5・サキ
大学生活が始まった。
彼らの気配のない物件を探して何件か巡った末に借りたアパートの狭さにも慣れてきた。
大学内で居場所として特に使用頻度の高かったのは、新入生当時構内をうろうろとしていたところを捕まったサークルの部室だ。
わけの分からないまま記名させられたサークルは『パソコン研究会』で、一から部品を組み立てて自前のパソコンを作るというコアな人々の集まりだった。
「一人で趣味に没頭するのもいいが、無垢な青年を仕込むのもまた乙!」
上級生たちは変人ではあるが、様々な知識を俺に与えてくれた。
おかげで一年後にはデータ処理等のスピードは他の郡を抜くくらいのレベルにはなったと思う。(変わり者の上級生たちには遠く及びはしないが)
それから俺はタバコと酒の味を覚えた。
食べ物の趣味も変わって、酒のつまみになりそうなものを好むようになった。節約と称して自分で調理するものは、大抵が味の濃い酒のつまみだった。
変化する中で変わらないものもある。
「律、今度合コン参加してくれよ。人数足りなくてさ」
「顔を出すだけでいいなら参加しますよ」
サークルの先輩の要望だ。
たまにこうして声をかけられる。顔出しのみを希望とする俺は彼女募集中の先輩にはいい数合わせの駒だった。
「律は飲みには喜んで参加してくるのに、女には冷めてるよな」
「実は彼女いるんじゃないか? 紹介しろ、紹介」
はやし立ててくる先輩たちに「そんなんじゃないですよ」とため息を吐く。
「そうよね。律くんは初恋をこじらせちゃってるだけなのよね」
面白そうに目元を細めてくるのは、このサークル紅一点のサキさんだった。
俺の二回生上の先輩で、いつも化粧をかかさないような知的美人といった感じの人だ。加えてユーモアのセンスもあったりするので、男連中にはかなり人気があるらしい。
このパソコン研に入っているあたり、彼女も相当にコアな人だったりするのだが、外部の人間にそのことは知られていない。
恋人は間断なくいるらしい。けれど同サークル内では恋人は作らないと言い切っているので、みんな彼女のことは仲間の一人として見ており、女としては見ていなかった。
サキさんが俺の昔を知っているのは、サークルの飲み会で酷く酔った俺がぽろっとイチカの名前を出してしまったからだった。
促されるまま話してしまったあと、「面白い話だったわ」と笑う彼女に顔を青ざめさせてしまったのはつい数ヶ月前のこと。
それ以来、ちょくちょく絡まれるようになってしまった。――もう酒の席では失敗しない。自分の中に秘していた名前を関係のない人間に知られているということは、とても複雑な気持ちだった。
「なにっ。初恋!?」
「甘酸っぱー。やだやだ、皮膚がかゆい」
初恋などとうの昔に放り出してきた先輩たちが声をあげる。
「詳しく聞かせろ、サキ」
肌をかきながらも喰い付いてくる先輩たちに「ごめんなさい、律くんと私の秘密なのよ」と唇に指を当てる動作は百戦錬磨の強者だったが、この場で顔を赤らめる人間は誰一人いなかった。
「ちっ、つまらん」
部長は舌打ちひとつで、昔自分の初恋がいかにむなしく散っていったかの武勇伝を語り始めた。
綺麗だと思って懸想していた相手が実は女装男で顎に剃り残しのひげが一本生えていたのを見つけてしまったというくだりで、「うわぁ、最悪」「悪夢だ」だの阿鼻叫喚が湧き上がる。
その後も部長に次いで「俺の初恋は――」と加わっていく甘かったり酸っぱかったりの初恋話が続いて、俺の話題などすっかり消え去ってしまう。
真剣に興味のあることはとことん掘り下げて研究する彼らは、気まぐれですぐに他のことに意識が引かれてしまう性質を持っている。
そんな彼らを見やって、俺はやれやれと肩をすくめて読みかけで止まっていた雑誌を広げた。
「こじらせた初恋ほどやっかいなものはないものよ」
俺の隣に座り、サキさんは机に肘を付いて艶やかに笑った。
※ ※ ※
サークル内では恋人を作らないサキさんだったが、外部では入れ代わり立ち代わり恋人を作っては別れてを繰り返していた。
彼女は俺を安全パイとしてちょくちょく恋人と飲んだあとの送り迎え要因として呼び出した。
「また違う相手でしたね」
今日の相手は髪を茶髪に染めたいかにも遊び人といった風情の男だった。先日は真面目そうなサラリーマンだ。その前は年嵩の教師風の男性だったか――。
「そうね、長くは続けないの。そのほうが楽だから」
赤い顔をして彼女は俺に寄りかかった。
「全部タイプが違いますね」
素直な感想を漏らすと、「気になる?」とにんまりと笑われた。アルコールの匂いに混ざって香水の匂いが鼻を掠めた。
「いえ、べつに」
そう言って近すぎる距離を離す。
「冷たいなぁ」
ふらふらと前を歩いていく足取りは覚束ないもので、俺はそれを支えるように彼女の腕を掴んだ。
「そっちはダメです」
コンクリート製の建物の隙間は通常よりも薄暗いものだが、そこは他よりももっと薄暗い雰囲気をかもし出していた。
飲食店の水色のゴミバケツの横でかさかさと動くものに目をやる。
それは全身が焦げたような茶色い肌をしていて、腹がずいぶんと大きく膨らんでいた。目がぎょろりと飛び出していて、頭に残る毛は数えられるほどに少ない。地獄絵図で見る餓鬼の姿だった。
「また見えた?」
彼女と一緒にいるときにこういったものを目にするのはこれが最初ではなかった。
「これに憑かれると太りますよ」
「へえ」
「お腹だけぽっこりして、残る四肢はがりがりです」
「それは残念。残るはお腹やせだったんだけどな……」
俺はそれに気づかれる前に彼女の腕を引いてその場を後にした。
歩いていくのは頭に記憶している場所だ。
左右に二体の狐の置物を配したお参り用の小さな社の前で俺は足を止めた。
こんな街中でもあるところにはある。ああいったものに出くわしたあとは、自分の匂いを消し去るために拝んでおくのだ。
「ほら、サキさんも」
両手を合わせて頭を下げる。横に立って彼女も同じように頭を下げた。
「さっきの続き、全部タイプが違うって話だけどさ」
酔いが醒めてきたのか、さきほどよりはしっかりとした足取りでサキさんが歩道を歩く。
「――絶対に手に入らないような人。それが私のタイプ」
振り返る彼女が俺を見てにっと笑う。
車道を行く車のヘッドライトに照らされて、愉快そうな顔が暗闇に浮かんで消えた。
「それでいくと俺もサキさんのタイプってことになりますね。サキさん曰く、初恋をこじらせているってことですから。俺にそんなつもりはないんですけどね」
俺のほうも笑って彼女を見る。立て続けに通り過ぎる車のヘッドライトに俺の顔が見えたのだろう。サキさんは顔に手をやって上空を見上げた。
「うわぁ、無自覚。これはやっかいだわ」
彼女とは時たまこうして誘い誘われの会話を交わす。
だが、どちらも本気に取ったことはなかった。互いに本気になったら引いてしまうのだろうことは分かりきっていたことだった。
「私は律くんの初恋がどう終わりを告げるのかが気になるな」
彼女はいつもそう言って会話を締めくくる。
それに対する俺の言葉はいつも無言だった。
イチカを想う。
俺にとってイチカは初恋だったのだろうか――。イチカのいなくなった今、それを確かめる術は見当たらない。