表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
イチカ  作者: 燈真
1/8

1・出会い

 小さい頃から俺には幽霊の姿が見えていた。

 俺の目に映る彼らは、ときに優しく、ときに残酷だった――。


 たとえば道路の向こう側でこちらを手招ききす老婆がいたとする。

 それが顔見知りでないのなら、それは百発百中で幽霊だ。

 ふらふらと引き寄せられてしまえば、優しい老婆の顔は右側がぐちゃりと潰れた血まみれの痛々しい姿に様変わりしてしまう。

 よく見てみれば、ガードレールの一角に大量の花束が置かれていたりするのだ。そういったことにあとから気づいて「幽霊だったのか」と思うことはよくあることだった。


 小学校低学年までは生きている人間と死んでいる人間との区別が付かなくて、よく引き寄せられては様変わりした姿に驚いて逃げたものだ。

 せめてもの救いは、彼らが身動きの取れない存在だったことだ。たいていその場に縛りつけられていて、逃げてしまえば追いかけてこない。

 めったにないが、追いかけてくる場合は神社の鳥居をくぐれば付いてこなかった。だから近所中の神社仏閣の位置はすべて頭の中に入っていた。

 呼び寄せるだけの者は嫌いじゃなかったが、追いかけてくる者はほとんど鬼と呼んで差し支えない姿をしていたので嫌いだった。あれに捕まったら確実に内蔵を喰われてしまうと思うくらいには、俺の想像力は豊かだった。


 人と幽霊の存在の違いが分からない俺は、他から見てずいぶんとぼうっとした子供に見えていたらしい。

「また遠くを見て……」

 気味悪がられはしなかったが、呆れられることは多かったように思う。

「あそこに知らない人がいて笑ってる」

 そんなことを言わなかったからかもしれない。俺が何を見ているのか、両親は知らなかった。


 幽霊だと知って驚くことはあったが、俺は怯えて泣いたことはなかった。彼らは何故か俺を惹きつける空気を持っていた。

 けれど彼らが優しい顔をするのは、俺を呼び寄せるまでの間だけだった。

 仲良くなれそうだな、と思って近づくと彼らのほうから牙を向いてくるのだ。

 優しく手を引かれたら、きっと付いて行くに違いないのに――。それをしない彼らは残酷で、優しかった。


 近寄らないようにすることを覚えたのは、彼らの存在を認知してからずっとあとのことだった。

 それまではただ反射で飛びのいて、彼らの領域を抜けていたにすぎない。離れればまた優しい顔をして俺を惹きつけようとするのだが、俺を呼ぶ母親の声に従ってその場を去ってしまうので、二度近づくことはしなかった。

 それに関しては母親がネグレクトでなくて良かったと思う。そうでなければあの子に出会うこともなく、俺は彼らの仲間入りをしていただろうから――。


 ※ ※ ※


 イチカは神社の子供で、俺よりも五歳年下の女の子だった。

 初めて会ったのは、俺が七歳、イチカが二歳の頃だった。

 たまたま散歩の途中で参拝に訪れた神社で、よちよちと歩くイチカに出会ったのだ。

出会ったというか、ぶつかった。

 ぶつかって転んでも、泣かずに俺のことをじっと見るイチカの目はこぼれんばかりに見開かれていた。そのままじゃ目が乾いてしまうんじゃないかと思ったことを覚えている。

 その後、帰ろうとする俺の服をイチカは小さな手で握り締めて泣いた。わぁんと鼓膜に響いてくるくらいの大きな泣き声だった。

「わ、分かった。明日も来るから」

 言っていることの意味が分かっているのかいないのか、イチカはその言葉を聞いてやっと手を離した。目にはまだ涙が溜まったままだった。


 その後も毎日のようにイチカに会いに行った。

 イチカは彼らとは違う、俺を惹きつける空気を持っていた。

 イチカは大人しく、あまり笑わない子供だったけれど、それでもその存在を俺は眩しいものと捉えていた。それはきっと、生きる者の輝きだったのだと今なら思う。

 それは彼らも俺も持っていない光だった。

 イチカの持つ光は俺には眩しく映るものだったが、彼らにとっては強すぎるものだったらしい。


 イチカの散歩に一緒について歩いていたときだった。

木の下に男がうずくまっていた。俯く表情は見えず、周囲は暗く翳っていた。見えていないだろうに、その傍を通りかかる人はみんな一様にそこを大きく迂回して歩いていた。

木の上のほうの枝にカラスが数羽止まっていて、いがらのような声で鳴いているのが聞こえた。

俺の視線に気づいたのか、男がゆっくりと顔を上げる。手には縄の切れ端のようなものを握り締めていた。手の平は縄で擦り切れて血が滲んでいた。


――坊や。こっちに来るかい?


 俺はどうしようか迷った。男に近づいてもいいが、今はイチカと散歩をしている途中だ。俺が消えたらイチカが泣いてしまうような気がして動くことができなかった。

 迷って立ち尽くす俺の服の裾を握るものがあった。――イチカだった。

 イチカはこぼれんばかりの瞳で俺をじっと見たあと、睨みつけるように男のほうを見た。

 途端に男は目を覆って、その姿を薄れさせて消えていった。

「イチカは見えるの?」

 その頃には言葉の意味を理解するくらいには大きくなっていたけれど、イチカは首を振って俺の言葉を否定した。

 あまりにも見えていますといわんばかりの態度だったのに、イチカは何度聞いても首を振って見えないということを主張した。




 放課後などはいつもイチカに会いに神社に行っていたが、不思議とイチカとは神社以外で出くわすことが多々あった。


 あれは小学校三年生の頃だっただろうか。

 小学校からの帰り道、空き地にあぐらをかいて座り込む年配の男に出くわした。

その空き地は数ヶ月前に民家が全焼した場所だった。

 当初は黒焦げだった場所も、今は更地にして売り地の看板が立てられていた。看板は雨風に吹かれたためか、元々の設置の仕方が悪いのか、酷く傾いでいた。

 男はその奥、更地のやや右側に肩を丸くして座っていた。

男は黄色く変色したシャツにトランクスを履いていて、何か鋭利なもので切りつけられたかのように首が細くえぐれていた。

 男が座る半径一メートル程の地面は、どす黒く変色しているように見えた。一歩足を踏み入れたら、底なしの暗闇に落ちてしまうんじゃないだろうかというくらいの色をしていた。


――おい、こっちに来いよ。


 俺に気づいた男が手招きする。目の下に隈があって、疲れきった表情をしているのに、俺にはその男の目が優しいものに見えた。

「うん」

 このときも呼びかけに抗えなかった。その手を取れば、優しい世界に行けるのではないだろうかと思っていた。

べつに現実に辟易していたわけではない。両親は優しいし、学校でも特にいじめられているわけでもなかった。

 ただそう思っていた。彼らは心がやすらぐ場所を知っているのだと、そこへ行くのが普通のことなのだと感じていた。


「ダメ。これはわたしのもの」


 俺の服の裾を引っ張ったのは、やはりイチカだった。

つたない言葉でけん制するイチカの瞳は強い。俺は空き地に座る男に惹かれていたことなどすっかり忘れて、強いイチカの瞳に意識を持っていかれていた。

「イチカ……俺の名前は(りつ)だよ。いい加減覚えて」

「ちゃんとおぼえてる、りつ」

 こくりと頷いて俺を見上げるイチカ。

「本当かなぁ」

 いまいち怪しい。


イチカはいつも彼らをけん制するときに俺のことを「これ」と言っていた。それ以外ではめったに名前を呼んでくることがなかったので、この頃の俺はイチカが俺の名前を覚えているのかどうか疑問に思っていたものだ。

あとで聞いた話だが、イチカが彼らの前で俺の名前を呼ばなかったのにはちゃんとした訳があった。

万が一彼らを払うのに失敗したとき、名前を知られて存在を縛られないようにするためだそうだ。

それを知った後は、俺のほうもうっかり名前を出してしまわないように気をつけるようになった。自分の名前はもちろん、イチカの名前も呼ばないようにした。


 イチカを見て空き地に視線を戻せば、もう空き地には誰の姿も残ってはいなかった。

 それを少し残念に思いながら、俺はイチカにため息を吐く。

「家は? また抜け出してきたな」

 いつものことだった。彼らに惹かれる俺を止めるのがイチカだった。イチカはふらりと現れては、彼らのほうに近づいていこうとする俺の服を握って止めた。

「本当は見えてるだろ」

「見えない。でもいるのはわかる」

 それがイチカの答えですべてだった。

 神社の娘だから自然と彼らの払い方を体得していたのだろうか。イチカが寄れば、彼らは消えた。

 彼らが消えることを残念には思うが、消えた途端に意識はイチカのほうに持っていかれるので、彼らを消し去るイチカを咎めることはしたことがない。

 彼らが俺を呼び寄せる暗がりの明かりだとすれば、イチカは俺を惹きつける清浄な星の光だった。ただ、それは冷たい光ではなく、今なお輝き続ける生きた星の熱さをたたえていた。

「帰ろう。イチカのお母さん、きっと心配しているよ」

 俺が手を出せば、イチカは素直に手を添えた。


 ※ ※ ※


 イチカとの関係はずっと続き、俺は中学の制服を着るようになり、イチカは小学二年に進級した。

 新入生の頃はまだランドセルをもてあましている印象の強かったイチカも、二年生ともなるとランドセル姿がだいぶ様になってきていた。

 イチカとは通う小学校が同じだったので、イチカが一年生の頃は一緒に通えていたが、俺が中学に入るとそれは無理だった。俺の通う中学校は、小学校には近いが正反対の場所にあった。

 それでもイチカはふらりと現れては俺の服の裾を引っ張った。――それはまだ授業が終わっていない時間でも同じだった。


 昼休みの時間、友人と話しながら窓の外を見たときだった。

 向かいの校舎の屋上に見慣れない男子生徒が立っているのが見えた。彼はフェンスを乗り越えた先、校舎の淵のぎりぎりのところに立っていた。

 じっと見つめていると視線が合った。

 彼は俺に向かってにっこりと笑って、何かを言った。口の動きで「おいで」と言っているのが分かった。

 いや、実際には見えていなかったように思う。

 離れた距離から人の姿は見えても、その口元まで見えるわけはなかったのだ。でも不思議と俺には彼の言いたいことが理解できた。

「どうした? 律……?」

 立ち上がる俺に友人の声がかかる。

 だが、近づきたい誘惑にかられた俺はふらふらと教室を出て行った。


 普段、屋上への扉は固く施錠されている。

 鍵を得るには職員室へ行かねばならならず、そのうえ教員の許可も取らなければならなかった。

 ただ行きたいからという理由で簡単に貸してもらえるほど管理は甘くはない。たとえ許可を得られたとしても、教員の監視の下でなければ屋上に出ることは適わなかった。

 俺はそれを知っていたが、直接屋上へ向かう階段をのぼった。

 やはり扉は閉ざされていて南京錠がかかっていた。だが、俺が引っ張ると軽い金属音をあげて南京錠は口を開いた。

 これであちら側に行ける。

 思って扉を開けようとしたときだった。

「ダメ」

 服の裾が引っ張られて足が止まった。イチカだった。

 荒い呼吸をしながらイチカが俺を見上げる。その瞳が生まれたばかりの星のように強い光を放っていて、俺は何故ここに来たのかを突然に忘れた。

 どうして小学校に通っているはずのイチカがここにいるのかとかそんなことは吹き飛んでいた。

 吹き飛ぶくらいに、イチカの光は眩しかった。


 立ち止まる扉の向こうで何かが強烈な怒りを感じているのが分かった。

 ガタンと扉が震える。

それは扉を強く叩いたような振動だった。それも尋常じゃない力で。

 扉にはめ込まれたすりガラスの向こうに黒い影が見えた。影は苛立ったようにもう一度扉を強く叩いた。

 音に驚いてびくりとする俺の服がぎゅっと引っ張られる。

「これはわたしのもの。だから、あなたにはあげない!」

 イチカの強い言葉に、すりガラス越しに見えていた影が即座に消え去る。

 あとには静寂と、開いたままの南京錠だけが残っていた。

 俺の服から手を離して、イチカが南京錠を閉める。固い金属の音が静まりかえった空間にやけに響いて聞こえた。

「りつ……彼らについていかないで」

 静かな声だったが、怒りを含んでいるのが分かった。

 肩が震えている。泣いているのだと思って、俺は「ごめん」と息を吐くように謝罪した。


 それから俺はイチカの母親に連絡して、イチカを引き取りに来てもらった。

 小学校ではイチカがいなくなって大騒ぎになっているらしい。これから二人で謝りに行くのだとイチカの母親が言った。

「すみません、俺のせいです」

 一緒に行ったほうがいいかと思ったが、イチカの母親に制される。

「いいのよ。この子が勝手にやったことだから」

 イチカの母親に怒っている様子はなかった。イチカのやることを仕方ないことだと思っている様子だった。

 彼女はイチカに似て静かな雰囲気のある綺麗な人だった。儚い印象はなく、身の内に熱く青い炎を灯しているような凛とした人だった。


「できればこの子と約束してちょうだい。人でない者に付いて行かない、誘われても誘惑には乗らないって。そうすればこの子の負担も減るでしょうし」


 イチカの母親もまた同じように視える性質たちだったらしい。俺のようにはっきりとした姿は視認できなくても、存在は感知できるようだった。

「約束します」

 小指を差し出すと、イチカはもじもじとして自分の小指をそっと絡めてきた。そういったところは年頃の女の子らしく見えた。

「約束する。イチカの不安になるようなことはしない。もしやりそうになったら怒って。そしたら止まるから」

 このときから、俺は彼らに誘われても傍に近寄らないようになった。

 彼らの誘惑の強さは相変わらずだったけれども、イチカのことを思い出すだけで簡単に抗うことができた。

 イチカの目の前で誘われることもあったが、そんなときは決まってイチカが俺を止めた。




 イチカの持つ強い光が、俺をこの世界に繋ぎとめていた――。





評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ