新しい部屋(1)
階段の手前まで水が来ていた。しかし、階段はまだ続いている。水が手前まで満ちてきたという風でもあった。彼女はためらうことなく、水へ入ろうとした。
「ちょっと待って」
「どうしたの?」
腕を掴まれた彼女の顔には抗議の色が浮かんでいた。しまった、と内心で短絡な行動を恥じた。
「ごめん………ちょっと。なんていうか、このまま入っても大丈夫なのかな?って思って」
「大丈夫だよ。水の中は気持ちいいよ」
ぐいと手が引かれる。僕は引かれるがままに水へと引き込まれていった。
「ちょっと」
自分は 船乗りだ。狂犬病に罹っているわけでもないし、怖いと思っていては成り立たない仕事だ。真っ先に切り捨てたはずの感情が俄かに掻き立てられた。それは水への恐怖というより、水を恐れぬ彼女への恐怖であった。
水の中へと入っていく。彼女は足を浮かせることもなく、階段に足をつけたまま、下っていく。僕は引かれるがままに入っていったが、不思議と足か。浮くことはなかった。
「どうして………どうして水の中なのに」
「不思議でしょう」彼女はそこで振り返ってほほ笑んだ。
原理は分からない。だけれども、なんとなく「できる」ものがそこにはあった。気がつけば、僕は水に体を任せていた。思えば、重力から解放されたぶん、水の中の方が楽なのかもしれない。
「ここよ」
彼女はある同じようなコンクリート部屋の前で立ち止まった。扉は外れてしまったことを、蝶番の跡が告げていた。
その部屋も前の部屋と同じように天井がなかった。はるか遠くが藍色に染まっていた。
「あれは」僕は指を差してたずねた。
彼女は指をたどって、目を細めた。
「あれは海流。名前は知らないの。だけど、あそこだけ濃い水が流れているらしいの」
「どうやって、そんなに物事を知ってるんだい」
「本を読んだり、聞いたりしてるの」
「誰にだい?」
僕はふと思いついたようにあたりを見回した。誰かがいるのだろうか。実を言うと、僕はすっかりここを気に入っていた。いるのなら、挨拶した方がいいとも思ったからだ。
「あなたみたいな人」
「僕?」
彼女は小さくうなづいた。だが、それ以上は何も言おうとはしなかった。聞いても寂しげに笑うだけだった。
「この部屋は何の部屋なんだい?」
「あなたにあげる」
「あげる?」
彼女はこくりとうなづいた。不意に逆光になり、彼女が少しだけ眩しかった。
ーもらえるものはもらっておこう。
僕はそのまま好意に甘えることにした。
部屋は何ら遜色のない部屋だった。ちょうどいい大きさで、遥か彼方から注ぎ込む光が心地よかった。そういえば、今は何時くらいなのだろう。そのとき僕は時計がないことに初めて気づいた。