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ぼくらの自転車  作者: 一里 郷
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第5話

「帰る?」

 聞き返してから思い出した。真子がどこか遠くの町から来たこと。夏休みが終わって学校が始まれば、彼女も家に帰らなければならないということ。

 頭が真っ白になって、そのままろくに話さず家へ帰り布団に突っ伏した。

(慎くんと遊ぶの、とても楽しかった)

(自転車もかっこよかった)

(いろいろ迷惑かけてごめんなさい)

(来年もここに来たいけど、ちょっと分かんない)

(でも慎くんとはまた遊びたい。本当だよ)

 耳に入った筈の真子の言葉が今更頭の中に届く。慎也にも真子にもどうにもならないことだというのは分かっている。けれど何だか裏切られたような気分だった。

 兄がドアを開けて、食事はしないのかと声を掛けてきたが、返事をする気にもなれなかった。


 いつの間にか眠っていて、起きたらもう翌朝になっていた。

 真子が帰ってしまう日に。

 ぼさぼさ頭のまま居間に行くと母に叱られた。髪を撫で付け着替えさせられ外に連れ出される。道路には車が停まっていて両親と真子の親が話していた。兄は所在無さげにその後ろに立っている。

「慎くん!」

 慎也を見つけた真子が名前を呼んで駆けて来る。出会ったときと同じ真っ白なノースリーブに麦藁帽子で。

「慎くん、今日でさよならだね。おわかれだね。いつかまた遊ぼうね」

 寂しそうに笑う。

 さよなら、の一言に慎也は急に何かがこみ上げてきて、くるりと真子に背を向けた。

 そのまま家に向かって大股で歩き出した。真子の慌てた声が追って来る。小さな手が腕を掴もうとするのを思い切り振り払った。視界の端に真子の驚いて泣きそうな顔が映る。

 おわかれだなんて言わないで欲しいのに。

「さよならなんだろ。もう付いて来るなよ」

 心とは裏腹に吐き捨てて、固まった真子を置いて家に入りドアを閉める。母親の怒声と真子の泣き声が板一枚越しに聞こえた。

 また会おうなとか、いつか遊ぼうなとか、言おうと思えば言えたのに口には出せなかった。

 にこにこと笑って慎也に付いて来て、鬱陶しくて可愛くて嫌いで一緒にいるのが照れくさくて。

「お前のことなんて嫌いだ」

 無理やりそう呟くと、そうじゃないと誰かが胸の中で言う。

 だけど本当はどうだろう。言わなければいけない言葉は形にならず、ぐるぐると喉の辺りで空回るばかり。息苦しくて蹲る。目眩がする。

 家の外で、車を出す音がした。

 はじかれたように慎也は立ち上がりドアを開く。走り出す自動車と、見送る家族の後姿。母親が気付いて振り返り何か言おうとするより早く、ドアの横の自転車に飛び乗った。

 スピードを上げる車を追ってペダルを漕ぐ。距離は見る見る離されて追い付けないのは明白だ。だけど止まろうとは思わなかった。

 車を見失っても、ただがむしゃらに走り続けた。

 目的地なんて分からない。真子の家に行けるなら、そこがどこだか分かるなら目指せるだろうけど、慎也が知っているのは隣町までだ。その先はテレビでしか見聞きしない未知の世界。その未知の世界のどこかに真子の住むところがあるのだろうと、分かるのはそれだけ。何も知らないのと同じだ。

 どこまでも走って走って、昼を通り越して夜になっても慎也は帰らなかった。走り続けた。何か奇跡でも起こってどこかに辿り着けるとでも言うように。

 けれどどんなに走っても、夜が明けて朝が来ても、真子の影には追い着けず、自転車はどこにも辿り着かなかった。


 夏休みが終わってからも、慎也は日を見つけては遠くへと走った。

 山も隣町も越えてその先の知らない町へ。夏が終わって蝉が泣き止み、夜になってカラスがねぐらに帰っても、フレームの軋み鳴る音だけを供に走っていた。真子がいなくなり軽くなった自転車ならどこまでも行ける筈なのに、いつもどこへも着けずに時間切れを迎えた。

 今までこんな気持ちになったことは無い。目的地も分からずただ走り続ける、こんな満たされない気持ちには。

 いや、目的地はあった。それがどこだか分からなかっただけだ。

 走っても走っても、結局、真子の家に辿り着くことは出来なかった。

 そして次の年も、次の次の年も、真子は町にはやって来なかった。

 真子と二人で冒険したあの夏に言えなかったいろいろなことは、次第に遠く、胸底に沈んでいった。


 あれから真子には二度と会うことなく、唯一の手掛かりになり得ただろう彼女の祖父である雨宮の老人は間もなく引っ越して、やはり戻らなかった。

 しばらくしてから、真子は、というより真子の両親がこの町を訪れたのは、仲はあまり良くないけれど一人暮らしの老人を心配して、一緒に暮らそうと交渉しに来ていたからだと知った。

(来年もここに来たいけど、ちょっと分かんない)

 真子の祖父が親とばかり話していたというのにも、寂しげにそう言ったのにも、理由があったのだ。当時知ったところでどうにもならない理由が。

 彼女の血縁である老人は去って、真子はもうこの町に来ない。思い出と少しの未練だけが残っている。どれだけ年月が経っても色褪せることなく、あの夜に二人きりで見た花火のように鮮やかなまま。

 今では隣町も随分近くなった。道が整備されてぐんと行き来が楽になったこともあるが、慎也自身が隣町の学校に通うようになったので心理的にも近所の範囲と認識するようになっていたからというのが大きい。あの頃は隣町のものだというだけで何もかも輝いて見えたというのに、今は特に目新しく思うこともなく、すっかりただの通学路と化していた。当時探検して見付けたものは半分近くが様変わりし、慎也が冒険の店第一号と名付けたコンビニも今はチェーンのファミリーレストランになっている。

 部活で忙しい友人たちより先に、一人で帰宅する日は、あの廃線跡を通ることにしていた。無人の駅は年々錆と植物に侵食されながらも、さほど変わらない風貌でいつもひっそりと佇んでいる。

 もうかなりくたびれた相棒を引いてそこへ行くと、幼かったあの夏を思い出す。

 小学生時代の最後、冒険とイレギュラーだらけの懐かしい夏。この場所があの夜の二人の特等席だったように、出会いから花火の夜までの思い出も、二人だけのものだ。慎也は誰にも話していない。彼女もきっとそうだと根拠なく思っている。

 錆びた荷台を振り返れば今でも、真子がくるくると笑いかけて来るような錯覚を覚えた。一緒に過ごしたのはたった一夏だというのに、この自転車の荷台はすっかり彼女の席になっていた。

 もしもあの夏に戻れるなら謝らなくてはならないと思う。いや、それより謝らなくてはならないようなことは、最初からしないようにするべきだろう。他にも言うべきことは沢山ある。

 しかしどのみち時間は巻き戻らない。

 思い出は思い出のまま、どこかも分からない真子の家と同じく、辿り着けはしないのだ。


 花火大会があると聞いた日、廃駅へ行こうと思った。

 季節は夏の終わりに差し掛かり、蝉とカラスが鳴き止んだ夜の道は秋の虫が早々に歌っていた。

 廃線への入口は相変わらず分かり難くて、明かりも無く道は荒れ放題だが、距離は短くなったような気がする。同じように家も小学校の校庭も何だか狭くなったと思う。これも大人に近付いた証なのだろう。いずれは高校を卒業した兄のように都会へ出て、この町に戻ることも無いのかも知れない。

 線路沿いを歩いて行くと、頭上でぱっと光が広がった。すぐ後に続く雷鳴のような音がその光が花火のものだと教えてくれる。

 もう始まってるのかと見上げると、まだ青さを残す空を光の粒が尾を引いて落ちていくところだった。あの日の思い出が瞬く間に蘇る。次々と上がる花火が僅かに開けた駅の周辺を照らし出して。

 弾けて消える光の中、駅に誰かが立っていた。

 廃駅には似つかわしくない格好で、まるで幻のように。

 海風にやわらかく髪を揺らし、右手に麦藁帽子を持って、すらりと背筋を伸ばし空を見上げている。夜目にも白いノースリーブを花火が色とりどりに染める。

 この場所は誰も知らない筈だ。誰にも会ったことはないし人に話したこともない。

 ただ一人を除いては。

 そんな人物、他にいるわけがない。

 弾けるような鼓動を感じながら、慎也はからからと相棒を引きながらゆっくりと近付く。

 そして花火の音に負けないように、名前を叫んだ。

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