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イチカ  作者: 燈真
3/8

3・対峙

 ここは魂の寄り場だ。

 電車に憑いた奴が運ばれてくる。駅で飛び降りた奴、線路で立ち往生して轢かれた奴、人も動物も関係なくやって来る。

 集まりすぎて自我が分からない。ボク、俺、わし、私、自分をどう呼んでもしっくりこない。

 元々の自我が一番強いのは赤い服を着た(じぶん)だ。

 愛した男に邪魔にされてここから突き落とされた。一番この世を憎んで人間を憎んでいる女だ。最近はずっとその女の姿をとっている。

 でもそれもどうでもいい。そんなもの、形を定めるだけの理由にしか過ぎない。


 大事なのは餌を得られるかどうかだ。


 餌は小さいのが好きだ。

 小さいのは美味い。肉が柔らかくて甘い味がする。大きいのは固くて噛み切りにくいし苦いから、よほど腹が減っていない限り手を出していない。

 あんまり頻繁に食べると餌がここを通らなくなるから我慢する。空腹が限界になるまでじっと耐える。

ぐるると腹が鳴っているうちはまだ我慢する。

 そのうち腹も鳴らなくなって、垂れるよだれが自分でも耐えられないようになると頃合だ。


 この間喰った小さいのは美味かった。

 指先だけで我慢しようと思ったけど、あんまり美味かったから太ももまで全部齧りとってしまった。美味かった。

 しばらくはまた我慢しなければ……。

 あれを喰ってから小さいのがここを通らなくなった。小さいのは敏感なのが多いから、こっちが見える奴が警告しているらしい。小ざかしいことだ。

 まあ、いい。空腹に耐えられなくなったら大きいのを喰えば飢えは満たされる。


 小さいのが来ないか周りを見て色々と物色する。何時間でも、何日でも、晴れの日も雨の日もずっと――いた。美味そうなのがあっちにいる。

 身の内に引き寄せる光を持っているやつだ。

 これまで見てきたどの餌よりも美味そうだ。あれを喰えばもっと力がついて狩りが上手くなるかもしれない。

 来い。こっちに来い。

 でもそいつは来ない。見える奴だ。こっちを警戒している。生意気なやつ。でも美味そうだ。この間餌を喰ったばかりなのに腹が鳴る。

 まあいい。もう一人のやつがこっちに来る。

 少し大きいけど、まだ小さいほうの部類に入る。あいつで我慢するか。

 あと一人か二人喰えばここを動けるようになる。

 そうしたらあいつを迎えに行こう。

 さあ、こい。

 餌が歩道橋の一歩目に足をかける。

 そうだ、そのままここまで上がってこい。そうしたら頭からばりばり喰ってやる。それとも手からじっくり食べていこうか。足から食べようか。

 全部食べれば、すぐにここから動けるようになるかもしれない――。


「ダメだ、そっちに行くなっ!」


 ふはっ。あはははっ。あぁ、おかしい。お前、逃げたんじゃなかったのか?

 いいよ、そいつは見逃してやる。お前がいい。お前が食べたい。お前しか食べたくない。お前がお前がお前が――。

 こんなに気が狂いそうになったのは、ボクが俺がわしが私が死ぬと意識した瞬間以来のことだ。


――お前を喰わせろ!!


 出した咆哮で橋が揺れた。


 ※ ※ ※


 俺は歩道橋を上り始めた幸則の腕を引っ張って止めた。

「幸則、ここはダメだ」

「律? いったいどうした」

 歩道橋の上で舌なめずりする不穏な赤に対して、幸則の言葉はいたってのんびりとしたものだった。

「いいから走れっ! 絶対に振り返るなっ!!」

 幸則の背中を押し出し、続いて自分も走り出そうとする。

 だが、それはできなかった。


 心臓をわしづかみにされたような感覚に身動きが取れなくなる。

――こっちにおいで。お~い~で。

 歌うように声がかかる。それは喜びの声だった。捕食者が獲物を見つけたときの狂喜の声だ。

 女の声のようでいてそうではない、様々な高低の声が混ざったような不快な声だ。これまでのどの鬼とも違う、存在だけで魂を支配されてしまいそうな絶対的な力を持っている声――。

 いつも出くわしてきた彼らとは比較にならない。

 それは誘惑ではなく強制だった。

 足が言うことをきかない。逃げたいのに、階段を上りたくないのに太ももが持ち上がる。

 一歩目――嫌だ、行きたくない――二歩目……。


「ダメっ!!」


 服を引かれ、転がるように地面に足がついた。

「イ……」

 その存在に思わず名前を呼びそうになって口を塞ぐ。

 イチカは一度だけ俺を見て、歩道橋の上にいる赤を見た。

 そのこめかみに汗がつうっと流れていく。

 イチカでさえ相当にやばいものなのか。そんなものに近づいてしまったことに改めて恐ろしさが湧き上がってきた。

「あなたにはあげない。これは私のものだから」

 強い言葉でイチカが言う。

 夜闇を照らすイチカの光に対して、その光すら飲み込もうとする赤の闇。両者の力は完全に拮抗しているようだった。

「手出しはさせない」

 再び強く言ったイチカに赤が眩しそうに手を顔の前にかざす。

 その下の口元が愉快そうにゆがめられているのが見えて、俺の肌が粟立つのが分かった。――あれは払えないものだ。

 直感的にそう思った。

「行こう」

 イチカが服を引っ張って俺を促す。俺はイチカに促されるままにその場から足を動かした。

 背中越しに歩道橋上にいる赤がこちらを見ているのが分かった。耳に喜色に満ちた笑い声が聞こえた。それは夕刻のカラスのように不吉な音の響きをしていた。




 どこをどう歩いたのかは分からない。

 気づけば俺はイチカの神社にいて、イチカの母親の唱える祝詞に全身を清められていた。

 それでも効果のほどは確かじゃないからと、帰りはイチカの母親に家まで送ってもらった。


 ※ ※ ※


 りつが目を付けられた。

 たぶんあと一、二回の捕食であいつはあそこから動けるようになるだろう。遅かれ早かれ、りつはあいつに見つかっていたのだと思う。


 りつは生まれながらに彼らを惹きつける光を持っている。

 生きているものと死んでいるものとの境目を歩いているようなりつは、そのため彼らに惹きこまれやすいようだった。

 しかし、彼らに触れるということは生命を削ることだ。そんなことはさせられない。

 りつは魂のどこかが欠落しているのだとお母さんが言っていた。私はそれを埋めるために生まれてきたんだろうと。

 だったら嬉しい。

りつのために生まれてきた。

 心の中で繰り返すその言葉はすごく自分にしっくりきた。


 神社の巫女服に袖を通す。

 髪は邪魔にならないようにしっかりと結わえた。りつからもらった髪ゴムで。これが私を守ってくれる。そう思って外れないようしっかりと結わえた。

 向かうのは今まで対峙したことのないほどの深い闇。でも怖くはない。

 これは命よりも大切なものを守るための戦いだから。


――来い、小娘。


 歩道橋の上で待ち構えていたように笑う鬼。

 いくつもの霊が複合してできた鬼だ。〝赤服さん〟と小学生の間では噂になっていたらしい。さん付けするほど可愛らしい存在ではないが。

 声も姿もおぞましい鬼と化している。りつの光に本性が現れたのだろう。

 りつの存在に気づいただけでこの状態だ。これはけしてりつに近づけてはいけないものだと確信する。


「あなたにはあげない。絶対に」

 あげない。

 指先一つも、髪の毛の一本も、りつのものは何一つ渡しはしない。

 りつ、私はりつがいればそれだけでいい。

 守るよ。何を差し置いてもりつのことを守る――。


 一気に歩道橋を駆け上がる。目指すは大切なものを奪おうとする赤。

 今のうちに笑っておけばいい。りつには絶対に手出しなんかさせない。

 高く飛び上がる鬼。闇の中に紛れたそれを一瞬見失って足を止める。

――甘い。

「……っ!」

 深い闇の底から湧き上がる笑い声と共に、鬼の手が眼前に迫ってきていた――。


 ※ ※ ※


 翌日、歩道橋から落下したとみられる少女の遺体が発見されたとニュースになっていた。

 歩道橋からの落下は事故とみられ、死因は落下時に受けた後部挫傷のためとされていた。体の一部が欠けていたという報道はされていなかった。

 巫女服姿であったことが世間の興味を集めていたが、特に事件性はないとして、夕刻には他の事件に紛れて消えてしまっていた。

 半日ともたないニュースの中に、イチカの名前は消えていった。




「俺のせいですか?」

 神社の鳥居をくぐれないでいる俺をイチカの母親が見下ろす。

 灰色の厚い雲に覆われて太陽の姿が見えない午後のことだった。

「イチカ自信が選んだことよ」

 責めてくれればいいのにと思った。

「あいつが発見されたの、あの歩道橋ですよね」

 自分の娘が死んだのに何で責めないのかと、冷たい人間だと逆に責める俺がいた。イチカの母親が俺を見下ろす姿は、娘を亡くした直後とは思えないほどに背筋がぴんと張った凛とした立ち姿だった。

「生きなさい。それがあの子の望みなの」

 その言葉に呆然と立ち尽くす。

 なんて残酷なのだろう。ははっと白々しい笑いが出るのを止めることができなかった。


「イチカはもういないのに……それでも、俺に生きていけって言うんですか」


 からからに渇いた喉で訴えかけた言葉に、イチカの母親は「そうよ」と背中を向けて去っていった。

「――チカ」

 膝から崩れ落ち、声にならない声で呼ぶ。

 呼んだ者がそれで鳥居からふっと顔を出すわけでもなく、静かな景色に俺の声だけが鳴っていた。

 地面に頭をこすり付けて、俺は熱くなる目頭に何度も頭を打ち付けた。

 暗い空は徐々に厚みを増していき、ぽつりぽつりと水滴を落とし始めていた。





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