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ぼくらの自転車  作者: 一里 郷
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第4話

 隣町の中心、駅前の繁華街へ行こうと決めたのは八月も後半に入った頃。

 昼間は相変わらずじりじりとした暑さだったが、夕方には時折ふっと涼しい風が吹き、物悲しいヒグラシの声が夏休み終了のカウントダウンを始めている。

 駅前を後回しにしたのは、小さなときに行ったことがあるのもそうだが、一番の楽しみは最後にとっておこうという小学六年生なりの演出のつもりでもあった。

 宣言はしなかったが慎也のいつもと違う意気込みの雰囲気を察したのか、真子も出発前からそわそわとしていた。

「ねぇ慎くん、今日はどこ行くの?」

「遠いところ?」

「隣町よりもっと先?」

 期待と不安の入り混じった問いに、ぶっきらぼうに行けば分かると返した。口調とは裏腹にわくわくは止まらない。ペダルを踏む足にも力が入る。

 駅前を目指すのは簡単だ。まず大きくて真っ直ぐな道へ行き、建物の間から展望台のあるタワーが見えればそれが目印になる。住宅街を抜けて川沿いに、すらりと立ったそれを目指せばいい。

 川を離れて進んで行くとだんだん人が増えてくる。それも普段着でなくて明らかによそ行きの格好をした親子連れなどだ。慎也は自転車を降り、荷台に真子を乗せたまま引いて歩き始めた。

 道の両側はレンガやタイルやガラスのビルで、夏の日射しを浴びて輝きながら所狭しとひしめいている。慎也の目を惹いたのは大きな窓の中の真新しいボールやスケートボード、憧れのマークを誇らしげに刻んだスポーツシューズ。ちらと見た値札には見たことがないほどゼロが並んでいたが、ライトに照らされ飾られたそれらを見るだけでどうしてか胸がいっぱいになった。

 ふと見ると、真子も目を丸くしてガラスの向こうを見つめている。カラフルな玩具のようなケーキやチョコレート、ずらりと並んだマネキンが纏うひらひらのドレス……いかにも女の子が好きそうな色とりどりの品物を。普段なら鼻で笑うところだが、今はとてもそんな気にはなれない。

 二人は歓声を上げることすら忘れて道を進んだ。都会の大窓は次から次へときらびやかな中身を見せ付け、夏の暑さも相俟って、まるで幻の中を歩いているような気分だった。

「おい、慎也」

 夢から引き戻したのは聞き覚えのある声。

 はっとして振り返ると、四、五人の少年たちがこちらを見て立っていた。ゆっくりと現実に戻りながら慎也は彼らを思い出す。小学校の友人たちのことを。

 今日は塾が休みだから、花火大会があるからと、彼らは口々に言いながらやって来る。夏休みの間、一緒に遊べなかった不義理を責めるというより茶化しながら。

 驚きと親しみを交えた軽口に笑顔で返そうとしたとき、一人の発した言葉が慎也を凍らせた。

「そのチビ、誰?」

 それが荷台にちょこんと座ったままの真子のことであるのは間違いない。目をやると、彼女はにこにこと少年たちに頭を下げている。

「こんにちは」

 何を勝手に、律儀に挨拶なんかしてるんだろうか。見られたくないところを見られてしまった。女の子と一緒にいる、それも自転車に乗せているところなんかを。

 少年たちがざわめく。慎也に妹などいないことを彼らはよく知っているし、親戚の子だと言い張ろうにも、この状況の深刻さを分かっていない真子がそうでないことをあっさりバラすだろう。

 固まってしまった慎也をよそに、友人たちはどんどん勝手に盛り上がっていく。そういえば女と二人乗りしてたのを見かけたと言う者、付き合いが悪いのはそのせいだったのかと納得する者、所謂カノジョってやつなのではと好奇心いっぱいの目を向ける者、隠し事はよくないとにやにや笑う者。

 顔が熱くなっていく。照りつける太陽の暑さとは無関係に頬が火照る。事情を話せば分かってくれる筈だと思うのに、喉に別の何かが詰まって口を開けない。

 言葉に詰まった慎也を不思議そうに真子が覗き込んだ。

「どうしたの、慎くん」

 考えなしの真子の言葉に少年たちが沸いた。

 矢継ぎ早に放たれる冷やかしの嵐。無遠慮な囃し立て。テンションの上がった男子小学生の騒ぎ声に道行く人々が振り返る。真子はおろおろと慎也と友人たちを交互に見ていた。何か言いたげな顔をして。

 頬の火照りと同時に頭の中が真っ白になっていく。周りの声が意味のないわんわんとした耳鳴りになる。親しい筈の友人たちが悪魔のように感じられた。

 次の瞬間、慎也は自転車で走り出していた。

 背中からは驚きどよめく学友たちの声。それを振り切るようにがむしゃらにペダルを漕ぐ。

 心臓が早鐘を打つ。胸がむかむかする。熱くなった顔はぬるい風が撫でるばかりで気持ちが悪い。

「慎くん」

 耳元で真子が泣きそうに名を呼んだ。

「どうしたの、慎くん」

「うるさい!」

 声を荒げてスピードを上げた。どこをどう走っているかなんて分からない。坂道を転がるように駆け抜け、点滅する信号を突っ切り、ぶつかりそうになった大人の怒声を掻い潜りひたすらに。真子の声には涙が混じり、けれど慎也は止まらない。

 気付けば知らない道にいた。

 太陽の射し込まない薄暗い路地。澱んだ空気が汗まみれの肌にまとわりつく。アスファルトの上で誰かが捨てた紙くずが乾いた音を立てた。慎也はハンドルに突っ伏してぜいぜいと息を吐く。荷台からは真子のしゃくりあげる声が聞こえた。

「……泣くなよ」

 息を切らせながら言う。真子は返事をしないで泣いている。

「おい、泣くなよ!」

 怒鳴って振り向くと、くしゃくしゃ顔になった真子と目が合った。

「ごめんなさい」

 ひくひくと喉を震わせながら真子が謝る。ごしごしと目蓋をこすりポケットから取り出したハンカチで拭いても、あとからあとから涙がこぼれて元通りになってしまう。

「私、慎くん怒らせること言ったんでしょ」

 違う、そうじゃないと、言おうとして声にならない。どうして逃げてしまったのか上手く説明できる気がしない。自分でもよく分かっていないのだから。

 女子なんか乗せてたら馬鹿にされるから?

 二人の冒険が、二人だけのものじゃなくなってしまう気がしたから?

 そんな言葉にすると、気持ちとは違うように思えてしまう。

 黙ったままの少年に真子は不安を募らせたようで、涙でぼろぼろになりながら縋るようにシャツを掴んだ。

「冒険の邪魔してごめんなさい。泣いちゃったから、もう自転車に乗らない。乗せてって言わない。でも嫌いにならないで、もう泣かないから、これで最後だから」

 そんなことはない。

 邪魔に思ったことはあった。一人ならもっと遠くに行けるのにと考えたこともある。どこまでも付いて来るのが鬱陶しく思って、いなくなれば良いと思ったこともあった。だけどそれだけじゃない。この夏の冒険は二人でしてきたことだ。二人で見てきた隣町の風景は一人で見るのとは確実に違っていた。

(すごいな)

(うん、すごい)

 そう言い合えることが、真子が一緒にいて頼ってくれることが、鬱陶しさを掻き消すくらい嬉しい照れくささを持っていた。

 でもそれを言えない。言いたくない。ありがとうとか、ごめんとか、そんな一言を伝えるのがどうしてか難しい。そもそもそんな一言で収まりきるものじゃない。

「別に、もうそんなのいいから」

「え」

 口をついたのはやはりぶっきらぼうな言葉。

「自転車に乗っててもいいから、そんなに泣くな」

 いつもあんなに笑っていた真子が泣いているのは、ただただ居た堪れなかった。

 とにかく早く泣き止んでくれと思いながらハンドルを握り直し、そこで、ここがどこだか分からないことに気付いた。慌てて明るい通りに出るが、見覚えのある建物は見当たらない。通りの先にも目印になりそうなビルなどは見えない。背中をつうっと冷たい汗が流れる。硬直した慎也の背中に真子が涙声でどうしたのと訊く。

 迷子になったなんて言ったら、きっともっと真子は泣くだろう。それは駄目だ。言えないのではなく、言ってはいけない。

「何でもねーよ。冒険の続き、するぞ」

 強がって言い放ち、自転車を漕ぎ出す。

 きっとすぐ知ってるとこに出るさと、始めはそんな風に楽観的に考えていた。しかし行けども行けども覚えのある道も建物も無く、山は見えてはいるものの近付く道はすぐに行き止まりになってしまう。焦れば焦るほど帰り道は分からなくなっていく。あれだけ高かった太陽は驚くほど早く降りてきて、空はあっという間に茜色に染まっていった。

 その頃には真子も道に迷ったことを察したらしく、一度緩くなった堤防は再びの雨で簡単に決壊する。真子自身のハンカチはぐしゃぐしゃになっていたので、ポケットに入れっぱなしにしていた慎也のハンカチを渡してやった。どちらかと言えば親切ではなくて気を紛らわす行為に近かったが、そんなことを知らない真子は小さな声で感謝を述べた。

 更に焦りを募らせながら進み続けると、不意に見覚えのあるところに出た。

 そこは、廃線になった線路の入り口だった。慎也が隣町への道を探していたときに見付けて、結局それきり使わなかった秘密の近道。当時は二つの町を繋ぐコースの発見だけが目的だったから周囲は見て回らなかった。

 古い路線は少し陸地を走ってから海岸沿いに慎也の町まで続いている。こちら側の入り口は鬱蒼と茂った木々に半ば隠されているが、すぐに開けて海が見える平坦な道になる筈だ。大回りにはなるがいつものくねくね道よりもずっと早く山を抜けられる。ただ地面は舗装されておらず荒れ放題の線路がそのまま放置されているので自転車に乗っていくことは出来ない。

 慎也は考える。今からくねくね道を探しには行けない。慣れているのはあちらの道だが、ここから離れてあの道を見付けられる自信は無い。また迷子になって、そうしたら今度こそ帰れないかも知れない。

 気付けば空は夕暮れが濃くなって山に帰るカラスが影になって鳴き交わし、東にはうっすらと星が輝き始めている。

 この道を行くしかない。

「慎くん、入るの?」

 背後の真子が怯えた声で訊ねる。無理もない。目の前にあるのは夕闇に沈みつつある暗い林だ。慎也は自転車を降りて深呼吸をした。

「前も通ったとこだから大丈夫」

 通ったのは二ヶ月も前で、昼だったことは言わない。

「真子はそこに乗ってれば良いんだよ。俺が付いてんだから安心しろ」

 躊躇いの後、小さく頷く気配がした。

 汗ばんだ手でハンドルを握り歩き出す。もう蝉もカラスも鳴いていない。聞こえるのは足音と車輪の音とどこかに潜んだ虫の声、少し遠い潮騒。その合間に真子が鼻を啜る音が耳に入る。暗闇が怖いのだろう。

 林を抜けても街灯は無く、空はもう夜の色になっていて暗い。月は見えないし星は満天に輝いてはいるものの道を照らすには力不足だ。慎也は少し前の地面だけを見ていた。自転車のライトが土に戻りかけた枕木と雑草を照らす。

 歩きながら、恐怖を忘れるように謝る術を考える。真子はもう謝った。何も悪くはないのに、何度も何度もごめんなさいと言った。悪いのは慎也なのだ。自分の方が年上なのに一時の恥に取り乱して、真子を泣かせて不安にさせて。

 だからちゃんと謝らないといけない。言わないこと言えないことは他に沢山ある。だからせめて。

 逡巡するものの切り出すタイミングが掴めない。昼間、真子を宥めたときに変な意地を張らず正直になれば、今こんなところでもやもやせずに済んだのに。

 からからと自転車を引いていくと線路の先に建物が見えた。

 あれは確か山の中の廃駅だ。大人も誰も、とうに忘れてほったらかしにされた小さな駅。床のコンクリートはひび割れて雑草が生い茂り、柱や元ベンチらしいプラスチックには蔦が絡みついている。雨避けの屋根はトタンが剥がれて半分は崩れ落ちていた。ここまで来れば慎也たちの町はすぐだった筈だ。

 不意に周囲が光に包まれる。

 一瞬遅れて雷のような音が轟く。

 驚いて見上げた空には、大輪の花が輝いていた。

 きらきらと色とりどりの星を散らし、流れて夜の闇へと溶けていく。間を置かず次の花が開き夜空を彩る。赤に緑に金色に、幾重にも咲き乱れる花火が立ち止まった二人を照らし出す。

(花火大会があるから)

 友人の話を思い出した。打ち上げ花火は今までも見たことがある。だけど人混みの中でもないこんな近くで見たのは初めてだ。海に船を出してそこから打ち上げているのだろうけど、こんな特等席はきっと誰も知らないだろう。

「きれい」

 真子が呟く。溜息を吐くその瞳にはまだ涙が溜まっていたが、もう泣いてはいなかった。濡れた大きな目に空の花が映っている。

「すごいね」

 涙目で笑ってこちらを向く。見られるのが何故か照れくさくなって慎也は花火の方を見た。きらめき、流れ、打ち上がる光の花畑。体を震わせる轟音のせいで胸がどきどきしているように思う。

「すごいね」

 真子がもう一度言った。

 慎也は頷く。

「ああ、すごいな」


 その夜、家に帰って、二人はそれぞれの親からこっぴどく叱られた。花火に見惚れすぎて時間を忘れてしまったせいだ。けれどそのことは言わなかった。

 どちらが言い出した訳でもなく示し合わせたように思ったのだ。あの場所は二人だけの秘密にしようと。

 あんなに素敵なものを見付けたのだから、怒られるのだって構わないのだと。


 翌日から二人は町で遊んだ。隣町ではなく慎也の住んでいる町でだ。

 何故かと言えば、花火の夜の遅すぎる帰宅のためしばらく自転車を禁止されてしまったからである。隣町に毎日行くほどの電車賃は無いし、歩いて行くにはあまりにも遠い。

 あの日に言いそびれた謝りの言葉はずるずると言いそびれたままになっている。また明日、明日があるからと先延ばしにしていた。そんなこと、この先いつでも言えると思っていた。

 だから、真子が明日帰ると突然告げたとき、慎也はぽかんと見つめることしか出来なかった。

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