吸い込まれそうなほど青く澄んでおり、手は届きそうにもない。優しく冷たい風は人々の心に侵入する。中村知幸は六階もあるビルの屋上まで、階段を上ってきたために、顔が紅潮していた。肩で息をしながら屋上のフェンスにしがみつく。長い黒髪は無造作に一つに括られてはいるが、今にもほどけそうなほど乱れている。
中村は身に着けていた手袋を、マフラーを、ダウンを自分の下に無造作に投げ捨てた。そして、フェンスに火照った頬を付け、目を閉じた。ふーっと息を吐く。白い息が彼女をぼやけさせる。
「はあ」
誰かにでも聞かせるように、大きなため息をつく。
眉間にしわを寄せて、そのままずるずると座り込んだ。「なんでエレベーターは故障中なの!」彼女はどうにもならないことに腹を立てているらしい。昨日は大丈夫だったのにとか、最悪だよ、などと悪態をつく。
しかし、彼女には屋上に来なければならない理由があった。思い出せば心臓を掴まれたみたいに、苦しくなってくる。
『明日から会社に来なくていい』
派遣先の係長から何の脈絡もなく、そう言われた。あまりに突然のことだったので、中村は思わずはっ? と言ってしまったくらいだ。確かに中村は他の人に比べて、仕事が遅く、ミスも多かった。しかし、ここ数か月はやっと慣れてきたようで、だいぶ仕事をこなせるようになってきていた。
何故ですか、と彼女が聞く。
『あなたいつまでたっても役にたたないんだもの』
そう言ってふっと笑うと、艶やかな長い髪をなびかせ背を向ける。中村は黙り込むことしかできずに、カツカツ鳴るヒールの音を聞いていた。
中村はエレベーターに一通り文句を言うと、空を見上げた。
この清々しい空が気に食わなかった。自分がこんなにも打ちひしがれているというのに、空はいつもと変わらない。どこまでも続いていそうなほど、広大で眩しい空の抱擁感が気に食わなかった。
――なんで空はこんなに晴れているのに、私は……。
空を見つめる瞳が揺れる。
「うっ……うぅ……」
大きな瞳から涙をこぼし、嗚咽を漏らした。空は彼女をあざ笑うかのように輝いている。泣きながら立ち上がり、フェンスから下を覗き込む。
「やっぱり、今、死なないと。絶対今死んでやるんだ」
そう呟く。目からとめどなく涙をこぼしながら。
決心したようにフェンスをしっかりと掴み、上を見た。その眼差しには強い意志が光る。黒のロングスカートが汚れるのも構わずに、フェンスに足をかけて登っていく。カシャン、カシャンという音だけが屋上に響いた。額に汗をにじませながら、頂上でフェンスにまたがる。
「大丈夫。大丈夫。私は飛べる……」
自分に言い聞かせるように言う。しかしその言葉とは裏腹に、顔は青ざめ、フェンスを持つ手は震えていた。震えながらもう片方の足をビルの外側の方へ出す。
横座りになるとますますバランスが悪くなり、誰かが見ていれば”今にも落ちる”と、ひやひやしそうなほどだった。
「あっ」
声を上げて、必死の形相でバランスをとる。フェンスは大きな音を響かせた。眼下に広がるのは狭い路地。人が一人通るのがやっとという具合で、下手をすればビルの壁にこすられそうだった。
目を閉じて深呼吸をする。
手を放そうと決めたその時だった――。
「あっ、危ない!」
空から女の声がした。
……幻聴? 中村は不思議そうに空を見上げて、その声の主を探す。
「危ないってばぁ!」
今度は更にはっきりと、大きな声が聞こえてくる。
え? その声を発する間もなく、空から少女が降ってきた。
中村の頭に少女の伸ばしていた手が触れると、当然中村のバランスは崩れた。フェンスから身体が離れる。
――落ちる!
ぐっと目を閉じてしまった彼女は、手首に感触があることに驚いた。ゆっくりと目を開ける。目の前には、満面の笑みを浮かべた少女の顔があった……。
本来可愛いはずの少女の笑顔は、この状況では不気味でしかなかった。
死んだと思った中村はその状況に混乱し、思考停止をしてしまった。二人の間の時間が止まる。
「おっ重い……」
中村は自分の手首をつかんでいる少女の手が滑っていくのが分かった。
「待って! 離さないで! ねぇ、お願い!」
必死に叫ぶ。少女は歯を食いしばって、よろよろと浮遊すると、屋上に中村を落とした。しりもちをついて痛い! と叫ぶが少女は浮遊したまま、それを無視する。
そして疲れた顔を無理やり笑顔にすると、
「お姉ちゃん、探してたんだよ。良かった、ここにいたんだ」
そう言った。――意味が分からない。
痛みを忘れて、冷静になった彼女は考えた。今、何があったか、この少女が何と言ったかを。
「お姉ちゃん? 私、ユリだよ」
少女は大きな茶色い瞳で、ゆっくり瞬きした。
栗色の腰まである髪は、息をのむほど艶やかで軽く、風になびいている。寒いのに、風を通しそうな純白のワンピースの上には何も羽織っていない。そして驚くべきことに、少女は裸足だった。
――こんな子、知らない。
少女は天使のようにも見えたので、自分は死んでしまったのかと疑ってみる。
彼女が口を半開きにして、ぽかんとしていると、
「そっか。忘れちゃったんだね……。でも私達はずっと探してたんだよ! だから戻ってきて」
話が見えない。
「――なよ!」
空からまた声がした。今度は野太い男の声だ。中村は少女の背後の空に目を凝らす。遠くの方から大勢の唸り声が聞こえてきた。目を丸くしてその光景を見つめる。
何と黒い人影が大量に雲の隙間から現れたのだ。
「な、何あれ!?」
「あ、忘れてた……」
少女は少し焦って、スゥっと屋上の上に降り立つと、中村の手を取った。「早く、逃げるよ」と、屋上のドアの方へとぐいと手を引く。中村はここから逃げたく、ひとつ頷くとそれに従った。
階段を下りながら聞く。
「あれは何なの?」
「敵」
ユリはそう短く答えると、更に階段を早く駆け下りた。