第4話 矢嶋のジャンボコロッケと色酔い
2018年7月24日 サブタイトル変更しました。
春久が八千代部高校を選んだ理由は2つあった。
ひとつ目の理由は家から近い事。ふたつ目の理由は同校への進学希望者が少なかった事。
もともと、県下でも7.8番目という何とも中途半端な立ち位置の進学校である事に加え、最寄り駅からは徒歩35分、北には一面の田園、南側というより目の前には矢鱈に大きなお寺、そして東には酒匂川、西側にはミカン畑、更にその向うには箱根山を望むという、通学するにも青春を謳歌するにもどうだろうと首を傾げたくなるロケーションのため、年々受験希望者は減り続け、ついに今年は学区外からも生徒を広く募集しなければ定員割れを起こす事態にまで至っていた。
つまりは、入学し易く進学もし易い高校、それが春久の進学した八千代部高校だった。
そんな高校に通う春久の自宅は小田原市と足柄上郡のちょうど境にあり、高校から自宅までは歩いて30分程の距離にある。
酒匂川を越え国道を東へと進み、いちょう通りと言う名の何処にでもありそうな名前の信号を右に曲がり、商店街の中をひたすら北へと向かう。商店街と言っても近隣に出来たショッピングモールのあおりを受けて、まともに営業をできているのは僅か3,4店舗。活気の欠片も存在しないその様子は、まさに俗に言うシャッター商店街だった。
そんな商店街の中で細々と営業を続けている肉屋の手前まで来ると、後ろからパタパタ靴を鳴らし走り寄る音が聞こえて来た。
「そのだるそうな歩き方は、ハルちゃんだな?」
後ろから春久を呼び止める楽しげな声。
晴久を下の名前で、しかも“ちゃん”付けで呼ぶ人間は2人しかいない。
1人は姉の美夏。そして、もう一人は幼なじみの和泉一祈だ。
無駄に明るく春久を呼ぶその声の主は私服姿の一祈だった。
肩口までの長さがある黒茶の髪は、クセが強く外へ内へと元気に跳ね回っており、そして、その髪と同じ色をした大きな瞳と稜線のきれいな眉が、薄い赤色をした眼鏡フレームの奥から覗いて見える。さらにキメの細やかな肌は、ほんの少し褐色掛かっており、それに形の良い鼻とやや大きめの口が加わると、純粋な日本人であるにも関わらず、多国籍と言うか無国籍の住人の雰囲気となる。性格は朗らかで、人懐こく、よく笑い、よく喋る。そのため誰もが親しみやすい。
中里理穂子に指摘をされるまでもなく、和泉一祈は独特な雰囲気と魅力を併せ持つ少女だった。
「ハルちゃん、今帰り?」
立ち止まった春久を覗き込むように見つめ、笑顔を見せる一祈。
「そうだけど、一祈はもう出歩いて大丈夫なのか?」
コンビニにでも行っていたのか、その手にはペットボトルと雑誌の入ったビニール袋を提げている。
「ハルちゃんは心配性だなぁ。もう全然大丈夫! ゲンキも元気! 午後から学校に行こうと思ってた位なんだから。でも、お母さんがねダメだって言うからさぁ……まぁ、一祈も“アレ”は久々だったからビックリしちゃったけどさ」
舌を出しておどけるその姿に少しだけ安心感を覚える。
「みんな体調を崩した程度にしか思ってないから気にすんなよ」
そうは言ったものの、一祈の体質の件は多くの教師の耳に入っているのは間違いないだろう。もしかしたら一部の生徒の耳にも入っているかもしれない。
「……うん、ありがと。でも、隠す事でも無いと思うんだけどなぁ」
眼鏡の位置を直しながら空を見上げるように一祈がつぶやく。
「だからと言って、いちいち皆に説明して回る事でもないだろ」
「まぁ、それはそうだけどさぁ……」
「薬は飲んでるのか?」
説教くさいとは思ったが聞かずにはいられなかった。
「もう! ハルちゃんまでお父さんみたいなこと言わないでよね。ちゃんと飲んでるよ」
拗ねたように口を尖らせながらも笑顔を見せる一祈。その姿からは一昨日の事を想像する事は難しい。
今週の水曜日に一祈は学校で気を失い倒れた。
原因は“色酔い”による昏倒。
春久がはじめて一祈の“色酔い”を見たのは、小学校入学間際の日の事。それは、2人が初めて出会った日でもあり、彼女を含む和泉一家が他県から春久の家の前に引っ越して来た日でもあった。
夕焼け雲の空の下、帯型ゲーム機を抱えたまま道路に倒れこみ、額から血を流す一祈の姿。
春久の脳裏にはその時の様子が今でもくっきりと焼き付いている。
彼女はとある身体的特徴の為、色酔いを起こす。それが酷い場合、目を回し昏倒してしまう。簡単に説明するのなら、幾つかの色の組み合わせを集中してみると失神してしまうのだ。
本人曰く、“色が降る”
本当は言葉にするのも難しいとの話だが、要約すると突然世界が色で溢れかえると言う事らしい。幼児期の段階でその特異体質に気がついた一祈とその両親は、かなりの数の病院を廻ったという話だ。
そんな幼児期の一祈に最初の医師が下した診断は“詐病”
つまりは嘘をついていると医者に言われたのだ。
一祈の事を信頼していた両親は、そんな診断は受け入れる事が出来ず、さらに様々な病院を訪れて診察を重ねたが、何処でも同じような事を言われたらしい。そんな中、漸く行き当たり、しっかりと診断をしてくれたのが小田原市内の医師で、和泉一家が他県から小田原に引っ越してきた理由も信頼できる医者に継続的な診察を受ける為だった。
その医師の話によると、あえて分類するなら一祈は“色覚過敏”にあたるらしい。
あえてをつけなければ分類できないほど、彼女の症状はあまりにも特異すぎた。
一祈の場合、色覚の過敏が左目だけに起きる。分かりやすく言えば片目だけが色覚異常を起こしているのだ。大脳で色を認識する事を司る錐体細胞に、なんら異常が見られなかった一祈がソレを起こすのは、あまりにおかしな事だった。
その特異さ、左右の目が色を捉えるバランスの悪さゆえ、一祈は色酔いを起こす。
主治医曰く、“大脳生理学的には絶対起きえない症状”
それゆえ様々な疾患、合併症等が疑われ、カウンセリングは元より脳波やCT、血液検査等も繰り返して行われた。しかし、結局該当する疾患は無く、現時点でも病名は不明だ。判明している事と言えば“脳圧が高まると変異性の色覚異常と眩暈を起こす”と言う事だけで、まだ不明な点も多いらしい。
要は経過観察中なのだ。
そのため、一祈は今でも定期的な検査、通院に加え、毎日脳圧を弱める薬の服用も義務付けられている。
それでも、紫外線を弱める効果がある眼鏡を掛けたり、いなしてモノを見るなどの工夫に、本人の明るく前向きな性格が加わり、今ではTVを長時間見たり、スマホを使う事すらも何ら問題なく行える等、症状はかなりの落ち着きを見せていたハズだった。
春久はそんな昔話やココ最近の一祈の状態を1人思い起こす。
「そうだ、ハルちゃん。久々に“矢嶋のジャンボコロッケ”食べながら帰ろうよ」
そんな思いを知ってか知らずか、一祈は楽しそうに笑っていた。
春久の制服の袖を無邪気に引っぱるその様子からは、“アレ”はたまたまであり、もう心配はいらないようにも思える。
「食べ過ぎるとデブるぞ」
「あー!! 女の子にデブるとかヒドイ!! それじゃ一祈と半分にしよ。ご馳走するからさっ」
春久の冗談に軽く不平をもらしながらも、一祈は目の前にある肉屋の親父さんに手を振りながらこう言った。
「矢嶋のおじさん、ジャンボコロッケひとつ!! ソースたっぷりでね。真ん中でカットしてくれたら嬉しいな!」