第2話 酒匂の松と届けモノ
2018年7月24日サブタイトル変更し、本文一部加筆しました
たとえ高校生になろうとも、職員室に呼ばれるのは気分の良いものではない。
雑多な空気、清潔とは無縁の状態で並べられた多くの机。そして何より、その埃と人間の油に白墨の入り混じった独特の臭い。春久はそれがたまらなく嫌いだった。
職員室に入る際もいっその事、鼻をつまみながらノックしてやろうかと考えたが、下手に教師に煙たがられると自分自身が鼻つまみ者になってしまうし、これから会う先生とのやり取りもスムーズに事が運ばなくなる可能性も出てくる。それはそれでかなり煩わしい。そう考えた春久は出来るだけ臭いを嗅がずに済むよう、口で呼吸をしながら職員室の奥にいる熊の様な巨体の男性美術教師の元へと進んで行った。
「一ノ瀬先生、別所です。自分に用事があると、委ぃ……井土ヶ谷から聞いたんですが……」
用件が何なのかは、想像がついているが聞くのがマナー。そして、聞かれる側もそれ位は分かっているだろう。
「別所、風邪か? 声が変だぞ」
まさか“職員室が臭いから口呼吸しています”と言う訳にはいかない。
「アレルギーです」
「花粉症か? このあたりは松並木だし、大変だな」
確かに高校の脇を流れる酒匂川の土手沿いは松並木だが、その花粉は既にピークを終えている。
どうやら職員室アレルギーを松花粉によるものと勘違いしてくれたらしい。
「で、用事って何ですか?」
テンプレ。
春久は用意しておいた質問を再度繰り返す。
「家が向かいだと聞いてな。コレを和泉の家に届けて欲しい。今日学校を休んでいるんだ」
そう言いながら一ノ瀬先生がグローブのような厚みのある手で2枚のプリントを春久に差し出した。
1枚は進路志望の記入用紙。もう一枚は学校通信。それは2枚とも今朝のHRに配られていた物だった。
「そう言えばアイツは一ノ瀬先生のクラスでしたっけ? 確かに和泉の家は向かいですので、ポストにでも入れておきます」
春久はそう淡々と答えたものの、自身の言葉がどこか言い訳がましく聞こえていた。
「そうか、すまんな……あと、色合いなんだが……それなら問題なさそうか?」
“色”
やはりそう来たか。呼びつけたのはコレと言う訳だ。春久は心の中で舌打ちをする。
「コレなら大丈夫だと思います」
だいたい赤いラインが引かれているだけのA4用紙に色合いもクソも無いだろう。
「そうか。それは良かった。向かいに住んでいるのなら詳しいだろうしな、オマエがそう言うのであれば安心だ」
言葉尻がどうにもイヤラしい。
「先生は気を使いすぎですよ。アイツ、気にしていませんよ」
春久は先生の目を見ずにそう答えた。
「いや、多感な時期の生徒を預かる教師として、アレはもう二度とあってはならない」
そう話す一ノ瀬先生は、その大きな身体を凋ませるように息をついていた。
「それじゃぁ、確かに届けますので、僕はコレで失礼します」
職員室を去る際の挨拶は、何故だか大きなモノとなっていた。その声のトーン驚いたのか、一ノ瀬先生だけでなく側にいた他の教師達の視線までもが、春久に集まっている。そんな視線を全て無視し、春久は敢えてゆっくりと歩みを進め職員室を後にした。
職員の扉を閉めると例の臭いが、学ランに染み付いている様な感覚に襲われ、春久は無意識に鼻を鳴らす。何故だか入る前より職員室前の廊下が蒸し暑く感じた。