終・再来、そしておかえり
大学二回生となり、実家からの再三の「帰って来い」コールに俺はようやく重たい腰を上げることにした。
去年はなんだかんだと言い訳をつけて帰らなかった。
避けていたと言ってもいいだろう。いったん離れてしまうと、たくさんの記憶が残る場所に帰ることはためらわれることだった。
帰ってもイチカはいない。
その事実を改めて突きつけられて冷静でいられる自信はなかった。
年末の最も込み合う新幹線の車内を終始立ち乗りで過ごし、降りたあとは一直線に実家に向かった。
目に入れる景色は少ないほどよかった。
二年ぶりに帰省した実家は、こたつ布団がリニューアルされたくらいで他は以前どおりのままだった。
変化の乏しい家は俺に帰ってきたという実感を与えてくれる。
その変わらない日常を守ってきた母が二年近く帰ってこなかった息子をなじるくらいは許容の範囲だ。
「律、大学が楽しいのは分かるけどもう少しマメに帰ってきなさいよ。孝行したいときに親はなしって言うでしょ」
それは親自身が言う言葉じゃないだろうと思いつつも、俺は気のない返事で曖昧に「分かってるって」と返した。
年明けをこたつで過ごし、正月も二日を過ぎればしばらくぶりに帰ってきた息子も邪魔者扱いだ。換気の妨げになるから家を出て行けと、飼い猫を外に放り出す勢いで玄関から追い出される。
しかたなしに俺は時間つぶしに近所をぶらつくことにした。
イチカと過ごした場所は避け、見慣れない通りを歩いていくことにする。
けれど見慣れない通りを選んでいくことは思ったよりも面倒な作業となった。ふと角を折れればイチカと歩いた覚えのある通りに出てしまうのだ。
あぁ、ここでイチカが転んだ。あそこでイチカが俺の服を握って引き留めた。――あらゆる場所に染みついた記憶が胸を締め付ける。
俺は足を止めないようにして、先へ先へと進んでいった。
まったく知らない場所に出るまでは、それから数十分を要した。
ふと立ち止まったのは、妙な雰囲気を感じたからだった。
寒気を感じて腕をさする。触れた布に違和感を感じて視線を落とすと、羽織ってきた上着に霜が降りていた。
周囲を見渡してみる。ずいぶんと寂れた感じのする場所だ。
壁に亀裂の入った建物が目立つ。道路は舗装が間に合っておらずひび割れを起こしていた。
小さな公園もあるにはあるが、風化したブランコの鎖がキイキイと耳に付く音を立てていて、とても明るい雰囲気とは言えない様子を見せていた。
立ち止まった場所は十字路で、いつの間にか発生していた霧によって視界が悪くなっている。どの方角も見通せないくらいに先が薄暗い灰色に覆われていた。
やみくもに進んできたこともあり、どちらから自分が進んできたのかが分からない。
前後を見て、右を見る。どこも霧で見通せない……。延々と灰色の空間が続いていて角も見えない。出口のない迷路に置き去りにされてしまったような感覚に陥っていく。
そして左を見たときだった。
赤い色が薄曇りの霧の奥から現れた。それは流れ出したばかりの血よりはどす黒く、凝固した血液よりは鮮やかな色を放っていた。
鼓動が早くなり、どっと汗が噴き出していく。
あれはマズイと本能が訴えかけてくる。いつか感じたことのある気配だった。
赤は以前見たときとは違う姿をしていた。
あのときは赤い服を着た髪の長い女の姿だったが、今は身の丈が大人の二倍近くはありそうな異形の姿をしている。
皮膚は固く盛り上がり、関節は異常に大きく、額の中心からごつごつとした角を生やしていた。
手は赤黒く膨れ上がっていて、ひどく節くれだっていた。泥の付いた爪は長く、硬いものをひっかいたのか欠けてきれいに生えそろってはいなかった。
鼻と呼べるかどうかわからないくらいにのっぺりとした鼻がひくつき、濁った眼が俺を捉える。
――お前ぇ、……そこにいたのか。やぁっと、見つけた。
ざらついた音を出しながらにたぁっと笑う口の中は大きく、どこまでも赤かった。
喜びと殺気を帯びる視線に身体が縫いとめられる。
舌なめずりする口から異様な腐臭を感じた。生ゴミと血の臭いだ。
口の端からよだれがだらしなく垂れていく。よだれの塊が地面にねちゃりと落ちたのを期に、鋭い爪が俺の喉をめがけて振り下ろされる軌跡が見え――、
右手に何かが触れて、俺の体を引いた。
――こっち。
懐かしい声が俺を先導する。
横断歩道で見たときのように、手首から先しかない白い手が俺の手を引いていた。
握り返した手は暖かく、力強かった。
俺たちは霧の中を抜け、走った。
赤はそれをどこまでも追ってくる。追ってくる赤の速度はけして速くはないが遅くもない。
つかず離れずの距離を鬼は白濁した目で追ってきた。
※ ※ ※
見えない。見えない。見えない。
あの小娘を取り込んでから視界が悪い。鼻も利かない。
いい匂いがする気がするのに、すぐに掻き消えてしまう。
あれは美味い御馳走だが、得られないなら場所を変えよう。たくさん食べるほうがいい。
おかしい。
抜けられない。抜けられない。出ていけない。
結界を張られた。小賢しい小娘と同じ匂いがする。
境界線に触れると雷が走って力が抜ける。何度か繰り返す。また戻る。
あれからどれくらい経った? 一週間か、半年か、一年か、数年か――?
腹が減って力が弱くなっている。擬態もできない。餌を喰えないのが一番腹が立つ。
小娘! 小娘! 小娘ぇ!!
あいつが中で邪魔をしてくる。喰ったのに取り込めない。見えないのも鼻が利けないのも全部あいつのせいだ。
でも呼んでいるのは分かるぞ。
――・・は私が守る。絶対に・・は渡さない。
とても小さな声だ。
懐かしいだろう。大切だろう。愛しいだろう。堪えきれなくなっているのが分かるぞ。
聞いてやる。さあ、呼べ。呼んで喰えばいい。ボク、俺、わし、私の中で一つになればいい。
ふはっ。ははっ、ははははっ。
見つけた。見つけたぞ。眩んだ目にも分かる。甘美な光の気配だ。ボクの勝ちだ。俺の勝ちだ。わしの勝ちだ。私の勝ちだ。
絶対に喰ってやる!
――りつは絶対に渡さない!
聞こえた。それがあの餌の名前か。
※ ※ ※
――待って、りつ。
ドロドロとした甘い声が俺を呼び止める。これ以上ないほど溶かした砂糖水のような声だった。
振り返る先に、長い黒髪を流して笑うイチカの姿があった。
あの日消えてしまった懐かしい姿のままで俺の前に現れた存在に泣きそうになる。
――この姿なら恐くないでしょう? こっちに来て。私とひとつになろう?
記憶の中にあるままで笑いかけてくる姿に、俺は手の中の温度を確かめた。
――ずっと会いたかったの。ひとりは寂しかった……。
「俺もだよ。ずっと会いたかった」
一歩を踏み出すと手の中の温度は消えていく。そのまま空いてしまった空間を俺は爪が食い込むほどに強く握りしめた。
――ずっとりつのこと探してたんだよ。どこにいたの。
「俺も……ずっと探してた」
熱いものがこみあげてきて視界が薄れそうになる。唇を噛んでそれを堪え、俺はそこにいるイチカの姿を見据えた。
「お前はまだこの世界にいたんだな」
――そうだよ。今もここにいる。
俺が近づいた分だけイチカが寄ってくる。
俺を見上げるイチカは恍惚とした表情を浮かべていた。それは俺の見たことのないイチカの表情だった。
「反吐が出る。お前がその姿をするな」
――えっ、りつ? どうしたの?
俺の言葉にイチカがたじろぐ。その言葉も困ったような顔もイチカそのものだった。
でも違う。こいつは違うんだ。俺のイチカじゃない。
どうしてそんな姿で現れるんだ。――本当にお前たちは優しくて、……どこまでも残酷だ。
「返せ。それは俺のだ」
意識して語気を強め、俺は目の前にいるイチカの姿を模したものの胸めがけて深く手を突き刺した。
それは耳をつんざくようなうめき声を上げたが、かまわず手を奥に入れる。
ズブズブという嫌な感触を受けながら、俺はつかんだものを離すまいと力を込めた。
――りつ、何で!? この姿に取り込まれるなら満足でしょう? これがりつが愛した姿でしょう!?
赤が本心から戸惑っているような声を出す。イチカの姿を模せば、簡単に俺という餌が喰いついてくるとでも思っていたのだろう。本当に反吐が出そうだ。
「お前が語るな。愛とか簡単な言葉で俺たちがくくれるかっ」
突き刺した手が焼けるように痛い。
触れる箇所から侵食されていくような感覚に陥る。
まるで魂が引きちぎられるようだ。じわりと口の中に血が滲んでいくのが分かった。
「来い、イチカっ!」
俺は絡め取った塊を手に叫び、一気にそれを引き抜いた。
※ ※ ※
引き抜いた手を胸に抱え込み、後ろに倒れる。
それを赤は追いかけてきたが、俺に触れる直前に壁に弾かれたようにつんのめっていた。
俺の転がり込んだ先はイチカの神社で、鳥居に阻まれて赤は悔しそうにうなり声を上げた。
背後から人の駆けてくる音が聞こえる。
遠のいていく意識の端に見えたのは、見覚えのある衣装を身に纏ったイチカの母親と成長した浩輝の姿だった。
これで安心だ。
ぼんやりとそう思ったあと、俺の視界は暗転した。
※ ※ ※
――つ。りつ。
俺を呼ぶイチカの声が聞こえる。
「なに? どうしたイチカ」
どこからともなく聞こえてくる声に俺は呼びかけた。
――りつ、銀杏の葉を取りに行こう。黄色くてひらひら舞ってる。浩輝も一緒に連れて行こうね。
「そうだね。取りに行こう。いっぱい集めて、また紙吹雪みたいに降らせよう」
目の前に銀杏の黄色が降り注ぐ幻影が見えた。
ひらひらと舞う銀杏の葉の中でイチカが笑っていた。
――りつ、友達たくさん作らないといけないよ。
「分かってるよ。もう表面だけの顔なんてしてない。大学でもいい先輩たちが多いんだ。みんな友達だよ」
神社の鳥居。日の暮れる中、赤く染まるイチカの横顔がきれいだった。
――りつ、約束だよ。彼らに付いてあっちに行ってしまわないで。
「うん。見えてももう惹かれることはないんだ。イチカのダメは俺にとって絶対だから、いつもそれを思い出してる」
指切りした中学校の校舎。小さなイチカの小指にしっかりと自分の小指を絡めた。
見えてくるものは俺に関する記憶ばかりだった。
もう思考というものはしていないのだろう。俺に聞こえるイチカの声はすべて赤の中でイチカが守ってきた過去の意識だった。
分かってはいたけれど、イチカの声に俺は逐一律儀に応えていた。
――りつ、守るよ。絶対にりつのこと、あいつに渡さない。
「イチカはちゃんと守ってくれてたよ」
――りつ、生きていて。
「大丈夫。イチカがいなくてもちゃんと生きていく」
――りつ、笑っていて。
「……うん」
繰り返される「りつ」という声。イチカは他の事柄のほとんどを切り離して俺の名前を呼んでいた。
イチカの意識にあるものは俺のことばかりだった。
――りつ、私のこと忘れないで。
小さく響く泣きそうな声。
「それ、俺も激しく同意。イチカも俺のこと忘れないで」
――忘れない。光の向こう側で待ってる。
白い手が一度俺の頬をすべって消えていく。俺はその手が消えていく瞬間に自分の手を重ね、温かい指先に唇を付けた。
※ ※ ※
神社で倒れた俺は病院に緊急搬送され、原因不明の内臓の機能障害によって数日を病床で過ごすことになった。
赤に突き刺したほうの手は酷い炎症を起こしていて、包帯でぐるぐる巻きにされた。
「この親不孝者がっ!」
病院に駆けつけた母親には無事だった頭にぽかりと拳骨をくらわされた。
気分は良かったので笑いながら「ごめん」と謝ると、「ついでに頭も見てもらったら」と頬を膨らませて怒られた。
俺の手の中には、赤から抜き出した四葉のクローバーの髪ゴムが納まっていた。
数年を経て、ゴムの部分はゆるゆるになっていたが、葉の部分は三枚ともきれいに形を残していた。
葉の一枚欠けたそれに、以前イチカの母親から受け取っていた一枚を重ねる。
葉はピタリと収まるべき箇所に収まった。
それを陽にかざす。
「おかえり、イチカ」
光が透けて、真っ白なシーツの上に淡い黄緑色の影を落としていた。
これにて終了。
番外編が二話続きます。