第3話
「自転車、乗せてくれるの?」
大きな目を瞬きながら、真子は自転車と慎也を何度も何度も交互に見た。その日の彼女は淡いブルーの半袖ブラウスにショートパンツで、襟には二羽のツバメが細い翼を広げている。
「乗せてやるって言ってもな、条件がある」
「じょうけん?」
「絶対に泣かないこと。これからそのテストをする」
空は輝くような晴天。海は眩く揺れて輝き、木々からは今を盛りと鳴く蝉たちの声が聞こえてくる。海まで真っ直ぐに続く緩やかで細く長い坂道。そのてっぺんに二人はいた。
大事な相棒に女の子を乗せるのは気が進まない。二人乗りの経験が無いのは勿論、女の子なんて乗せているのをうっかり学友に見られでもしたら新学期に何を言われるか分かったもんじゃない。でも自転車を持っていない真子を連れ歩くのと、歩いて行くには遠すぎる隣町への冒険をどちらもやり遂げるには、他に方法が無い。だからって簡単に乗せてやるのも癪だったから、条件をつけて折り合うことにしたのだ。
「しっかり掴まってろよ」
言って先に自転車にまたがる。
事前に教科書とノートをいっぱいに詰めたランドセルを荷台に載せて練習もした。坂道も自転車を手に入れてから何度となく下り慣れた道である。車も滅多に通らない。人通りも無い。だからきっと大丈夫だと自信を持っていた。
緊張した背中に、ふわりと重さが乗った。真子の小さな手が脇から伸びて慎也の腰をぎゅっと掴み、照りつける日差しには似つかわしくない柔らかくて爽やかな匂いが後ろから頭を包み込んだ。
「お前、自転車とか二人乗りとか、やったことあるの?」
「自転車はお家にあるよ。二人乗りもしたことがある」
「……ふうん」
「でも、男の子に乗っけてもらうのは初めて」
「……そっか」
慎也はハンドルを強く握り込んで、地面を蹴り斜面へと漕ぎ出した。見た目は羽根のようなのに、荷台に乗った真子は予想以上に重かった。教科書ぎっしりのランドセルなんて目じゃない。その重量にふらつきながら前屈みになってペダルを漕ぐ。だんだんとスピードが上がり、それに連れて姿勢が安定する。風がひゅるると耳元で歓声をあげた。
すごい、と慎也の胸にも興奮が湧き上がる。
今までのどんな良いときよりも速いスピード。木々も町並も目にも止まらず行き過ぎて、あっという間に海が目前へと迫った。いつものように力いっぱいブレーキを握る。
が、止まらない。風は唸りを止めず、町並はまだ飛んでいる。
背筋がひやりと冷たくなった。
海は瞬く間に視界に広がり白波の形まではっきりと見える。それを覆い隠すようにコンクリートの堤防がせり上がった。全力で手のひらを握り込み、踵をアスファルトに擦り付ける。生き物の悲鳴のような金属音。目を瞑って夢中でハンドルを切った。
もしかしたら気を失っていたのかも知れない。痛みも衝撃もなく、そっと目を開くと、辺りはいつもの夏の景色だった。途端、耳に潮騒と蝉の鳴き声が戻ってくる。
「すごかった。お空に飛んでくかと思った」
背後からの嘆息に慎也ははっと我に返った。
振り返ると、笑顔の真子がいた。泣いてはいないが大きな目を潤ませて、少しだけ強張った笑顔の。
「……怖くなかったのかよ」
「何が?」
「今の坂道。止まれなかったら、ぐしゃってなるんだぞ。死ぬんだぞ」
「ちょっと怖かった。でも慎くんは止まったよ」
今度は曇りなくきらきらと笑った。
慎也の背中はまだ冷や汗でじっとりしている。
「だって慎くんと慎くんの自転車だから、きっと出来るって思ってた。やっぱりすごいね」
あんまり手放しで褒められるものだから、慎也は嬉しくて、歯痒くて、照れくさくて、鬱陶しくて、先程の怖さも少し残っていて……うまく言い表せない、変な気分に満たされる。
「こんなの大したことない。ほめすぎ。馬鹿じゃねーの」
何て言ったら良いのか分からなくて、口調はやっぱり乱暴になってしまった。
隣町への冒険の日、真子は当たり前のように自転車の荷台にちょこんと乗っていた。
服装は白地に紺のストライプ。いつも通り半袖短パンの慎也は、女ってのは一体どれだけの服を持っているのかと思う。坂道のテストからこっち、相棒の荷台は真子の席になった。泣かないことが二人乗りの条件だったから確かに真子は見事合格したことになる。だから当然といえば当然。言いだしっぺは慎也だし、男に二言などあってはならない。
「本当に良いんだな。隣町はすごく遠くて、何があるか分かんないんだぞ。いつもの冒険とは違うんだからな」
「知ってる。慎くんがしょっちゅう言ってるから」
「危ないこともあるかも知れないんだからな。半端な気持ちじゃ駄目なんだぞ」
「はい」
「なら、よし」
帽子はかぶった。水筒には麦茶がたっぷり。財布にはなけなしの四百円。自転車は昨日の夜にしっかりメンテナンスをして快調そのもの。準備は万端だ。
「出発!」
がしゃん、とペダルを踏み込んだ。最初は重いがスピードが出るに従って軽くなる。この何日かでどうにか二人乗りにも慣れた。慣れたとは言っても荷台の真子はやっぱり重くて大分ふらついてしまうけど。
いつもの町並を抜けると、たまに車が通る方のくねくね道に着く。入り口までは去年にも遊び仲間と来たことがある。ここから先は一人でしか行ったことは無かったが今日は後ろに真子が乗っている。腰に回された細い腕を変に意識してしまう。きっと今もいつもみたいに期待の眼差しをこちらに向けていることだろう。
緊張を残しながらそのイメージを振り払い、慎也は山道へと漕ぎ出した。
車が二台通れる道の両側は青々と茂った木立だ。以前に来たのは五月の終わり。草木は当時より緑濃く色鮮やかに生い茂っている。町中とは比べ物にならないほど喧しく蝉が鳴き、見たこともない大きな蝶が優雅に羽をひらつかせる。道路の真ん中あたりは空が川のように筋を作っていて、眩しい日射しが降り注いでいた。車道と歩道を区切るラインはアスファルトに身を乗り出した草や蔦に覆われ、上から木洩れ日がまだらを描いている。消え入りそうなその線を自転車のタイヤでなぞって進んでいく。
くねくね道の半ばを過ぎるとだんだん傾斜がきつくなる。苦しくて足が痛くなってきたけど口に出すのは嫌だった。ギアを軽くして、それでもふうふう言う慎也を案じてか何度か真子が大丈夫?と尋ねてきたが、その度に息を切らせながら平気と答えた。
こんなとこ誰にも見られませんようにと、神様と仏様とお地蔵様に祈る。
慎也の願いが届いたのか、幸いにも登りの間は人も車も通らなかった。一番鉢合わせたくない友人たちはそもそもこんな道は知らないだろう。
坂道を登り切れば後は下り。真子は坂の上からの見晴らしを期待していたようだが、生憎とくねくね道のてっぺんは林の中である。
「葉っぱしか見えないんだ」
少しがっかりした口調。背中越しに残念そうな表情が透けて見えるようだ。気持ちは分かる。慎也も最初に来たときは山の上からの景色を楽しみにしていた。
「仕方ないだろ。こっからはしっかり掴まってろよ」
ギアを戻し、下り坂へと走り出す。二人乗りだと速度が出るというのは初日の坂道で思い知ったから、ブレーキをこまめに利かせながらカーブを曲がっていく。涼しく吹く風の中、木漏れ日が二人の周りをくるくると踊る。真子がきゃあきゃあと歓声をあげた。
登りと違って下りはあっという間に終わってしまい、木立が切れて民家が顔を出す。目的の隣町に入ったのだ。
慎也が知っているのはここまで。この先が目的の、本当の冒険である。
山を降りてしばらくは住宅街だった。道は狭くて、家も歩いている人も門の中から吠える犬も近所とあまり変わらない。なのに隣町のものだというだけで、都会的で立派に見える。空気の匂いすら違う気がする。
更に進むと真新しいコンビニがあった。慎也の住む町にもコンビニはあるが、ついこの間まで酒屋だった小さな駅前の一軒だけで、店構えは変わってもどことなく古臭い雰囲気が漂っている。しかし新たに見つけたその店は看板の色が違うだけでなく、空気もこざっぱりと垢抜けていた。
「冒険の店、第一号だぞ」
何だか浮かれて嬉しくなってそこで炭酸のジュースを買い、真子と飲んだ。山一つ越えた新しい町でラッパ飲みした炭酸はしゅわしゅわと弾ける泡まで違った。
それから先は何を見ても胸が躍った。空に突き刺さる鉄塔、背の高いマンション、公園にあるカラフルなブランコや滑り台、広い川に架かる長い長い橋……慎也が初めて見る、或いは知っているがずっと立派なものが次々と目に飛び込んで来る。暑さも空腹も自転車を漕ぐ疲れも忘れるくらい、全てに心を奪われていた。
「やっぱすげーな」
な?といちいち真子を振り返ると、笑顔と頷きが返ってくる。ときには真子が先に何か新しいものを発見して慎也に報告し質問責めにした。発見の先を越されるのはちょっと嫌だったが、そんな小さな苛立ちはその見つけたものへの驚嘆にすぐ掻き消される。
時間を忘れた彼をようやく我に返らせたのは真子の方だった。
「慎くん、もう夕方だよ」
はっとした慎也が見上げると既に山の色は暗くなり、空は薄紅に染まりつつある。足下の影も長く伸びて腹の虫も今更ぐうぐうと鳴き出した。今日はもう帰ろうと自転車をターンさせる。林に囲まれた山道はきっともう暗いだろう。真子が不安げにシャツをぎゅっと握るのを感じた。
「びびんなよ」
「うん」
懸念通り林の道は薄暗く、てっぺんを過ぎる頃には頭上に星が輝いていた。木立の奥は完全に真っ暗闇で、あれだけ鳴いていた蝉は黙り込み、代わりにコオロギやスズムシの声が葉摺れに混じり聞こえてくる。真子は怯えきって慎也の背中にくっつき、何も言わない。
俺だって怖い、なんてことは言える筈がなかった。もしかしたら真っ暗な林から得体の知れない何かが飛び出して来るんじゃないかと思うと気が気じゃなくて、だけどそんな情けない気持ちは絶対に真子には知られたくない。だからわざと声を張り上げて、アニメ番組の歌を怒鳴るように歌って進んだ。
やがて木の間から町の明かりが見えるようになり、慎也はようやくほっとして、真子も安心したのかシャツを握る力がいつもくらいに戻っていた。
家族には当然怒られた。鬼の形相になった両親に引っ張られて真子の家に行き、真子の親にも頭を下げさせられた。がみがみと叱る母を真子の親と先に怒りが解けた父が宥めている間、真子が隣に来て、そっと耳打ちする。
「次の冒険も、ちゃんと連れてってね」
間近からの息で耳がこそばゆかった。
慎也は真子の方を見ず、黙って頷いた。
それから二人は何度も隣町への冒険へ出かけた。初めはくねくね道から遠くない、山が近くに見える周辺部を。次第に川を渡り、大通りを挟んだ中心部へ。一番の繁華街であろう大きな駅前は最後のとっておきにするつもりで後回しにした。
ど真ん中まで行かなくても、隣町は珍しいものが沢山ある。透き通ったアーケードとその下にひしめく商店街、探検には打ってつけな不気味さを漂わせる地下鉄の駅、巨人の足のような柱に支えられた高速道路、屋根があるだけでなく何層にも重なった駐車場、そこに停められた流線型のスポーツカーやごつくてゾウのように大きなワゴン車、八百屋もお菓子屋も文房具屋も服屋も入ったスーパー、大きな窓やくるくる回る看板のレストラン……全てが大きくて垢抜けて目まぐるしい世界。
慎也はただただ胸をいっぱいにしていた。初めて蛹から孵った蝶だってこんな一度にいろいろなものを目にはしないだろう。自転車を漕ぐより、新しい発見に驚く方でくたびれてしまいそうなくらいだ。
真子も慎也の後ろ、荷台の上で負けずにころころと笑い歓声をあげ、あれは何これは何とひっきりなしに質問を投げて来た。一つ一つの発見にじいんと感動しているときにそれをやられて、何度かムッとさせられたものだ。
しかし、自分の町を探索したときのように一人きりでなく、見たものを一緒に分かち合える仲間がいるのは、何だか嬉しいことだった。それを口に出すのは照れ臭いのでやはり嫌だったけれど。
天気は連日晴れ続き、照りつける日射しは何もかもを鮮烈に浮き立たせる。陽炎の立つ道は合わさり、分かれ、また合わさり、網の目のように広がって、どこまでも世界中へ行けるような気がした。真っ暗な夜でも山の中でも、どこか遠くにある人っ子ひとりいない砂漠に行ったって、真子がいるなら寂しくない。
想いは彼方へ広がりながらも、実際は初日に叱られた経験から、冒険は早め早めに切り上げて夕方までには帰るようにしていた。一日の時間は限られているから探検の場所が山から離れれば離れるほど、新しく見て回れる範囲は減っていった。
本当はもっと遠くへ行きたいのに。
真子がいなかったら、日が暮れてから帰っても怒られないんだろうか、とか。
一人なら自転車も軽くて遠くまで走れるんだろうか、とか。
ふと意地悪な考えが頭に浮かぶ。消えては浮かび、また消える。
でもそんな不満は些細なことだ。真子はすっかり冒険の仲間になっていたし、友達と喧嘩して嫌な気分になることだって今までも夏に限らず何度もあった。真子とのことも同じ、過ぎれば暑さに紛れて忘れてしまう。そういうものだ。