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ぼくらの自転車  作者: 一里 郷
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第2話

 慎也が住むのは小さな山と森に囲まれた海沿いのなだらかな坂の町。

 社会の授業で調べたところによると、人口は二万人くらいだったと思う。

 それに比べて目的地の隣町は二倍も三倍も広くて大きい。駅から大通りから人が溢れデパートや高いビルが立ち並んでいる。小山一つ挟んだだけのその町にはほんの時々、家族で電車に乗って行くだけだった。隣とは言葉ばかりの遠い町。

 だがその年、小学六年生の慎也にはどんな坂道も悪路も乗り越えて来た相棒がいた。

 こいつと一緒なら隣町なんてすぐさと、根拠のない自信に満ち溢れていた。

 その目論見通り、二つの町を結ぶルートは日を経ずして見つかった。一つ目は山を突っ切るトンネルで、車の行き来も激しい広い道である。見つけたその日に親から危ないから一人で通るなと叱られたものだ。二つ目と三つ目は山の上を通るくねくね道。片方は車が少し通る狭い道で、片方は舗装もあやしく人気もない。どちらも隣町へ行くにはかなりの時間がかかる。そして四つ目、海沿いを走る廃線跡。人が全く踏み入らないらしく草はぼうぼうに生い茂り、自転車を押して歩かなければならず距離的にも大回りになってしまうが、坂もなく、平坦で眺めの良い優秀な秘密の近道だ。

 普段は二つ目と三つ目、特別なときには四つ目を使おう……そんな使い分け計画を立てた頃、季節は梅雨に入り、雨ばかりの毎日に慎也の隣町探索計画は延期を余儀なくされた。

 しかし、じとじとした長雨が終われば次は夏。夏といえば夏休み。あのぴかぴかな青空の下、坂道を風になって下るのはどんなに気持ちが良いことかと、思いは果てを知らなかった。暑さなんて一瞬で吹っ飛ぶに違いない。

 夏休みは目一杯、隣町での冒険に使ってしまおう。友人たちは今年、春から塾に通い始めて夏もずっと勉強だという者が多い。最後の砦である兄は高校受験で忙しく、今年に入ってから口を利くことすらあまり無い始末である。どうせ遊び相手がいないなら誰にも内緒で一人で行って、学校が始まったらみんなに自慢する計画にしよう。そんな一人きりの壮大な計画を頭の中に巡らせていた。

 小学生最後の夏はそう過ごすはずだった。


 その子が現れたのは、夏休みが始まって間もなくの頃だったように思う。

「はじめまして」

 夏の日差しが照りつける小さな空き地、木陰の下へ容赦なく降りしきる蝉時雨。隣町へ行く前にうっかり転んでしまって、大事な相棒がどこか歪んでしまってはいないかと調べていたそのとき、背後から言葉を投げられた。

「私は真子。あなたはなんて名前?」

 振り向いた先にいたのは小さな少女で、にこにこと無邪気に笑っていた。

 はすに被った麦藁帽子にノースリーブの白が眩しい。日に焼けたのかハーフなのか、短い髪はとても明るい色をしている。年は一つか二つ下だろう。目立つ雰囲気なのにどこでも見かけたことがなかったから、他所から来た子なのはすぐに分かった。

 答えずにいると、少女はすぐ傍まで歩いて来てしげしげと慎也の相棒を眺めた。

「きれいな自転車。青くてサファイアみたい」

 少し舌足らずな口調で言う。何て女の子らしい例えなんだと、内心鼻で笑ったことを覚えている。

「違う。これは海の青色。サファイアなんてきらきらしてるだけの石とは違うんだ」

「海も素敵だね」

 少々つっけんどんな返事に怯むことも気を悪くした様子もなく、彼女は目を輝かせるだけだった。

 その後も少女が訊いて慎也が返すという応酬が続いた。どこへ行くのか、自転車に乗って行くのか……問いの数々に対する慎也の返答は短く素っ気ない。女の子なんかと一緒にいるところを誰かに見つかったらと思うと冷や冷やしたし、遠慮のない質問の嵐も鬱陶しかったけれど、追い払う気にはなれなかった。相手はまだ小さいしとか、自転車を褒められるのは悪くない気分だからとか、よく見ればちょっと可愛いとか、様々な理由が頭の中を廻っていたが、どれも一つでは解決できないものばかりだったように思う。

「でも、隣町って遠いよ。危なくない?」

 幾つ目かの問いに、慎也はふんと鼻を鳴らした。

「ちょっとくらい何ともない。冒険なんだから。冒険に危険は付き物なんだ」

 途端に少女の顔がぱっと輝き、声が期待に跳ね上がった。

「それ、私も連れてって!」

 慎也は呆れた。今しがた自分で危なくないかと聞いておいて、一体どういうつもりなのかと。

「お前、自転車持ってるの?」

「持ってない」

「俺、自転車で行くんだけど」

「乗せてって」

「駄目に決まってるだろ!」

 つい声が大きくなってしまい、少女が目を丸くしてこちらを見上げた。

「そんなの駄目に決まってるだろ。冒険は危険だし、こいつは俺の大事な相棒。女なんか乗せてやらないんだよ」

 乱暴な言葉に棒立ちになった真子に背を向けて慎也はさっさと自転車に跨った。泣くかなと危ぶんだが、思いの外、泣き声は追いかけて来なかった。

 別に知らない女の子だし、どうせもう会わないだろうしと考えて、胸のちくりとした痛みを吹き飛ばした。引き返そうかという迷いも一緒に。

 行きたい道も帰り道も本人が一番よく知ってるだろう。

 それに二人乗りをしたことが無いなんて、ばつが悪くて言える訳がなかったのだ。


 だけど再会は翌日、あっさりとやってきた。

「斜向かいのお隣さん、ほら雨宮のおじいちゃん、慎也も知ってるでしょう? そこのお孫さん」

 昨日はあんたが朝から出掛けてったから紹介し損ねたのよ、と当てつけがましく言う母の横に、にこにこ笑顔の少女がいた。その斜め後ろに彼女の母親らしいぱりっとした服を着た女性がいて、宜しくお願いしますねとこちらも笑顔で頭を下げる。少し離れて慎也の父と真子の父親が、兄も交えてやたらと親しげに言葉を交わしている。

「うちのお父さんと慎也くんのお父さんはね、中学まで同じ学校で友達だったのよ」

 にこにこと笑う両親と、真子と、真子の両親。

 仲良くして下さいねという挨拶代わりのお願いに始まり、うちは男の子だからどうの女の子だからどうのと、親同士が会ったときにお決まりの謙遜合戦に突入する。こんなときは、すぐそこに本人がいようがいまいがお構いなしだ。

 どこまでが本音でどこまでが社交辞令か分からない会話の降る中で、慎也は真子にひきつった顔を向けるのが精一杯だった。

 見えない包囲網である。


 その日から真子はどこへ行くにも付いて来た。

 一人っ子で、この辺りには初めて来たから遊び相手がいない、というのが本当らしかった。祖父の家に来ているのだから祖父に遊んで貰えば良いと言うと、祖父は両親とばかり話しているし、子供は子供同士で遊ぶのが一番だと言われた、と返される。年上の男子である慎也に声をかけてきたのもその辺りが理由で、どうやら近所で他に同世代の子供が見付からなかったらしい。

 真子は、家のことはあまり話さなかった。慎也が訊かなかったせいでもあるが、どこか不思議な雰囲気の子だった。どれだけ慎也が邪険にしてもけっして折れることなく、町の中は当然のこととして、草ぼうぼうの空き地や虫がいっぱいいる林の中まで金魚のフンのようにくっついてきた。

 正直、雨宮の老人とはろくに口を利いたことも無かったし、こぶ付きでは遠出も出来ないと不満だらけだったが、二人で過ごす時間はそこまで悪いものではなかったのだ。好奇心旺盛な真子は何でもかんでも目に付いた物のことをすぐ訊いてきて、答えると無邪気に喜んで慎也に尊敬の目を向けた。生まれたときから育ってきて庭同然の町のことなのだから、そんな問いの答えは何より簡単だというのに。

「あれはハマナスの実。甘酸っぱくてそのまま食える。でもトゲあるから注意」

「これはアオカナブン。普通のカナブンより青いやつ。今はいっぱいいるけど減ってきたら夏休み半分過ぎってこと」

「こいつは鈴木さんちのジロウ。懐っこいけど首輪さわったら超吠える」

 一つ一つの答えに、真子はすごいすごいと慎也を褒め称えてはきらきらした目でその草花や虫や犬を見つめる。その反応が嬉しくもあり照れくさくもあった。

 それでも四六時中付いて来るものだから鬱陶しいと思う気持ちも多く、時には一人で放って置いていくこともあった。女の子ひとり撒くなんて慎也にとって難しいことではない。いつもの時間よりうんと早く家を出たり、冒険の途中で勝手におしまいにして自転車で先に帰ってしまったり……当然、家に帰ってから母親にみっちりと怒られて、次の日には笑顔の真子が家の前で待っていて、また二人で出かけることになる。そういう日はいつもよりべたべたとくっついてきて、それが一層いつもより煩わしく感じられた。

 あるとき、早朝に家を出て撒いた振りをして彼女の後をこっそり追ったことがある。真子は母親から慎也の不在を教えられてからもしばらく家の前にいて、それから黙ってとぼとぼと歩いて行った。きつく唇を結び、声を殺して。

 その日はずっとひどく後ろめたい気分だった。もやもやした何かは蜘蛛の巣のように絡みつき、どんなに坂道を下っても海風を浴びても晴れることは無かった。

 折角の一人きりのチャンスなのに、空は冒険日和の快晴なのに、ちっとも楽しくなれない。気持ちが弾まない。帰宅して毎度のように母親に叱られても反発する気になれず、夕飯の後はずっとベッドに寝転んで天井ばかりを見ていた。

 次の日から慎也は真子を撒くのをやめた。

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