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明月記

作者: Rainy

 ――あの人がいなくなってからどれくらい経つのか、数えるのをやめたのはいつからだろうか。出張に行ったきり、あの人は帰ってこなかった。もう一年、いやもっとだ。きっと娘は、父の顔を覚えていない。あの人がいなくなったとき、娘は生まれたばかりだった。

 最後に交わした言葉を、私は上手く思い出せない。行ってくる、だったか、すぐ戻る、だったか。それに私は何と答えたのだろう。あの人は、どんな顔をしていただろう。何一つ思い出せない。

 なんにせよ、思い出せたところであの人が戻ってくるわけではない。だからもう、いいのだ。その記憶にはなんの価値もない。

 あの人は、いない。ここにはもういないのだ。それだけが事実で、あとのことは、言ってしまえばどうでもいいことでしかない。

 国からはたった二枚の書類が届いただけだった。一枚目が、『失踪』。二枚目が、『死亡者とみなす』。たったこれだけ。これだけで、あの人の数十年間の生は終わってしまった。終わらせ、られたのだ。役所勤めをしていたから書類が届いたというだけで、本来ならばそのまま何の連絡もなかったのだろう。きちんとしたけじめをもらえただけ、私たちはまだましなのかもしれなかった。どうなったのかもわからないままに、あの人を待ち続けるのはあまりにもつらいだろうから。

 今もどうにか、私たちは生きている。生きようと思えば、やることはごまんとあったのだ。娘を育てるのも、私自身が生きていくのも、簡単なことではないから。日々の忙しさに紛れて、あの人がいなくなった穴を埋めたいと思うことも何度となくあった。だがどうにも上手くいかない。穴は塞がらず何かが零れ続けている。それでも毎日は過ぎていた。どこへ向かっているのかも、よくわからない。生きるためだけに存在するような日々がずっと続いていた。

 ところが、今日だけはその日常が姿を変えた。来客、など、どれくらいぶりだろう。あの人がここにいた頃、理由は覚えていないが、訪ねてきた上司が最後だろうか。やけにあの人が不機嫌だったことだけを覚えている。

 その人は、家の前に、静かに佇んでいた。

「すまないが、貴女は李徴の奥方様だろうか」

 見慣れない人だった。お役人のようなきちんとした身なりをしている。

私の耳は『李徴』という単語だけをはっきりと聞き取った。久しく、他人の口から聞いていない言葉だった。この人は、誰だろうか。記憶を辿るが、思い当たる人は誰もいなかった。

 まさか、まさか。あの人が今になって見つかるなど、あるだろうか。どれくらい長くあの人を見ていないのかわからないほどの年月が経った今になって。

「驚かせてしまってすまない。私は袁傪という者だ。李徴の友人だ」

「……あの人の?」

 あの人に友人などいたのだろうか。あまり聞いたことが無い。あの人は他人を遠ざけるふしがあったから、顔見知り程度の知人しかいなかったはずだ。

 だが悪人には見えなかった。お役人の身なりをしている割には、供の者が一人も見えないのは少し気になるが、それを補って余りある穏やかさがあった。信頼しても、悪い方向にはいかない気がする。根拠のないただの勘だが。そもそも騙そうにも、今の私から取れるものなど何もない。だから、信じることにした。

 私が言葉を待っていると、袁傪と名乗るその人は、ゆっくりと口を開いた。

「私は、李徴の最期に、立ち会った。李徴が私に頼みごとをしてな。貴女に関する事だ。聞いてはもらえぬだろうか」

「……あの人は、本当に死んだのですか」

「そうだ」

「何故です?」

「……仕事先で流行り病にかかったのだ。私もあらゆる手を尽くしたが、力及ばなかった。申し訳ない」

 この人が謝るべきことではないはずだ。だが黙って頭を下げるその姿はひどく誠実で、あの人の友人だというのも頷けるような気がした。あの人は曲がったことが大嫌いで、だから自分のことも嫌いだったから。あの人は、真っ直ぐな人が好きだったから。

 ひどく苦しげな顔をして、彼は言葉を紡いでいく。

「妻子のことを頼む、と。私にそう言ったのだ。飢えや寒さに苦しむことが無いようにと。だから私はここに来た。李徴の最期の願いを聞き入れて」

 声がぼんやりと聞こえた。内容は飲み込めたが、なんだか妙にふわふわと頭の中に漂うだけで、理解ができなかった。

 あの人に愛されているのかは、いつもわからなかった。あの人の興味はいつだって私たち以外にあった。それは詩作であったり仕事のことであったり様々ではあったが、私と娘のことではなかった。元々親に決められた結婚だったから、あの人が私を愛さないとしても仕方の無いことだとは思っていたが――最期の最後に、私と娘のことを口にするとは。

 存外あの人は、普通の人間だったのかもしれなかった。それ故に、苦しんでいたのかもしれなかった。普通であることを嫌って、誰よりも輝くことを願う人だった。

 私はいつだって、普通の、李徴様を望んでいたというのに。あの人は、そのままの姿が一番に美しい人だったのだ。あの人が嫌っていた『普通』でも、なんでも、あの人は美しい人だった。誰が何と言おうとも。

「貴女方の生活を守るために来た。困ったことがあれば、これからは何でも私に言ってほしい。必要なものがあれば届ける、手助けが必要ならばすぐに参ろう。だから、」

「いいえ」

「……いいえ、とは?」

「いいえ、袁傪様。必要ありません。私と娘は、飢えや寒さに苦しんでいるようなことはございません。袁傪様のお心遣いは大変嬉しゅうございますが、私たちは大丈夫です」

 袁傪様の顔が、一瞬揺らいだ。だが何かを悟ったように笑った。

 あの人が時折見せた、陽だまりのような笑顔だった。ああ、この方は本当に、あの人の友人だったのだ。

 大丈夫だ。私も娘も。あの人に愛されていたのだということを、人づてにでも聞くことができたのだから。その愛は私の中に息づいている。もう二度と見失うことなどない。これ以上に、欲しいものなどない。

 助けが必要ならすぐに呼べ、と袁傪様は繰り返した。この方は、この優しさをあの人に向けてくれていたのだろうか。だとしたらあの人はきっと、この世に絶望はしていなかったろうと思う。どこかに希望があったはずだ。気がついては、いなかったかもしれないが。そうだとしても、あの人は、一人ではなかった。

 元来た道を引き返そうと背中を向けた袁傪様は、ふと何かを思い出したように立ち止まって、私のほうに向き直った。そうして、穏やかな笑みを浮かべながら、そっと呟いた。

「奥方様。李徴のことを、愛していましたか?」

「いいえ、私は、李徴様を愛しています」


李徴様と出会ったのは、高校時代の国語の時間でした。

李徴様は私が創作をしていく上で理想であり目標となるキャラクターです。好きで好きで仕方なくて、このような作品まで書いてしまいました。

李徴様はきっと、たくさんの人に愛された人だと思うのです。彼自身は気が付いていなかったとしても。李徴様が愛される作品を書きたかったのです。

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