2・赤服さん
中学三年になり、高校の進学を考える時期になった。
勉強はそれなりにできたが得意というわけでもなかったので、無難なところで家に近い普通科の共学に進むことにした。
イチカは小学四年生になって急激に大人びてきた。手足も長くなって、体つきも女の子らしくなった。ただ丸かっただけの昔と比べたら雲泥の差だ。
でも普通の女の子のように年上の男子である俺を厭うこともなく、毎日のように神社を訪れると顔を見せてくれた。
イチカとは遊ぶというより、一緒に話をするということのほうが多かった。
「友達作ったほうがいいよ」
放課後に同学年の女の子と遊ぶでもないイチカに、兄ぶって言う。だが、俺のことなど放って遊びに行かれても、それはそれで釈然としないのだろうなとは思っていた。
「りつもだよ。たくさん友達を作れば、彼らの誘いに乗ってる暇もないよ」
そ知らぬ顔で返してくるイチカは、俺の考えなどお見通しのようだった。こういったときは年下を相手にしているとは思えなかった。
「俺はイチカがいればそれでいいよ」
そんなときは決まってこう言うことに決めていた。そう言えばイチカは黙ったし、居心地悪そうにするイチカを見るのは面白かった。
俺もイチカも友達がいないわけではなかったし、学校に行けば普通に会話し遊んでいた。
それでも俺の言葉に嘘はなかったし、多分イチカもそうだっただろうと思う。
俺とイチカは「近所の知り合い」くらいの浅い付き合いではなかったが、友達というわけでもなかった。
俺たちの関係をこの世の言葉でどう定義づけすればいいのか、この頃はまだそれを深く考えることもしていなかったように思う。
その年のクリスマス、俺は商店街を歩きながら流れる曲に合わせて口笛を吹いていた。
すでにサンタの存在なんて微塵も信じはいなかったけれど、このシーズンの浮かれた空気には心が自然と浮き立ってしまう。
鞄の中にはイチカへのプレゼントが入っていた。
かわいらしい雑貨店に必要のない忍び足で入り込み、さっと巡らせた視線の中で選んだものだ。店内のファンシーな雰囲気にすぐさま回れ右して帰りたくなったことはぐっと我慢して堪えた。
商店街は明るく装飾されていて、歩く人はみんな楽しげな顔をしていた。
そんな中で、一か所だけイルミネーションのライトが明滅を繰り返している場所があった。ゲームセンターの横にある空き店舗だった。
前は何の店だっただろうか。服屋だったか帽子屋だったか、それとも香水を扱っている店だったか。いずれにしろ女性向けの商品を扱っていた店だったと思う。
店に降ろされたシャッターに新店舗の案内が貼られている。年明けのオープンと銘打っていた。
次が決まっているとはいえ、シャッターが下ろされたままなのは商店街としてはマイナスポイントになるのだろう。申し訳程度ではあるが、そこにもクリスマス仕様のイルミネーションのライトが飾られていた。
飾られたライトは今にも消えそうなくらいにかぼそくチカチカと点いたり消えたりを繰り返していた。
「こないだ付けたばっかなのになぁ」
ゲームセンターから店員が出てくる。隣ついでに飾り付けの担当を任されでもしたのだろう。
「新品を開けたのに、不良品だったか」
店員は豆電球を取っては付けてを何度か試みていたが、明滅はちらとも変化を見せなかった。
「また新しいのを買ってくるかなぁ」
そうぼやく店員に、俺は内心で「それは無駄だろうな」と呟いた。
店員の横には一人の女が立っていた。その女はやたらと爪を気にしていて、片方の手でかりかりと反対側の手の爪をひっかいていた。
よく見てみると爪の先には真っ赤なマニキュアが塗ってあり、それに被さるように赤黒い何かが付着していた。たぶん、血だろう。彼女のものか他の人間のものかは分からないけれど。
女は裸足だった。服装も薄く、春先だったらそんな恰好をしていても違和感はないが、真冬の今ではかなり違和感のある服装だった。
青白いむき出しの首が寒々しく見える。
俺は自分の首に巻いていたマフラーのことを思い出し、結び目に手をかけた――。
「ダメ」
イチカが俺の服の裾を握っていた。イチカは俺と同じように首にマフラーを巻いていて、鼻先が寒さのため赤く色づいていた。血の気の失せた女とは大違いだった。
イチカのそんな姿は、俺にイチカが同じ側に生きている人間なのだと実感させた。
目ざといなぁと苦笑する。それを見てイチカはもう一度「ダメ」と繰り返した。
――こっちに来て。
俺に気づいた女が声をかけてくる。その声はどこまでも優しかったが、イチカの「ダメ」という言葉には到底及びもつかない拘束力のないものだった。
「ごめん、行けない。約束してるんだ、そっち側には行かないって」
女が俺の横に立つイチカを憎々しげに見る。そして次の瞬間には眩しげに顔を覆ってふうっと消えてしまった。
「お、あれ? ちゃんと点いた」
ゲームセンターの店員は首を傾げながら店内に戻っていった。
「これプレゼント」
恥ずかしさを抑え込んで購入した包みには、ピンク色のリボンがついていた。それをイチカの小さな手に乗せる。
「うちは神社だよ」
「クリスマスは関係ないから。急にイチカに何かあげたいなって思って。たまたま今日がクリスマスだっただけ」
プレゼントを渡すにしては白々しい理由だったが、イチカははにかみながら包みを開けた。
「これ、可愛い。大切にする」
イチカにあげたのは、四葉のクローバーの飾りがついた髪ゴムだった。淡い黄緑のそれなら、真っ黒なイチカの髪によく似合うだろと思って選んだものだ。
いつもイチカは真っ直ぐな髪をおろしていたが、翌日からは俺のあげた髪ゴムで髪をくくるようになった。
帰り道、線路の上に架かる歩道橋を指してイチカが言う。
「りつ、あそこには行かないほうがいいよ。最近、変なのが住み着いてるから」
珍しく先回りして警告してくるイチカに、俺は一度だけ頷いて返した。
そのことをもっと真剣に捉えていればよかったのにと思うのは、もう少し先のことだった――。
※ ※ ※
イチカとのことはよく覚えている。
楽しいことも嫌なことも全部、目を閉じれば鮮やかに思い出すことができる。
あの日の帰り、コンビニに寄ってケーキを買った。
境内に座って二人で食べていたら、それを見つけたイチカの三つ年下の弟の浩輝が「ねえちゃんズルイ!」と頬を膨らませて怒った。
それから俺とイチカで残っていたケーキを浩輝の口に運んでやって、浩輝の口の周りについたクリームの多さに笑った。
あのケーキの甘い味も、降り出した雪の冷たさも全部覚えている。ささいな感情の変化も全部、この体すべてで記憶している。
どんな欠片も――、たとえそれがどれだけ辛い記憶だとしても俺は忘れることはないだろう。
※ ※ ※
年が開け、短かった冬休みが終わった。
「なあ、〝赤服さん〟って知ってるか?」
俺の席の前に陣取りそう聞いてきたのは、中学一年の頃から親しくしている友達の幸則だった。
「赤服さん? 知らない。何それ」
「実はさ、俺の弟が話してたんだけど。赤いワンピースを着た女が歩道橋の上に現れるらしいんだ――」
幸則の弟はイチカの通う小学校の隣の学区の小学校に通っている。
〝赤服さん〟
それはそこの小学校で、七不思議を差し置いて最近すっかりメジャーになった怪談話なのだという。
曰く、学区内のとある歩道橋の上に赤いワンピース姿の女が現れるという。
それは白い肌に長い黒髪をしていて、一見普通の女に見えるが実は鬼で、近づいた者を歩道橋から引きずり落とすのだそうだ。
「引きずり落とされた人間は死んで、体の一部が欠けた状態で発見されるんだってよ。それで、欠けた一部は見つかることはないって。俺の弟の後輩も犠牲になったって言ってた」
よくある話だ。
「伝聞の伝聞はただの噂」
俺は冷ややかに言って、真剣な顔をする幸則の額に指を突きつけた。
「中三にもなって怪談話って……。しかもありがちすぎて怖くない」
いつも幽霊を見ている俺なので、怪談話には食指が動かない。どうせ話をするなら面白いマンガの紹介でもしてくれればいいのに。このときもそう思った。
「ところがそれがあながち噂だけでもないらしいんだ。現に弟の一学年下の男の子が死んで、その学年の同級生が葬式に行ったって。事故だったってよ。しかも歩道橋から落ちての」
「マジ?」
「マジよ。右の太ももから先が消えてなくなってたって。他人には見せらんないから、棺は蓋が閉めきられてたって」
幸則はやけに詳しく葬儀の様子を語ってきた。自分は葬儀に行ってないくせに、噂に尾ひれがついたものをさも事実のように認識してしまっているのだろう。怪談話の流布に関してはよくあることだった。
「でもさ、興味沸かない? 怪談話どおりに噂の付いた謎の死」
「興味ない」
幸則はいったん興味が湧いたらしつこい。
「えー、一緒に行ってよ。俺一人じゃ心もとなくてさぁ」
「何が心もとないだ。お前借りてきた恐怖映像ものとか笑って見てられるだろ。しかも爆笑」
しっしと手で追い払ったが、幸則はしつこく俺にくいさがってきて勝手に放課後噂の歩道橋に行くことを決定してしまった。
歩道橋――そのワードが喉にひっかかって違和感を生じさせる。
日が経っていて忘れてしまっていた。イチカが言っていたのだ。あそこには近づくなと――。
どんなものが待ち受けているか考えもせず、なんとなく不安を覚えつつ俺は幸則の言葉にあいまいに頷いていた。
それは幸則の弟が通う小学校の学区内にある駅の傍にあった。
比較的大きな駅の傍の何本もの線路が交差している場所。問題の歩道橋はその線路の上に架かっていた。
歩道橋は向こう側の商店街へ行くために地元の人間がよく使うものなのだと幸則は言った。
「大人は使うけど子供はみんな使ってないんだ」
「何で?」
「事故があって校長から使わないようにって言われるのもあるけど、一番はやっぱ赤服さんかな。みんな怖がってあそこには近寄らないようにしてる」
小学生たちは赤服さんに出くわさないように、あっち側に行きたいときはわざわざ踏み切りを渡るようにしているのだと幸則は教えてくれた。
「弟もそうしてる。踏み切りのほうが時間はかかるけど命には代えられないってさ。よっぽど怖いんだろうな」
歩道橋まではまだ距離があった。
遠目で橋が架かっているのが見えるくらいで、その上をどれだけの人数が歩いているのかは分からないくらいの距離だった。
――りつ、あそこには行かないほうがいいよ。
唐突にイチカの言葉を思い出す。背中に嫌な汗が流れていくのが分かった。
あれは行ってはいけない場所だったのではないだろうか……。
ここから見える風景に覚えはない。でも何故か記憶にひっかかる。
あれを俺はどこで見た? そうだ。イチカと歩いていたときだ。商店街を出て少し歩いたところで、イチカが指をさして教えてくれたんだ。
それはあそこのことだったんじゃないだろうか――。
「ごめん、幸則。俺はあそこには行けない」
立ち止まる俺の神妙な声に幸則が訝しげに見てくる。
「どうした。怖くなったのか?」
「ああ。だから俺は帰る。お前も帰ったほうがいい」
俺には歩道橋の上に赤い点があるのが見えていた。それが途方もなく恐ろしいものに見える。
実際には怖いどころの話じゃなかった。全身の毛が逆立っていた。出てくるのは冷や汗じゃない、脂汗だ。
イチカの言葉がなくても、きっと俺はあそこへ行くことはできなかっただろう。
近づくほどに震えが止まらなくなる。俺の全身があそこへ行くことを拒んでいた。
そんな感覚は初めてだった。
警鐘が鳴り響く俺とは違って、幸則はいたって平然としていた。
これが見える者と見えない者との違いなのだろうか。あの歩道橋を目に入れても変わりのない様子の幸則が羨ましく思えた。
「情けないなぁ。まあ、いいや。検証はまた今度違う奴とするかな。とりあえず通るだけ通っていくわ。商店街の本屋にも用事があったし、また明日な」
「……ああ」
歩道橋に向かって歩いていく幸則を見送り、俺も来た道を戻ることにする。
目に入れなければ安心できる、遠ざかれば安全だ。
それだというのに、頭の奥の警鐘は未だ鳴り続けていた。
あいつなら大丈夫だ。怪談話は好きだが見える性質じゃない。きっとあの赤いのの正体も見えやしないだろう。何事ともなく向こう側にたどり着いて、明日を迎えるんだ……。
俺は自分に言い聞かせるようにこの先あいつがとる行動を思い描いた。
だが、どうしてもそのどれもが現実味のない行動のように思えてならない。
歩き出していた足を止める。
振り返りたくない。今すぐあの歩道橋から離れたい。あそこに惹かれるものは微塵も感じられない。それは本能が察知する恐怖だった。
「……くそっ」
俺は震えの止まらない足を叩いて唸った。