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モルフォ蝶の丘

作者: 横須賀正佳

秒針の乾いた音と男の弱々しい心音が冷気に包まれた病室にかぼそく反響しあっていた。

薄暗い室内に陽の光がさし真白の布を纏いベットに横たわる女の姿だけをピンスポットのように美しく照らしていた。


妻、田辺敦子が死んだ。

それはあっけなく、あっさりと、この世に何の未練もないような最後だった。

68年の人生だった。

敦子の死に顔の上には敦子の夫、田辺健二の何重もの皺をさらにしわくしゃにし圧縮された顔があった。

その皺を伝って涙が無秩序に滝のように流れていた。

その涙が敦子の顔に溢れ落ちようとも敦子はピクリとも動かなかった。


敦子の突然の死に、驚きが先行し、健二の理性の器では間に合わないほど後から悲しみが襲ってきたものだから、理性の大破はダムの放流の如く半端なものではなかった。

大量の涙を敦子に恥じらいもなく浴びせ続け、ほどなくして健二はその場にへたり込んだ。


すっからかんとなった悲しみは、病室の窓から見えるイチョウの枯葉がただ風に弄ばれながら空を漂うように、健二は妻の亡骸と一緒に病室の中を浮遊しているかのようだった。

どれくらい時間が経っただろう、病室にある時計の針の音だけが、健二の耳に鮮明に響いていた。


親類のいない敦子の葬儀は死と同様、

あっけなく、かつあっさりと、秩序よく進み敦子の遺体は理路整然と流れるように葬られていった。

数少ない参列者に「ありがとうございました」

と平謝りするサラリーマンのように何遍も頭を下げ、何杯もビールの酌をした。

軽い取引先との接待をしているような気分になった。

よくこうしている方が気がまぎれると聞くが、今の健二には鬱陶しく煩わしいことこの上なかった。

その場にいるのが息苦しくなり健二は外へ飛び出してた。


敦子の死を歓迎するかのように2月の空は憎らしいほど青くどこまでも透き通っていた。


葬儀屋、僧侶、数人の参列者を見送り、ほどなくして健二は敦子と買った築50年経つマイホームに敦子の遺影とともに家路にかえってきた。

50年ほど前はピカピカして初々しかったマイホームも壁に苔がこびり付き庭先の手入れを怠った結果雑草が活き活きと生え初々しく風に揺れている。

これじゃちょっとした心霊スポットとなんら変わりはない。

玄関を開けても、もう敦子の「お帰りなさい」

は聞こえることはない、、、、

敦子が生前履いていた靴と健二の靴が仲良く並んでいる。

健二はそれを見ると今にも崩壊しそうな涙腺を懸命に理性で耐え、暗い廊下へ歩を進めていった。

居間に足を踏み入れた瞬間にこの家に染み付いた敦子との、喜び、優しさ、嬉しさ、光、憂い、かぼそい幸せが一気に健二の心中を捕らえ、理性で保っていた涙腺は大破となった。

涙が空っぽになるまで放流すると、健二に取り憑いた芒情達は離れていき健二は夢遊病者のように、敦子の化粧部屋へとふらふら赴いていた。

化粧部屋は敦子が好んで読んでいた林芙美子の数冊の本、資生堂の化粧品、アンティークの鏡、椅子、全てのものが整然と並べられていて、それはまるで敦子の美しい姿そのままのようだった。

健二は洋服タンスに手を伸ばし敦子のセーターを出し、そのセーターを顔にあて、静電気でバチバチになるぐらいセーターをぐしゃぐしゃにし、びしょびしょになるぐらい本日2度目の涙腺を大破させた。

健二の悲しみに支配された脳内シナプスの次なる指令はは敦子の洋服を全部出すという不合理な指令だった。

敦子の洋服を無作為に出しわけのわからぬ感情になっていると、タンスから撮った覚えのない一枚の写真が出てきた、敦子の若い時の写真だった。

広々とした丘に敦子は美しく、惚れ惚れするような笑顔を見せ、神々しく凛と立っていてどこか現実感のない写真だった。

この場所はいったいどこなんだろう?

誰がこの写真を撮ったのだろう?


健二はその場に亡霊のように立ちつくし、記憶の奥底に潜り消えた記憶を辿る旅に出た。


敦子との出会いは40年前、職場だった。

何の変哲も無い景気も屋根も傾きかけた小さな町工場で何の変哲も無い退屈な流れ作業に身を投じ、何の変哲も無いネジを回したり板金加工したり、何のパイプだかわからないパイプを訳も分からず切るような、月給10万円程度の冴えない給料でたまに同僚と安酒を飲んでるような生活を健二は送っていた。

そんな中、新しい社員がこの町工場に入ってくるという噂を聞いた。

誰がやっても一週間もやれば飽きが来るような職場、誰が去った、誰が来るが輪廻転生のように繰り返される職場でまだ見ぬ新入社員に誰も関心など寄せるものはいなかった。

いつもの聞き慣れた機械音が工場内に響き渡っている。

機械と機械が擦れあい不愉快な音だ。

ただ皆この不協和音を聞きすぎて誰も不愉快と感じない。

工場内に蔓延する不愉快に皆自然に馴染んでしまっている。

健二は無心で作業に没頭し何本目かのどこで使われているかもわからないケーブルを切り終わり機械を止め、首に巻いてあるタオルで額を拭いた時、工場にたった一つだけある入り口の茶色く濁った扉が開かれ暗く澱んだ工場内に光が射し込んできた。

瞬間、永遠といったような時間が工場内に流れた。

茶色く濁った扉の前に女が立っていたのだ。

その女は何処か物悲しく孤独を包囲した雰囲気でそれは美しく、神々しく、クレオパトラのような皇后しさを纏い、小汚い工場には似つかわしくもなく、扉の前だけ虚構のような現実感のない存在がそこにはあった。

それはまるで、枯れた雑草の中に綺麗に舞うモルフォ蝶のようだった。

工場作業員全員がこの蝶に魅了され瞬殺で虜となった。

工場長が女に近づき前へ促すと女が赤く塗られた口紅を縦にうごがした。


「皆様初めまして、経理で入った佐伯敦子と申します、どうぞ宜しくお願い致します」


何の濁りも無い透き通った声色が作業員全員の耳を通過し脳内にその声色を閉じ込めそれぞれ甘い官能に浸った。

これが敦子との最初の出会いだった。


敦子は軽く会釈をすると持ち場へと促されて作業場へと向かっていった。

何故このような美人がこのような場末の町工場などを働き口にしたのだろうと疑問を抱かずにはいられないが、当時はそんなことはどうでも良かった。

ただこの小汚い場末の町工場に女が入った

ただそれだけの真実をそのまま受け止め、そのまま誰も掘り下げようとはしなかった。


皆敦子に何か言いたげだが女には疎いため結局不器用そうな顔をぶつけるだけで何も言えず、それぞれの作業へと移っていった。

作業をしているものの、頭の中は敦子のことでいっぱいだった。

むろん健二もその一員だった。


その日からというもの、得体のしれない殺気と活気が工場内に満ち溢れ、作業効率が大幅に上がっていった。

ただただ蝋人形のように何の感情も持たない作業員にやる気という風を吹き込んだのは、紛れもなく佐伯敦子の存在だった。

敦子が作業場を通るたびに男たちは、持てる力を最大限に引き出し手先足先を動かし、我を見てくれ、我の手先を見てくれ、我の足先を見てくれ、我のねじ回しはどうですか?

我のパイプカットはどうですか?

我の板金加工はどうですか?

と言ったような無言のアピールを敦子に浴びせかけていた。

敦子はそんなことには意に介さない様子を保ち去り際軽く笑顔を振りまき、自分の持ち場へと消えていくのだった。

笑顔効果は工場内にインフルエンザウィルスのようにあっという間に伝染し、男たちの鬱屈した心に感染し何年も眠っていた欲望を発熱させていった。

数年の間、作業員には読経のように覇気のなかった機械音もちょっと名の知れた鼓笛隊のような軽快な音に聞こえていた。

作業員達は女子大の合コンで今夜誰をお持ち帰りするかどうか品定めするかのようなギラギラした目を見開きながら、作業をしていた。

かといって不器用に絶望をぶら下げながら生きてきた男たちには女を気持ちよくさせるスマートな口上などできるはずはなく、自分の仕事スキルをただただ無言でひけらかすことしか出来ないでいた。

それは襟巻きトカゲのエラを思い切り広げる求愛本能と何ら変わりなかった。

いつもより多めに火花を散らすもの、いつもより多めにネジを付けるもの、いつもより多めに板を切り裂くもの、いつもより早くかつスマートにパイプをカットするもの、皆、存分に自分の持ってるポテンシャルを120パーセントを出しそれぞれの持ち場でぶつけ合っていた。


穢れた欲望は奢りへと化しヘンテコな形となって工場内に蔓延していった。

そんな無口で不器用な男たちの最高の楽しみといえば、月に一度の給料明細を敦子から手渡しでもらう時だ。

一人一人丁寧に労いの言葉を投げかけ、男たちの穢れた欲望に油を注ぐ。

男たちもそれに応えるように欲望の炎を燃え上がらせる。

誰しもがこの給料明細の日を食事に誘うチャンスだと考えていた。

むろん健二もこの荒くれた男たちと同様それ以上に、このチャンスをものにしようと考えていた。


「相変わらず・・・あっ相変わらず・・・」


「肌が透き通ってるね・・・何かあれだよね」


「君の手は熊手のように細いね」


「この給料明細を離したくない」


「君が欲しい」


洒落た比喩を言おうとするが何も思いつかない者、褒めてない比喩をいう者、気持ちが前のめり過ぎて口説きというより脅迫めいてしまう者に敦子は苦笑いでその場を乗り切っていた。

健二の心拍数が徐々に上がってきた。

敦子が健二の元へ給料明細を受け渡す期がもう直ぐそこに迫っていた。

敦子が健二の眼前に立つ


「田辺さんお疲れ様です」


敦子の透き通るような瑞々しい声が健二の耳を通過する。

心臓音が敦子に気付かれてしまうのではないかと思うくらい弾みまくっていた。


「あっ!!おっおっおーーー!!」


なんだその返答は!!

お疲れ様です!!の単純な言葉さえも喉の途中で止まってしまった。

おーー!とはなんだ!!何の応援だ!!

よっぽど荒くれ者たちの方がアピールしているじゃないか!!


「田辺さんって面白い方ですね」


敦子の言葉が健二の頭の中に入り何度もグルグル回り、離れようとするがそれをしっかり捕らえた瞬間、健二の顔は真っ赤にそまっていった。


「本当おかしい」


敦子は微笑と甘い雰囲気を残滓して、その場を去っていった。

敦子の言葉を何回も反芻し咀嚼しながら、しばらくその場からうごけないでいた。

生まれてこのかた、他の人間に面白いなどと言われたことはなかった。

それをこの工場のクレオパトラに言われてはただただ阿呆面になるのは自明の理であった。


定時になると作業員はそそくさと作業を辞め、そそくさと帰る支度をし、ぞろぞろと家路に帰っていく。

健二は作業員達が帰るのを見計らい、敦子の帰りを待っていた。

全員が帰ったのを確認し、更衣室を出て薄暗い工場内に足を踏み入れた。

昼間豪快に機械音が鳴り響く工場内は真夜中の墓場のように静寂に包まれている。

長年使っている錆びた機械たちは墓石のようでもあった。

薄暗い工場内の奥に経理室がある、健二が目をやると寂れた扉の薄ガラスに仄かな灯りがともっている。

あの灯りの中に敦子さんがいる!

薄ガラス越しに見える影が官能的な気分を煽り立てている。

しばらくすると経理室の灯りが消えドアノブを回す乾いた音が作業場に響く。

とうとう敦子とご対面となる。

健二は紙にセリフを起こしそのセリフを何度も復唱し、練習を重ね、ついには無意識ながらもスラスラと言えるようになったセリフをもう一度頭の中で復唱した。


「良かったら食事へ行きませんか?」


完璧だ。

本番はもう少し、今こそ努力の成果を披露する時が迫ってくる。

もし演劇の神がいるのなら僕に表舞台に立つ勇気とセリフを流暢に言える滑舌とその言葉を相手に伝える演技力を僕に貸してください!!

間もなくすると扉が開き、ドアの隙間から紺色のロングスカートが作業場に露わになり、敦子の細く長い足が地を踏み、いよいよ敦子本人の顔が露わになろうとした時

健二の勇気は急に臆病へと変わり、機械の物陰に隠れてしまった。

静寂に包まれた作業場にコツッコツッと敦子のヒールの音と甘い香水を漂わせながら工場を跡にしようとしている。

ヒールと香水のシンフォニーに健二は心地よくなっていた。

いかんいかん!!!

出るタイミングを見失っている!!!

しかし今出て行ったら完全に食事の誘いどころか、警察へのお誘いを向こうから受けそうだ。

健二は思考をフル回転させ、いかに自然に怪しまれず、スマートに対面するかを考えた。

一人で残業しているかのように汗をぬぐいながら

「あっ!お疲れーーーっ!!」

などとお調子者のように声をかけようか。

いやいやダメだ!

もう私服に着替えているし、だいいちこの工場に残業などない、無駄な経費は絶対にかけないのがこの工場の信条だ。

それならば機械点検はどうだろう!

指差し点検をしている最中バッタリ会ってしまったというのなら自然ではないだろうか。

仕事熱心さも全面に出て、敦子の健二を見る目は輝かしいものになるのではないかという思惑が頭の中で固まり実行に移そうとしたが、敦子は作業場の門を開けあっさりと作業場を後にした。

健二のこんな時間にバッタリ会うなんて偶然ですね!計画は失敗に終わった。


もちろんそんなことでこの機会を逃すわけにはいかない、健二は敦子の後を追うことにした。

直ぐに敦子には追いついたが、臆病がびっしりと取り憑き離れようとせず、少し離れたところから敦子を尾行している男、ストーカーのような存在になっていた。


敦子は工場近くにあるバス停に一人佇んでいる。

夏に残された数匹の鈴虫の優しい鳴き声と満月の光が敦子の美しさを引き立たせていた。

風が敦子の長い髪をいたずらにたなびかせるとそれに逆らうように敦子は髪をかきあげていた。

そこに立っている女性は現実の世界からかけ離れそこにだけ夢の世界があるように健二には写っていた。

その神々しさを纏う敦子のオーラの大きさと健二の白地のど真ん中にケンズとデカデカと書かれたどこのブランドなのかも分からないTシャツとボロボロのジーンズ姿の貧乏神オーラのコントラストでは月とすっぽんぐらいの差を感じてやまない。

しかしこのままストーカーまがいの行為だけでは終われない。

「食事に行きませんか?」

このゴールまでは何とか達成したいという想いと行為がちぐはぐななまま時が過ぎていった。

赤羽方面に向かうバスが敦子の待つバス停に西の方からやってきた。

このバスに乗られてはゴールまで辿り着けない、せっかくの千載一遇のチャンスをみすみす赤羽行きのバスに取られる訳にはいかない。

スッポンの健二は月の敦子への元へと向かっていった。

月までの距離5メーター、4メーター、3メーター、2メーター、スッポンの歩くスピードのようにのっしりのっしり近づいていった。

1メーター、もう直ぐで月の光の元へとどきそうだ。

決心を固めたスッポンが月に声を掛けようとした時、隕石がスッポンの行く手を阻むようにバスの扉が閉まり、赤羽という星まで走り去ってしまった・・・・

このまま諦めてしまうのか?

やはり月までの道のりは厳しいのか?

アポロでなければ、月面着陸は無理なのか?

バスがスッポンの前から遠のいていく、もう追いつかない。

月というのは行くものではなく、見るもの、その神秘的な光に照らされるものなんだと諦めようとしたが、スッポンのえたいのしれない意地がふつふつと湧き上がり、精力ドリンクメイン成分の粘りを見せてやろうと、月に向かって走ることを決意した。

スッポンはひたすら走った。

走って走って走りまくった。

しかし一向に月との差は埋まらない。

それでも走って走って走りまくる。

この姿を見た人たちは、怪物かテケテケの類だと思っただろう。

それでもスッポンは走る。走る走る走る。

赤信号に捕まったバスに近づくが、またすぐ離される。

それでもスッポンは走る。走る走る走る。

体力は限界のはずなのに、走り続けることができる。これが毎日単純作業に投じ運動などには無頓着だったものの体力だろうか。

本当にスッポンのエキス並みの成分が得てしまったのだろうか、これが恋という魔法なのだろうか?

いくら走ってもスッポンとバスの距離は縮まらない。

それでも走って走って走りまくる。

走って、走って、走って・・・

スッポンの視界が白くぼんやりと霧がかかったようになってきた。

それでも走って、走って・・・走っ・・・

走・・・ドン!!!!


何かとても気持ちいい。

ふわふわして、雲の上を浮遊しながら地球を何周もしているかのようだ。

こんな感覚初めてだ。

煩わしい事柄から解放されとても安心した気持ち、ああ気持ちがいい。

しばらくこの繭の中に入っているような感覚を味わっていると、飛んでいる頭上のほうに白い光が差し込んでいる。

もうちょっとで手の届きそうな位置に光は輝いている。

光がある方へと手を伸ばしてみる。

もう少し、もう少し、光に手が差掛かると手から暖かさが神経を伝い脳へ優しい刺激を与えた。

もう少し、もう少しで光に届く、後数センチといったところで光がぼんやりとしたものから具体性を帯びた景色に変わっていった。

白く輝く光は、二本の蛍光灯だったようだ。

目だけを動かしあたりを見渡すと白い壁に覆われた部屋にいることに気がついた。

ここが病院ということに自覚するのにまだ時間がかかった。


「良かった、気がついた」


どこかで聞き覚えのある清々しい声が意識をさらにぼんやりさせた。


「生きてて良かった」


その一言で意識がはっきりしたものに変わった。

走っても走っても追いつけなかった月がスッポンの眼前にあった。

何故月がここにいるのかわからなかったが、現状を理解するより先に、心の中の叫びが口を開かせた。


「良かったら、食事に行きませんか?」


敦子の目は恐怖に溢れていた。

それもそうだろうこの現状でいきなり口火を切った言葉が、良かったら食事に行きませんか?とは正気の沙汰とは思えない。

しかしスッポンは平静だった。

敦子が驚愕していると、奥の扉が開き、白衣を着た女性が現れた


「あっ気がついたねー良かったー、結構大きな事故だったけど骨折だけですんだんだからねぇー奇跡だよ!普通だったら死んでる事故だよ!」


どうやら走ってる最中車にひかれ、病院に運ばれたという事実を、ようやく理解した。

スッポンの事故に気づいた月はバスを降り

今まで付き添ってくれてたみたいだった。


「そうだ、今からちょうど夕ご飯の時間なんだけど病院ご飯食べるかい?」


事故にあったばかりなのに食事を勧めるのはどうかと思うが、何故か腹が減っていたスッポンは迷わず


「はい!!」


月はゆっくり頬をたゆませると、それを見たスッポンも頬をたゆませた。

スッポンの願いが思わぬところで叶おうとしていた。

しばらくすると病室に食事が運ばれてきた。

見た目まずそうだけど栄養バランスが取れた病院のごはんらいものだった。

月とスッポンは晴れて二人きりの食事をしたのだった。


健二はしばらく入院を余儀なくされたが、ありがとう入院だった。

それは何を隠そう工場の王妃敦子が毎日顔を見せては花を変え、笑顔を自分だけに見せ、一生入院でもいいくらいの気持ちだった。

病室に幸福に包まれた時間が流れていた。

病院内では敦子が通るたびに患者たちが振り返り、事もあろうに医師達も振り返っていた。

何故に健二などにあんな美人がやってくるのだろうと疑念と嫉妬の炎を病室に放っていた。

敦子さんが僕一人のために来ている。

このひと時をいつまでも独占したい、自分のものにしたいと、健二は思い始めていた。

敦子は口数は非常に少なく、いつも淡々と花を変え、身の回りのことをし、健二に笑顔を与えた。

同じ病室の尿管結石で入院している老人、胃潰瘍で入院している中年、同じ骨折で入院している青年達はそれを情欲を持った目で敦子の姿を眺めていた。

不思議だった、こんな誰をも虜にしてしまう女性が、何故僕のようなボロ雑巾のような男をこうも献身的に世話をしてくれるのだろうか?

いくら事故を目の当たりにしてしまった当事者の重責からくる責任感だったらおかしすぎる。

ましてはあまり口も交わしたこともなく、事故ったと思ったらいきなり食事の誘いをしてくる男など気持ち悪がられて当然だ。

善意だけでこうもしてくれまい。

健二の脳裏に一抹の勘違いが浮かんできた。

もしかしたら、気があるのかもしれない!

健二は勘違いを間違いないにすり替えた。


「すいません、敦子さん、どうしていつも僕なんかの為に来てくれるんですか?」


花を変えている背中にぶつけた


「・・・」


あながち間違っていないかもしれない沈黙


「いやこんな美人が僕の世話をしてくれるなんておかしいなあと思って・・・」


間違いない、この沈黙は動揺をしている証だ。

この動揺を利用し、健二は一気に勝負に出てしまった。


「あなたが好きです」


食事の誘い方といい、告白の仕方といい、タイミングが悪すぎるのも甚だしかった。


「・・・」


この沈黙は何だ?動揺か?葛藤か?それとも無か?敦子の表情はどんな言葉にも一向に変わることがないため、無言が動揺だと思っていたが今度は健二の動揺にターンしてきてしまった。



「気にしないでください、気の迷いです、忘れてください。」


「いい風が吹いていますね」


やっと敦子が口を開いた。

開いたが今までの言葉を聞いていなかったようなセリフを吐き、花を見つめていた。


「私この花大好きなんです」


「いつもその花ですよね、なんて花なんですか?」


「胡蝶蘭です」


名前だけは聞いたことあったが実際に目にしたのは初めてだった。


「どうぞ可愛がってやってくださいね」


「えっ?あっ!・・・はい・・・」


どこかミステリアスな言葉を残し、敦子は病室を後にした。

同じ病室の尿管結石で入院している初老の石崎さんが怪しげな笑いを浮かべている。


「へへへへー兄ちゃんやったな!」


「何がやったんですか!僕の告白に何の反応もしてくれなかったじゃないですか!何ですか花を可愛がってやってくれって」


「ばか!!これだから低学歴は困るよ!その彼女がいつも生けている花言葉知っているか?」


「花言葉なんて調べたこともないですよ!」


「だろうな、その胡蝶蘭って花言葉はな、あなたを愛してますってんだ」


晴天の霹靂とはまさにこのことをいうのだろう、それを聞いた瞬間、いつも憎たらしかった尿管結石石崎さんが博士に見え、健二は崇高な眼差しを向けた。


ほどなくして、健二と敦子は結ばれた。

同じ工場の連中にこのことがばれると、戦争になりかねないので、ひっそりとした付き合いを始めた。

色々話をしていて分かったのが、敦子は幼い頃両親と死別し、その後は養護施設で生活をしていたことかわ分かった。

敦子の何処か物悲しい孤独を包囲していた雰囲気はここから来るもので、神はこの女に孤独という不運を与えた変わりに最高の美しさを与えたのかもしれないと健二は仄かに思った。


二人はその後ひっそりと伝言をし、ひっそりと目配せをし、ひっそりと逢瀬を重ねた。

そのひっそり感が二人の愛に火を注いでいたのかもしれない。

愛の炎がゆっくりじっくり程よく燃え上がったところで二人はひっそりと結婚をした。


二人には子供は出来なかった。

それでも幸せだった。

二人とも身寄りはなく、まったくの二人だけの世界だった。


敦子の化粧部屋で写真を眺めながら健二は敦子との記憶の中を何周も周りながら茫漠とした時間立っていた。

何周回っても、写真の記憶がすっぽ抜けていた、まるでそこだけ大きな穴が空いているような感覚だった。

その穴は様々な記憶のパーツを拾い集めても埋まることはなかった

埒が開かなくなった健二は、部屋を後にした


翌日のこと、健二は便利屋業者を頼み、敦子の遺品を整理してもらうことに決めた。

便利屋業者はロン毛に髭面をした、麻薬密売でもやってそうな怪しそうな男だった。

敦子の遺品をこんな男に触られるのは癪だが、頼んでしまったのだからしょうがない。

ロン毛髭面が化粧部屋に入り一時間ほどしてから、男が汚い口を開いて


「終わりましたーすいませんが喉が渇いたので、飲み物あります?」


よくもまあずけずけと頼みごとができたものだ

しかし仕事は手際よくやってくれた


「コーラなんてあると助かるんですけど」


すげずけにも程がある、しかし仕事は良くやってくれている、健二は男にコーラを差し出した。


「これ、ぶっこんじゃっていいっすか?」


あまりの下品な言葉に怒りしか湧かない


「はい?どういうことでしょう?」


「これ全部燃やしちゃっていいですよね?」


やはりこの男に妻の遺品は任せられない


「君、モラルがなさすぎるんじゃないか?妻の遺品をぶっこむだと!!ふざけるな!!」


自分でも驚愕するぐらいの怒声をあげた


「お客さん、いつも僕言うんですけど、いつまでも亡くなった方の思いに引きずられてもいいことないっすよ!」


今までいいことなんてなかったであろうロン毛髭面男に引きずることの無意味さをおしえられてしまった。


「帰ってくれ!!」


「わーりましたよ!お代は頂きますよ!」


ロン毛髭面男はしっかりと取り分を貰った。


「あーそうだお客さん、僕新しいサービス始めたんすよ、なんかありましたら連絡下さい」


「誰がお前なんかに頼むか!!」


健二は二度目の怒声を浴びせると、ロン毛髭面男はそっと名刺を置き、家を後にしていった。

名刺の内容に目を通すと、目配り気配り心配り、自殺させ屋と書いてあった。

世の中にはふざけた商売をしているやつがいるものだが、まさかここまでふざけた奴は初めてだった。

健二は迷わず名刺をゴミ箱に捨てた。

すっかり片付いた敦子の部屋はガランとした空洞のように何も無い世界に変わってしまった。

健二は空洞の中で1人佇んでいると、とたんに心の中に何百Gという悲しみが重くのしかかってきた。

もう自分には何も無い。

妻を亡くし、親も親戚も、子供も、友達も、

残ったのは少しばかりの年金と妻と過ごした幸せが剥がれ落ちボロボロになった家だけだった。

天涯孤独となった健二にもはや生きる目的はなかった。


死という言葉に結びつくまでそう時間はかからなかった。

どうせこのまま生きていても喜びなど感じられないだろう、ただ生きるしかばねとなるだけだろう、きっとそうだろう、だろう人生真っしぐらだろう。

死という言葉に結び付きそれを成立するには自殺するしかないという思考になるのもこれまた早かった。

納屋からロープを用意し、ちょっとした台を用意した、つまり至極真っ当でスタンダードな自殺方、首を括ろうと健二は選択し行動に移した。

ロープを天井に固定し、台をロープの真下に置き、早くにも死への準備が整った。

後は死刑執行するがごとく、台に登りロープを首にかけ40センチぐらいダイブすればあの世というシステムがあるのならあの世に行ける、そしてあの世に運というシステムがあって運が良ければ、妻にも会える、この世にもう未練などない、さああの世へいざダイブだ!

決心は固まった、飛ぶだけで楽になれるんだ、さあ飛べ、飛ぶんだ健二!何をやっているさっさと飛ぶんだ!!

前のめりな心持ちとは反比例するように、足が震えている。

何が怖いんだ!バンジージャンプの40メートル先の谷底に飛ぶんじゃないんだ、たった40センチ先を飛ぶだけであの世に行けるんだ!何を躊躇している健二。

決心と恐怖がグルグルと回り、やがて恐怖だけの火の車となってしまった。

ロープと台と自殺をためらって崩れ落ちた男この3つのコントラストが殺風景な部屋にさらに殺伐感を漂わせていた。


健二はゴミ箱へと急いだ。

ゴミ箱から名刺を拾い上げると名刺に書かれた電話番号を電話に打ち付けた。

ロン毛髭面男はさぞ暇なのだろう、ワンコール目には電話に応答した。


「もしもし、いつも目配り気配り心配り便利屋ご用便でーす」


相変わらず耳障りな声だ


「あのー先ほど遺品の方整理してもらったものですけど」


「あーさっきの未練たらたらの方」


電話を切ろうと思ったがぐっと堪えた


「さっきの自殺させます、お願いしたいんだけど・・・」


「やっぱりね!来ると思ってましたよ!!こっちは電話が来ると思って家の前で待機してましたから!30秒でそっちへ行けますよ」


さすが気配り目配り心配りというか、商売上手というか、なんてやつなんだ。

ロン毛髭面男は公言より早い20秒で家に来た。


「やっぱり僕の予想通り、あなたは絶対死にたくなる、そう思っていましたよ」


やはりいけ好かない男だ、土足で人の心に踏み込んで来る。

ただ人の死を予知して、それを当てるのだから、自殺屋職人の技ともいえよう。

男は部屋の様子をキャッチした


「あー首吊りですか」


「はい」


「ダメダメ!首吊りは!色々考えちゃったでしょ?最初は躍起だったけど、途中で震えちゃったりして!」


100点の解答だった


「あなたのような、未練たらたらのの人は、首吊りは不向きですよ!この世に未練がないって思っても、この世に未練がたらたらなもんですよ」


120点だった


「自殺にも色々種類があるんですけど、例えば、焼身自殺!これなんか絶対ダメ、苦しい度マックスだから、絶対向いてない!マッチ持つだけで水かけちゃうよ!ただ迫力満点なんだけどねー、それから飛び込みね!ほら電車とかビルとかから飛び込むやつ!あれもあんたには絶対無理!勇気が一番大事になってくるから、40センチもダイブできなかったんだもん絶対無理だよね!でもチョイスは良かったんだよね、やってれば開始してすぐ気持ち良くなって10秒もあれば楽に逝けたんだけどねー睡眠薬なんかも量間違えちゃって、未遂で終わるなんて中途半端な・・・」


意気揚々と狂気のように喋るロン毛髭面男の言葉が入ってきて抜けては飛んでいき、又入ってきて意識が遠のいてくる。


「安楽死」


一つの言葉が健二の頭の中で止まった。

健二は初めて男の話をまじまじと聞いた。

これなら僕にも出来るかもしれないと思った。

男が取り憑かれたように喋り立てる、それを取りこぼさないよう耳を立てる


「でもこれじゃドクターキリコといっしょだもん!芸がないね!快楽死!これだよね!

おれが発明したの!」


初めて聞く言葉にただただ疑問しか浮かばなかった。


「どういうことでしょう?」


男はバックの中から小瓶を出した


「つまり!これを飲むと、嬉しかったこと、幸せだったこと全てが一挙に襲ってきて、絶頂の幸せを味わって出来ることが出来るんですよ!」


この言葉を聞いて、まともな倫理観と道徳的感覚を持ち合わせていれば、馬鹿げている話であることは、誰にでもわかることなのだが、今の健二はこの男のヒトラー的マインドコントロール術にかかっているのか、男が掲げている小瓶が宝石のように見えて仕方なかった。

健二はロン毛髭面男の狂気のような喋りを狂気のように聞いた


「それでお願いします!!」


健二は完全に術にかかっていた。

ロン毛髭面男は外にあるワンボックスカーの元へ健二を促し、車に乗せると、東へと車を走らせた。

車の中はササンオールスターズの希望の轍とAKB48のフォーチューンクッキーの2曲がリピートされ続け、車内のBGMになっていた。

とても今から死に場所へと向かっている車とはにわかに信じられない。

車は都心から離れ田舎道へと景色は変わっていった。

相変わらず軽快な音楽な車内になり続けている。

ロン毛髭面男はとうとう桑田佳祐のモノマネまでし始める始末だった。

時刻は午後6時を回り日も落ちかけてきたところで、車は物騒な山道を走っていた。

陽は辛うじて残っているものの

木々で溢れた森の中、陽の光など地まで落ちて来ない。

車はもう山見とは呼べないくらいの獣道へと変わっていった。

希望の轍の「エボシラインオーマイ〜〜」

の所で車のエンジンが止まった。


「さあ着きましたよ」


ロン毛髭面男の示唆した場所は、草木が鬱蒼と生え伸び放題となっていて、カーナビなどでは絶対に検索出来ないような場所であった。

「ちょっと歩いた所です」


歩いて行けそうな道などないが、男はぐんぐんと草木をかき分けていき、はぐれないように健二は後についていった。

よくもまあこのような場所を提示しそして知っているものだ、いったいこの男過去に何をしてきたんだろう。

未だに車内で流れ続けていたサザンの希望の轍を口笛にして山林に響かせている。

いったいなんなんだろうこの男は!

しばらく道無き道を行くと男が健二に手をふりあげている。


「ここですよ〜」


男の腹式呼吸ででたでかい合図がやまびことなって3回ほど耳に不協和音として入ってくる。

健二が男の元へ追いつき、男の先に目線を飛ばすと、森の禍々しい空気から一変し、

空に無数の星がキラキラ光って、ちりばまったく星の真ん中に満月が堂々と君臨し、地には美しい花々が咲き誇り、その花の蜜を求め見たこともない美しい蝶が無数に舞っている。

そこは現実から遠く離れた浄土のような世界だった。


「すごい・・・」


「さあここがあなたの死に場所ですよ!いいところでしょう!成功を祈っています!それじゃ又!あっ又はないかー!」


ロン毛髭面男は乾いた笑いを浮かべ、健二に小瓶を渡すとすぐに撤退していった。

健二は心地のいい気分に満たされていた。

蝶が自由に飛び回っている。

青や黄色やオレンジ色の羽が月の光に反射して本当に美しい蝶だった。

一羽の蝶が健二の肩に止まり静かに羽を震わせている。

上の羽は青色、下の羽は水色、羽の端っこに三つの水玉模様を付けた蝶だった。

とたんに健二の脳が勝手に過去にさかのぼり始め、急降下で降り始めた幾つもの記憶を通り過ぎ、ある所の記憶の場所で止まった。

ここは一枚だけ残った写真の場所であった。

遠い記憶から遡り蘇ったあの日の情景だった。


敦子はいつも自分の主張は言わなかったが、一度だけ旅行へ行きたいと言ってきたことがある。

健二にとってこの主張が嬉しかった。

路面電車での旅、ゆっくりと温泉や旅館の料理を楽しんだどこにでもあるごく普通の旅であった。

情緒あふれる街並みを散歩しているとふいに脇道にそれる小道があり何やら独特の暗い小道で2人はその闇に魅了され二人奥に歩いて行くとこの場所があったのだ。

いつもおしとやかで、どこか謎めいた敦子だったがここでは子供のようにはしゃぎ回り、転げまわっていた。

こんな敦子の姿を見るのは初めてだった。

そんな記憶が今になり鮮明な景色になり蘇ったのだ

きっとこの記憶が抜けおたてたのは、お伽話の世界のように忘れなければならない世界に来てしまったためであろう。

自然と健二の目からは涙が流れていた。

ここだったら死ねる、敦子との思い出と一緒に!健二は右手に握り締められた小瓶の蓋を開け、薬を出し一気に口の中に放り込んだ。


しばらくすると、周りの景色がぼんやりと滲んで抽象絵画を見ているような感覚になってきた。

朧げな景色の中から、フェルメノールさながらの美女がはっきりとした具象を持って現れてきた。

敦子だった。

健二の願いが叶ったのか、敦子は笑顔で健二に静謐な声で語りかけてきた。


「健二さん、ごめんなさい・・・あなたより先に逝ってしまったことをお許しください。

あなたと過ごした人生は、平凡だったけどとても幸せに満ちた人生でした。

悔いが残るとすれば、あなたを一人残して死んでしまったことです。

心配で心配で仕方ありません・・・

あなたともう一度この場所で会えて良かった・・・

この場所へ連れて行ってくれてありがとう

貴方にもう一つ謝らないといけないことがあります・・・」


健二は恍惚の極みの中にいた


「わたし、貴方に黙っていたことがあるの・・・」


もう直ぐ敦子の元へ逝ける、敦子の柔らかく暖かい聖母マリアのようなオーブに吸い寄せられてそうになっている


「お客さん!お客さん!!」


突然生々しい現実感のある言葉が微かに耳に届くと健二の意識が現実の世界の中にいる時ぐらいはっきりとしてきてしまった。


「お客さん!お客さん!起きてください!起きてください!!」


天から落ちてくる雷鳴のような耳障りな声が響いてくると敦子の距離が徐々に遠くなっていってしまった。

健二は浮遊して敦子に追いつこうとするが、

地に足が張り付いてビタ1ミリともそこから動かない。

僕は逝ったのではないのか?

それとも自殺した重罪によりここからビタ1ミリ動けなくなる罰を受けてしまったのか?

はっきりとした恐怖が健二の心中を捉えると

又どこからともなく


「お客さん!お客さん!」


虚ろな目を開けるとぼんやりとした影から、ロン毛髭面男の顔が眼前にあった。

周りを見るとなんのことはないロン毛髭面男と首吊りをし損ねた敦子の部屋にいた。

健二の脳は必死にいろんなどういうことに整理を付けようと左脳にある計算能力をフルに生かすが無理な所業であった。

どういうことかさっぱりと理解不能になり思考は停止した。


「どういうこと?」


「いや!どういうことって!お客さんが、俺が自殺の仕方の説明してたら、急に小瓶を取り上げ、一気にその場で飲んじゃったもんでね!

そしたらその場に倒れて、この有様ですよ」


成る程とはならなかった

それはそうである

健二は現実と夢との境に自分がいるようなそこから決して戻れないようなフワフワした存在になっていると家のインターホンが鳴った。


「悪いけど帰ってもらえるかな?」


「えっ困りますよ!勝手にうちの薬飲まれて、勝手に倒れて、起きたら帰れって!」


男の狂気のまくし立てが始まる前に健二はお金を差し出した

男はその金を素直に受け取ると


「そうですか!まーーいっか!またなんかありましたら連絡くださーい」


下衆な笑みを浮かべながら素直に退出していった。

ロン毛髭面男と入れ違いで健二は玄関に出ると、見たことのない初老の女と見たこともない4歳児ぐらいのとても可愛らしい女の子が手を引かれて立っていた。


「どうもはじめまして、私養護施設からやって来ました佐原と申します」


健二は動揺を隠せない表情で相槌をうつ


「奥様の敦子様からこの子を引き取っていただけるということでやって参りました」


幻の中で敦子が言っていた黙っていたこととはこのことだろうか?

健二の動揺がはっきりとした疑問になりくちを開いた


「どういったことでしょう?」


「これは奥様からの伝言なんですが、これは私の二度目の我儘です、

どうか、お許しください。私はこの子を迎えにはいけないと思うので、今日この日にこの子を連れて来てくれと頼まれて伺いました」


敦子の幻の中の言葉が現実感を帯び、黙っていたこととはこのことだと悟った。


「この子は誰も身寄りもない孤独な子です

どうかよろしくお願いします」


長い年月を施設の子どもたちの孤独な悲しみを一身に背負ってきた女は軽く会釈をし


「さあ今日からこの人があなたのお父さんですよ」


乾いた声だがこの子の幸せを心の奥底から願っているのが健二に伝わり、佐原さんは健二に切望の眼差しを向け去っていった。

取り残された女の子は少し俯き、怖がっている様子だった。

健二は静かに女の子の目線にまで腰を下ろし


「怖がらなくてもいいよ・・・さあお上り」


その女の子は健二の優しい笑顔に安心し、笑ったことが少ないのだろう、不器用な笑顔を健二に向けてきた。

その笑顔が妻敦子の笑顔に心なしか似ていて、まだ未熟だがそれは美しくそして透明なものだった。

健二は敦子の二度目の我儘を許そうと思った。

そして残りの人生をこの子の為に生きようと決めた。

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