4・心が死んだ世界
桜の咲く頃が来て、俺は高校生になった。イチカは小学――四年生のままで時を止めたままだった。
幾度、あれが夢だったのではないだろうかと思い神社の鳥居をくぐろうとしたことか。
イチカの不在を思い知らされるだけなのは分かっていたから、どうしてもそこをくぐることはできないでいた。
中三の終わりは締め付けんばかりの胸の痛みに足がすくんでうずくまる毎日が続いた。
強烈な痛みには次第に体のほうが慣れていき、急にうずくまることは減っていった。
その代わり高校に入ってからは、イチカのことを思い出しそうになっては目を閉じて頭を振る日々が始まった。
胸の痛みを感じるのはその瞬間だけで、それ以外には何にも感情が揺れることはなかった。
高校が別になった幸則とは、あれから交流が徐々になくなっていた。顔を見ればどうしてもあの場に誘ったことを責めてしまいそうで辛かった。
それでも年に一度年明けには年賀はがきが届いている。返事は返したことがない。どう返事をしたものかが分からなかった。
中学からの友人も、変化した俺の様子に遠巻きに見てくるようになり疎遠となっていしまっている。
それには気づいていたが、何をしようとする気力も沸いてこなかった。
時間の経過のまま、俺は死んだように生きていた。
彼らに惹かれる心も失せていた。
俺にとっては生きているものも死んでいるものも同じで、目に入ることのない些末な存在に成り下がっていた。いや、彼らがというより俺がと言うべきだろう。
些末な俺にとって世界の色は無いに等しく、区別のできない灰色ばかりが広がっていた。
季節の変わり目は肌にかろうじて感じる温度だけで、景色の変化は何もかもが灰色に見える目には別段の変わりなく映っていた。
死んだように一年を過ごし、二年目からは周りから見て普通に見えるように振舞った。
そのほうが暮らしやすいというだけの判断だった。
素行が悪くても教師に目を付けられるが、死んだように生きていても目を付けられることが分かったからだ。
世界から自分を切り離すには、程好く普通であることが一番楽なことだった。
程好く友達づきあいをして、程好く教師に愛想良くして、程好く真面目に勉強さえしていたら、あとは自由だ。手のかからない生徒を構ってくるほど教師は暇ではなかった。
「先生に急用が入ったから生物の時間は自習だってよ」
「ふうん」
肩を叩いて楽しそうに生物室へ向かう同級生に可もなく不可もない返事をする。
課題プリントはさっさと終わらせてゲームでもするか、と不真面目な発言をしながら先を歩く彼について行く。
がらりと引いた扉の先を見て、俺はきびすをかえした。
「あれ、律? 入らないのか?」
「ああ、サボる」
「自習なのにか? 変な奴」
生物室の隅っこに宙に浮いた首が浮かんでいた。
「見て見て。これお昔首狩りに使われてたっていういわくつきの刀の切っ先。うちの爺さんが厳重に保管してたんだけど、持ってきちまった」
「厳重……孫に盗まれるくらいのレベルって」
「うわ、刃ボロボロ。こんなのマジで使ってたのかよ。ガセだろ、ガセ」
舌をだらんと垂れ下げている首は、狂犬病にかかったイヌの顔のように見えた。目は血走ってあらぬ方向を向いている。
あれに絡まれたらうるさそうだ。
惹かれはしないが、横でぶつくさ言われては課題プリントがはかどらないだろう。静かなところを選んだほうがさっさと終わる。
今の俺にとって彼らはそれくらいの存在だった。
「適当に出席の代返しといて」
そう言いおき、俺は扉から遠ざかった。
いくつかの教室を素通りして、音楽室に入り込む。
先ほど澱んだ空気を纏った教室を見た直後だからか、日の当たる音楽室の中は清浄な場所に思えた。
窓際に椅子を持ってきて座る。
しばらく課題プリントに向き合っているうちに陽に照らされて体が温まっていく。
イチカと二人で座った神社の境内を思い出した。身を寄せ合って座れば、冬の寒い日でも暖かかった。
いつの間にか眠ってしまっていたのか、その懐かしい光景が夢に出てきた。
――りつ。
横で笑うイチカが俺の名前を呼んでくる。そんな場面で目が覚めた。
目を開けてイチカがいないことに戸惑う。
ここは音楽室で俺は高校生。イチカは小学四年生のまま――。俺は現実を思い起こして深くため息を吐いた。
イチカはもうどこにもいない。
痛みを忘れた頃にやってくるその認識の瞬間は、いつも空気を吸い込む肺を凍てつかせ、心臓をむしり取られたほうがマシだと思えるくらいの激痛を胸にもたらす。
「イチカっ……」
なんで彼らの姿は見えてイチカの姿は見えないんだ。
イチカが呼ぶなら、俺はすぐにでもこの世界を捨てられるのに――。
理不尽だと唸る俺の願いは、誰の耳に届くこともなく霧散した。
※ ※ ※
普通でいることで他者の干渉を拒んだまま高校の二年目を過ごし、また生ぬるい春が訪れた。
この頃になると面白くなくてもそれなりの表情を作って笑えるようになっていた。友達と呼べるような人間は増えたが、深いつながりを持つまでには至っていない。
感情の表記は以前の記憶をトレースして行った。記憶に頼らなければならないほどに、俺は感情の揺らし方を忘れてしまっていた。
悲しむ感情も喜ぶ感情も凍てついたままの俺に深く関わろうとする人間は皆無で、そんなことも煩わされなくて楽だと思う俺は大概ひどい人間だった。
じめつく梅雨を越え、太陽がじりじりと肌を刺すだけの夏が終わった。
木枯らしが拭きつける街路樹の下を通る。
踏みつける枯葉がかさかさと音を立てていた。
イチカの神社には大きな御神木があった。
太く大きな銀杏の樹で、秋ごろになると色づいた葉が落ちてくるのがきれいだった。
その下で舞い落ちる葉を取ろうとするイチカと弟の浩輝。俺は葉を集めて二人に紙吹雪のように降りかけ――思ったところで思考を止めた。
これ以上思い返してはいけない。
思い出せば現実がつらくなる。今すぐ息を止めたくなってしまう。
イチカの母親が俺に告げた「生きなさい」という言葉だけが今の俺を生かしていた。
それが嘘でも真実でも、イチカの意志であると言われれば俺はそれを守らなければいけないのだ。
俺はイチカの言葉には逆らえない。
イチカの母親はそのことをよく理解した上で、俺にあんなことを言ったのかもしれない。
直接尋ねればすむ話だったが、神社の鳥居をくぐれない俺にとっては到底無理な話だった。
横断歩道に差し掛かって足を止める。
そこは車の通りが多いのにもかかわらず小学生の通学路として使われている場所だった。
取り付けられている押しボタンは青信号に変わるまでの待ち時間が長く、そこを通る人間には不評な代物だった。
左右二車線同士に引かれた長く伸びる白い横断歩道。その中心から少し奥側にうずくまる影があった。
俺はその姿に目を見張った。
灰色だったはずの世界に赤い点が差した。
それは赤いランドセルだった。
うずくまっているのは長い髪を二つにくくった女の子で、この近くにある小学校の制服を着ていた。
真新しいランドセルの赤が俺の目に飛び込んでくる。
左側からトラックが近づいていた。大きな配送用のトラックだ。
それは女の子に気づかないのかスピードを緩めずこちらに向かってくる。
――お兄ちゃん、助けて。
顔をあげる女の子が俺に手を伸ばしてくる。
鼓動が急激に跳ね上がった。バクバクと胸を打つ音にそれ以外の音が遮断される。
呼吸が浅くなり、喉を通る乾燥した空気が突き刺すように肺に入り込んできていた。
「……チカ」
今、行く。
女の子の姿がイチカのそれに完全に重なっていた。
手を伸ばして、足を踏み出そうとした。
けれどその一歩目は何かに邪魔をされて動くことが適わなかった。
服の裾を誰かが強く握りしめていた。
おずおずと視線を下に向ける。
白くて柔らかそうな子供の手だった。それは手首から先しかないのに、しっかりと俺の服の裾を握っていた。
その手の形、服の握り方、引っ張る力の強さ――すべてがその手の主がイチカであることを指していた。
小さな手は「りつ、ダメ」と言わんばかりに俺を後ろに引っ張った。硬直したままだった体が引かれるままに後ろに下がる。
俺は呆然とし、瞬きも忘れてその白い手に見入っていた。
トラックの走ってくる音が近づいてくる。だが、もうあそこへ行く気は失せていた。
「分かってるよ。あっちには行かない」
服を握る手に重なるように手を置く。
触れる直前でイチカの手はふっと掻き消えた。それでも俺は握られていた服の上に手を置いて、ほんのりとぬくもりが残っているように感じるその場所をしっかりと握って前を見た。
横断歩道の上で、さきほどの女の子がこちらを睨みつけていた。その顔はさっきまでの儚い顔つきとは違い、恨みのこもった醜い顔つきをしていた。
走ってきたトラックは女の子を通り過ぎ、何事もなく走っていった。通り過ぎたあとには誰の姿も残っていなかった。
俺はその場にうずくまって少し泣いた。
本当は心の隅で思ったのだ。あの子の手を掴んだら、イチカのところに行けるんじゃないかって――。
でもイチカは俺を止めた。
『約束する。イチカの不安になるようなことはしない。もしやりそうになったら怒って。そしたら止まるから』
俺との約束をイチカは守ったのだ。手首から先だけの姿になってでも、俺を止めてくれた……。
イチカを失ってから初めてまともに泣いた瞬間だった。
「っ、……イチカ」
そして初めて、絶望の中で救いを求めるようにではなくイチカの名前を呼んだ。
※ ※ ※
あれ以来、イチカの姿を見ることはなかった。
彼らに試しに近づいても、イチカの手が現れる気配は訪れなかった。きっと俺が本心から彼らに近づきたいと思っていなかったためだろう。
この世界に踏みとどまることを俺は選択したのだ。
高校の卒業式の日、イチカを失った日から一度もくぐることのできないでいた神社の鳥居をくぐった。
畳の敷かれた部屋でイチカの母親に卒業の挨拶をする。
「――そう、卒業後は外へ出るのね」
俺は近県の大学に進学することが決まっていた。これからは実家を出て一人暮らしが始まる。
「これ、よかったらもらってやって」
そう言ってイチカの母親が差し出してきたのは、白いハンカチに包まれたものだった。
開くと、中には淡い黄緑の葉の一枚が入っていた。
見覚えのあるそれに「これは……」と声を出す。
「イチカが握っていたの。他の部分は見つからなかったけど、大切にしていたものだから、律くんにもらってもらえたらあの子も喜ぶわ」
それは、いつか俺がイチカに贈った四葉のクローバーの一枚だった。かつて細い黒髪に色を差していた黄緑は、白いハンカチの上で小さく収まっていた。
俺はハンカチをそっと閉じ、額に押し当て背中を丸めて嗚咽を漏らした。帰ってきたイチカの欠片に、あふれ出す優しい記憶の渦にめまいを起こしていた。
俺が再び口を開くまで、イチカの母親は静かに背中をさすってくれていた。
「気をつけて行ってらっしゃい」
神社を出るとき、まるで近くに出かけるときみたいな挨拶をしてイチカの母親は俺に手を振った。
俺はついでに幸則を訪ねていった。
久しぶりに会った幸則は成長して体も顔も大人に近づいていたが、懐かしい昔の面影を残していた。
「久しぶり」
「久しぶり」
互いに同じ挨拶を交わし、少し近所をうろついた。
「もう大丈夫なのか?」
大学の進学のため実家を出るという俺に幸則が尋ねる。
幸則は変わってしまった俺を随分と心配してくれていたらしい。
イチカという親しくしていた女の子がいなくなってから俺が塞ぎこんでいたことを知っていた幸則は、あえて触れずそっとしておいてくれたらしかった。
いつか俺のほうから会いにきてくれるといいと、そう思っていたのだと幸則は話してくれた。
そんな幸則に俺はおためごかしの言葉など吐くことはできず、真実思っていることを口にした。
「全然……まだまだ大丈夫じゃないけど、でもなんとかやっていくよ」
「そっか、がんばれよ」
「ああ」
幸則とはそのあとも少しばかり話をして、去り際に「またな」と言って別れた。
一人きりの道を歩いていく。
のんびりとした足取りの横を小学生くらいの女の子たちが走り抜けていった。
春の香りを吸い込む。
同時に流れ込んでくる記憶に少しだけ鼻がつんとして、俺は胸元にしまいこんだハンカチに手を添えて静かに目を閉じた。