ミノリ
車で訪れた山の中。別に夜景などが趣味ではないのに、何故か私はそこにいた。
街が一望できるその場所から、安全のための柵の向こう側を乗り越え、私は景色と星空を見つめていた。
「こんばんは」
背後から声をかけられて、振り返る。今年二十二の私よりも年上の男性。二十代後半といったところか。
たった一人。女である身だというのに不思議と私は彼を警戒することなく、挨拶を返した。
景色の美しさに、少し浮かれていたのかもしれない。
「どうしてここに?」
「……星が綺麗だから?」
ここにたっている理由は自分でもよくわからなかったので、適当に理由を付けた。彼は「ふうん」と言って、微笑んでいる。
私はまた前を向いて、目の前に広がっている見事な景色に見入る。
そんな私に彼は「あのね」と声をかけ続けてきた。
「僕、ミノリっていうんだ」
「……え?」
「母さんがくれた、大切な名前」
“ミノリ”――それは、耳に馴染みのある名前。そう。自分と同じ名前の男に、私は目を瞬かせる。
彼はそんな私を見て笑いかけ、寂しそうに
「そうなるはずだったんだ……」
俯きぎみにそう、呟いた。
私は首を傾げる。『そうなるはずだった』とは、どういう意味だろう。と。
ミノリは困ったような瞳をしてまた私を見据えて、
「本当に、星を見に来たのかい?」
「? ええ。まあ」
「そっか。残念」
彼は「ミノリになりたかったなあ」と、空を仰いだ。
柵で隔たれた、私ミノリと、男のミノリ。
「君がもし、星以外の目的だったなら、僕がミノリになれたのに」
微妙な距離の向こうで彼が言った科白を最後に、
私の目に飛び込んできた暫くぶりの現実の色は、天井の白だった。
数日後。入院している病室のベッドの上、仰向けで漫画を読んでいた私は、見舞いにやってきた母に顔を上げて笑う。
「本当に、あれだけ大きな事故だったのに後遺症がなくて良かったわ」
「うん……」
他愛のない会話の合間。安堵の吐息まじりの母に心底私は頷く。
母曰く。道路に飛び出した子猫が原因だった車の玉つき事故に巻き込まれ、意識不明の状態が数日続いていたのだという。
私が覚えているのは、事故の時に受けたであろう身体の衝撃のみだったけれども。
身体に残ったのが傷跡だけで済んだのは奇跡的だったと、医者にも言われた。
お母さんが家から持ってきてくれた漫画本の続きを受け取り、お父さんのこと、妹のこと、家族の近況に耳を傾ける。
傷は順調に治りかけているし、退院はもうすぐだろう。
(本当は樹にもお見舞いにきて欲しかったけど……お仕事大変みたいだし、我慢しないとね)
近いうちに同棲を計画している恋人を思い、少し切ない気持ちになりながら。
その時の私の頭の中は、意識を失っている時の夢など綺麗さっぱり、忘れていた。
不思議な夢ではあったけれど。あの夢には恐ろしさや幸せなどといった特別な強い印象は抱かなかったが故に。
――退院後、同棲を始めた数日後、あの日までは。
「樹。お風呂入ったよ。一番風呂どうぞ」
「おう。悪い」
お互いの仕事休みが珍しく合った、幸せな日曜日。
風呂が入るまでネットをしてくつろいでいた恋人に声をかけた。
朝から洗濯し取り入れたばかりの足拭きタオルを彼のために脱衣所に敷いていると、後ろから抱きしめられる。
「どうよ。久々に一緒に」
「……うーん。見慣れちゃうとレスになるっていうし、やめとく」
「えー。気にしなくていいのにな」
「恥じらい無くなりそう」
これが結婚して暫く経っているならいいかもしれないけれど、まだまだ私たちはこれからだ。今がきっと一番楽しい時なのだろうし、ラブラブでいたい。
笑っていると、「ちぇー」と樹は冗談っぽく拗ねて私から離れた。
服を脱ぎだした彼に背を向けたまま、私は脱衣所から出た。
樹の服を用意し、また脱衣所に入ってから置いておいてやる。
一仕事終えて息を吐き、彼が戻ってくるまでネットでもしていようと、樹が弄っていたパソコンの前に座った。
「また掲示板のまとめ見て……あ、なにこれ――」
ネット上で開かれたタグには、『自殺の名所の画像をうpしていくスレ』と書かれてある。
またこんなもの見て……樹は明るくていざというとき頼りになる、私には勿体ない恋人ではあるけれど、たまにこういった悪趣味なまとめサイトを開いていたりする。
こんなものを見て何が楽しいのだろうかと、途中までスクロールされたバーを下へ移動させていく。
なんとなく、気まぐれだった。別に興味があったわけではないけれど。
流して見つめていたいくつかの画像の内。一つが目に入り、私はつい、マウスを操っていた手を止めた。
生い茂っている場所。撮影された場所は、山の中かららしい。
安全のために建てられた柵の向こう側には、どこまでも遠い街の景色。
既視感。それを思い出すためには数分時間を要したが、それが事故にあった時無意識の中で見ていたものだとようやく気付く。
何故、私はあんな夢を見たのだろう。この画像の中にある山なんて、一度も行ったことないのに。
ぼんやりと考えていた私の思考にこの時割り込む、涼やかな電子音。
テーブルの角の上に置かれたスマホの存在をそこでふと思い出して、タブレットの光を灯す。
ラインだ。相手は、実家にいる妹から。
『聞いてよお姉ちゃん! また彼氏がデートに妹連れてきた! あのシスコンめー!!』
ウサギが青筋マークを頭に刻んでいるスタンプと共に送られたメッセージ。
私は内心で「あちゃー……」と、妹に感情移入して、憤る妹を慰める。
どうも妹の彼は、彼の妹と恋人のように仲がよろしいらしく。
同じ女として、姉として、いつものように妹の怒りが静まるまで愚痴に付き合った。
十分ほど付き合ってやれば冷静さを取り戻し、『いつもごめんね』という返事が返ってくる。
「いいってことよ」とお気楽なスタンプを送り付けたのを区切りに、会話の内容は他愛のない話へシフトした。
『あ、ねえお姉ちゃん。そういえばさ』
『なに?』
『お姉ちゃんが生まれる前、お母さん中絶してたんだって』
『え? なにそれ、知らない』
初耳だった。確か父と母は高校生からの付き合いで、交際期間が長かったと聞いたことがあるが。
『大学卒業後お父さんとお母さんが一度別れて、お母さん不倫してたって。一晩だけらしいけど。
お父さんと寄りを戻して、お父さんが事情を全部知った上でその子を育てるつもりだったけど、お婆ちゃんたちが反対して泣く泣くおろしたんだって』
『お婆ちゃんて、どっち?』
『茨城の方。茨城のお婆ちゃんが言ってた』
茨城の方とは、父方の祖母のほうだ。
彼女は私たち姉妹には優しいけれど、お母さんには当たりが強かった。
どうしてだろうと幼い頃からずっと疑問に思っていたが、そういうことだったのかと今になって腑に落ちた。
『そうだったんだ。じゃあ』――とまでスマホをタップしてから、パソコンの画面がふと目に入った。
記憶から蘇る、あの不思議な夢。
交わした会話。彼は、なんと言っていただろう。
『僕、ミノリっていうんだ。母さんがくれた、大切な名前』
『そうなるはずだったんだ……』
場所は、自殺の名所。
柵を乗り越え、私は一歩踏み出せば容易に命を落とす場所に立っていた――。
『君がもし、星以外の目的だったなら、僕がミノリになれたのに』
あの最後の言葉は、一体、どんな意味で……
私は慌てて、考えるのをやめた。
考えたくなかった。うすら寒いものを感じてパソコンのブラウザを閉じた私の左耳から、
風呂から上がった樹の気楽な鼻歌が、右耳へと通りすぎていった。