『本能寺の恋』
織田信長。その名を聞いて思い浮かぶことは、圧倒的な勢いで天下人の座まであと一歩と迫ったが、家臣の明智光秀に謀反を起こされ自害した、戦国大名。と多くの人は思うだろう。
この話は、今だ日本史七不思議のひとつにされている、明智光秀の決起を邪推し、愛憎の恋愛小説っぽく仕上げたフィクションである。
1581年3月11日、武田勝頼自害する。織田信長はついに武田家を滅ぼした。天下はもうすぐ。この時点で信長に対抗する勢力は、毛利・長宗我部らの微々たるものであった。
その後、信長は本拠地、安土城に戻る。
信長はつぶやいた。『わしの天下ももうすぐよ』それとともに彼の寿命も迫っていた。
この時代、男性の平均寿命は50代の半ば〜60代あたりが普通である。彼はその50代の手前、47歳になっていた。ちなみに信長は常々、人生五十年。と言っていたようである。
話は変わるが、信長には妻がいた。濃姫である。しかし、不仲で、2人の間には子供がいなかった。又、側室には吉乃がいた。そして、他の戦国大名と同じく男色もあり、前田利家、森蘭丸らがいた。しかし、他にもいたのだ。
・・・それは、名もなき町の娘である。
名もなき町の娘・・・彼女は、病床にある父とすでに亡くなっている母から買ってもらった、鈴のかんざしを大事にしていたことから、『お鈴』と呼ばれる。
目鼻顔立ちはすっきりと清楚で、きりっとした眉が心のまっすぐさを表してるようだった。目には貧しさの中でも希望を失わない輝きがあった。
お鈴の家は父、兄の3人暮らしだ。父は病床にあるために働けないが、兄はなんとか食べていけるようにと、大名の馬の世話係として働いていた。
もちろんその大名とは、織田信長である。
あるとき、兄は大事な馬の毛をすく櫛を忘れてしまった。それがないと仕事ができない。それを届けるためにお鈴は、兄の元へと走った。
門番にわけを話して、兄を呼んでもらう。門番が兄を呼びに言っている間の、一瞬のことだった。
粗末な服を着た男が数人の護衛とともに来た。お鈴は護衛よりも粗末な格好をしている男に目が釘付けになった。目が輝いていた。
信長は天下人間近となっても、馬で遠駆けをすることが好きだった。時には護衛をも撒いてしまうほど飛ばすこともあった。
この日もやはり信長は遠駆をした。そして城へ戻ってくるときだった。門前にひとりの少女がいるのが目に入った。信長もまた、粗末な格好をしたお鈴に目が釘付けになっていた。
明智光秀・・・織田信長の軍師とも言うべき側近。信長の遠駆けについて行った光秀もまた、お鈴に目が釘づけになっていた。
明智家というのは少々複雑な家系をもっている。明智光秀の前半生は謎に包まれており、どういう人生を送ったのかは謎である。・・・
光秀は昔、まだ斉藤家(斉藤道三)に仕えているときのこと。仕え始めたばかりの光秀は俸禄(給料)は少なく、雑用として働いていた。だが、当時から頭は切れる方だったらしく、すぐに光秀は昇進。道三の娘の濃姫(のちの信長の妻:帰蝶)の守役に就いた。本当は許されぬこと。しかしまだ若き光秀は濃姫の美貌にとらわれてしまった。主人の娘に手を出すことは大罪だが、濃姫と光秀は仲がよく、切っても離せぬ仲となった。
そんなときに、帰蝶が尾張のおおうつけこと、織田信長に戦略結婚をさせられることとなった。
光秀は道三に泣きすがり、取り消しを求めた。
『うつけの元へなど・・・帰蝶さまがおかわいそうです!』
もちろん聞き入られることなく、道三は信長の元に娘を嫁がせて、盟友となった。
時はながれ、道三は、婿の信長が気に入り、自領の美濃を信長にあげる約束をとりつけてしまった。それが原因で、美濃を手中に収めたい道三の息子(本当は道三が滅ぼした土岐家の子で道三が養子にした):義龍に殺されてしまう。
しかし、光秀はもうすでにその場にはいなかった。
光秀はどこにいたのか。光秀は旅をしていた。自分の見識を高め、己を向上させるための旅の道中、道三討たれるとの報を聞く。
仕方なく光秀は信長へつくこととした。もともと義龍は好きでなかった。だが心の奥では帰蝶と会いたい。との思いからだったのかもしれない。
こうして信長傘下となり、みるみる昇進。そして軍師となり、そして片腕となり。秀吉と並ぶ程の将軍となった。
ここでいったん、帰蝶の話をしよう。帰蝶と信長の仲は、戦略結婚ということもあり、あまりよくはなかった。
信長は前に紹介した吉乃らがいる。帰蝶はそんな正室なのに正室じゃないような窮屈な生活は嫌だったようで、たびたび光秀に手紙を送っていたそうだ。
光秀は人遣いの荒い信長に不満もあったが、そんなことで決起し、本能寺の変のような謀反を起こすような男ではない。
ましてや、起こすとしてもほぼ天下人の信長を倒すのに、自分の配下だけで攻め入るだろうか。
軍師の光秀。もう少し考えて、もう少し戦略をたてたはず。
愛と憎しみは人間の感情でもっとも強い感情であるという。それではないかと思う。
そう。光秀がお鈴に釘付けになったのは、美貌などのせいではない。また信長さまはあの小娘に手を出すおつもりかっ!と思ったのだ。
私の帰蝶さまを奪い、そのくせ疎外し、挙句の果てには他の女をつくる。
光秀の心には人遣いの荒さや、家康の接待役になったときに食事が腐っていたために衆目の面前で信長に蹴られたり、きんかん頭と呼ばれ頭を叩かれたりでの『小さな憎しみの芽』はあったが、
そこに『帰蝶を思う、一途な恋心が裏返しになった激しい憎しみという肥料』が撒かれた。
愛と憎しみは紙一重。表が愛なら、裏には必ず憎しみがついているのだ。激しい愛には激しい憎しみ。
光秀の目は血走っていた。だが、まだ何とか抑えている感じだった。
当時、大名クラスの人であれば、側室のひとりや二人は当たり前だった。
しかし、光秀は帰蝶と仲が良かったこともあり、
また、愛していたこともあり、
主人である信長に嫉妬をしていたのかもしれない。
時は戦国。
下のものが上のものを倒すのが起こる得る、
下克上の時代である。
光秀には密かな野望があった。
天下取り。
そう、帰蝶を妻として、天下を取って・・・
世界を駆け巡る・・・
しかし、それは、光秀にとっては夢のまた夢の話であって、
ただの夢で終わるはずだったのだ・・・
『帰蝶様・・・』
光秀は遠駆けから帰ってきた後、
自室にこもってしまった。
心配する家臣たちをも部屋から遠ざけた。
光秀は考えた。
まずは娘のことだった。
光秀の娘:玉 後のガラシャ夫人と呼ばれるようになる女性である。
光秀と親交の深い、細川家の嫡男:細川忠興へ嫁がせている。
(・・・細川家か。)
玉は、細川家が守ってくれるだろう。
心配いらない。
愛娘はもちろん、一族の皆も細川家に任せればいい。
『帰蝶様・・・私はあなたを・・・』
帰蝶はまた窮屈な想いをするだろう。
最近は信長から声すらかけられないそうだ。
(また新しい女が入ったら・・・)
光秀は悩んだ。
初めは帰蝶を救うためのことを考えた。
やがて・・・自分の野望のためのことを考えた。
光秀はこんなことを考えている自分が嫌になった。
自室にこもって二日目。
光秀は数えてみれば49歳。
信長よりも一年上だった。
(帰蝶様も年をとられた。
しかし、いくら年老いても、好きだった。
愛していた。
信長様は、帰蝶様をどれほどだと想っているのだろうか・・・)
『帰蝶様・・・』
光秀は声に出して、再び呼んだ。
『帰蝶様・・・』
目に涙が滲んだ気がしたが、
涙は頬を伝わらなかった。
明智光秀の帰蝶に対する想いは、やがて信長に対する怒りへかわった。
愛が憎しみへかわった瞬間だった。
天正10年(1582年)2月。信長は、馬世話係のお鈴の兄を通して、お鈴を側室として迎える。
お鈴は新入りには破格の1ヶ月で化粧領を与えられ、安土城へと入城する。
濃姫はまたもや肩身の狭い想いをしなければならず、光秀はそれを不憫に思い、濃姫のもとへ話を聞いてやりに通っていた。
そして、その年の5月15日。徳川家康が安土へ駿河国加増の礼でやってきた。
そのとき、信長は明智に接待役を命じさせた。光秀は15日から17日までの3日間、豪華な食事や京都・安土を案内したりと手厚くもてなした。
16日までは何事もなく進んだのだが、17日の夕食の際のこと。
家康に出した魚が、遠路運んできたため腐っており、それを知った信長が接待役の光秀を蹴ったのだ。
料理人の手違いとはいえ、責任者は光秀。責任をとることは仕方のないことだが、このときの信長には小さな憎しみがあった。
・・・そのことを話すためには、時をさかのぼり3月のこと。信長はお鈴と酒を飲んでいたときのこと。ある側近がとんでもない知らせをもってやってきた。
『恐れながら申し上げます。明智日向守光秀様が正室の濃姫様のもとに通っているとのことでございますが、信長様はご存知でしたか?』
『なに?それは知らんぞ。光秀め・・・わしの妻に手を出そうとはな・・・!!あの金柑頭め!!わしが今まで可愛がってやった恩を仇で返そうとはな・・・!!』
流浪していた光秀を拾ってやったと信長は思っている。
飼い犬に手を噛まれたような気分に襲われた。
信長は濃姫の件で少し怒っていたこともあり、何度も蹴った。
光秀がうめき声をあげた。
信長はそこでようやく我に返った。
そして光秀は接待役を解雇され、秀吉の援軍として、対毛利の軍団を指揮することとなった。
そう・・・ライバル秀吉の配下として。
軍を準備するため自領の丹波に戻った光秀は、軍団を編成しながら、自分のライバルである秀吉の下で働くことを思っていた。
信長ももちろんそれを承知のはずであり、悪意があってのこととしか思えない。
また突然、濃姫様と連絡が取れなくなってしまったのもいかがわしい。
『なにもいやしいことはしていないのだが。勘違いされていまっているのだろうか・・・。・・・しかし、わしには細川殿や(斉藤)利三がいる。もし、今、手元にいる軍団を安土へ向ければ。そして援軍に細川殿が来てくれたら。』
・・・そこまで考えて光秀は自分に後悔した。
『・・・わしは、なんてことを考えているのか!?いくら戦国の世とはいえ、自分は信長様にご恩をいただいた身。裏切れるはずが・・・』
・・・最後の「ない」とは言えない気がした。・・・光秀は自分が疲れているのだと思った。
信長は家康を丁重にもてなし、そして、
『せっかくここまで来たのじゃ、京を見物していくとよい』
と提案し、家康も賛成した。
そして信長は、家康を見送った後、秀吉へ援軍派遣の件を知らせ、光秀に出陣命令を出した。そして自らも馬へ乗り『出陣。』と周りに小さく言った。
そして京の本能寺。安土よりは秀吉のいる高松に近く、また交通要所で移動の便宜上もいいということで信長は本能寺に入る。
天正10年5月30日のことだった。
信長は光秀より、少々手間取っており出陣遅れます。との連絡を受けていた。
『まったく金柑頭め。なにをしておるのだ』
少し苦笑いをし、信長は来る最後の壁というべき毛利戦に考えを浸らせていた。
そのころ細川家から光秀のもとへと走る使者が、光秀のもとへ到着した。
『万事、光秀殿へお味方いたす。』と短く書かれた書状をろうの火へと入れる光秀の顔はすでに正気ではなかった。燃え盛る書状を見る光秀の目は、もっと遠くを見つめる目で、口元はすっすらと笑みを浮かべていた。
『ついにこの日がきてしまったのだな。わしが天下人となるときが。』
6月2日正午に織田軍への集中攻撃を開始する」
この書状は、毛利家にかくまわれている足利義昭が、毛利・上杉・長宗我部・畿内の商人・島津らに送ったものだ。
中国の毛利・足利は羽柴秀吉を。北陸の上杉は柴田勝家・前田利家を。四国の長宗我部は丹羽長秀を。畿内の商人らは大量の金で兵を雇い大坂で反乱を。九州の島津は毛利、長宗我部の後詰を。
1582年6月1日の夜中。明智光秀は京都郊外に兵を待機させる。光秀は兵に武器の手入れを命じた。
そして夜も更け、2日になった午前三時のこと。光秀は言った。
『敵は本能寺にあり』と。
光秀の手勢は信長より与えられた兵なので、信長への忠誠が高かった。光秀は信長を討つということを兵たちに伏せ、出撃した。
兵たちは大音声を上げながら、本能寺へと殺到する。兵たちの士気は天をも衝く勢いであった。
運悪く、足利の策略と日が被ってしまったのだった。
(なにやら騒がしいな・・・)信長は、寝ぼけながらも愛用の直槍を取り出す。
ドタドタッと音がして、森蘭丸が来た。
『申し上げます!明智様、謀反とのことです!信長様、本能寺はすでに明智軍によって包囲されており、抜け出す余地もございません!』
『なにっ!?・・・光秀が・・・なぜだ?何かの間違いであろう?・・・そんなわけがない・・・そんなわけが・・・』
信長はひどくうなだれていた。
『信長様!実際に明知家の家紋をつけた旗が立っているのです。それに兵たちが武器を振るっております。そのようなことを言っておられる場合ではありません。一刻も早くここを突破し、裏切り者に正義の鉄槌を!』
蘭丸は小柄な体を震わせながら言う、そして皆を起こしに走っていった。
皆とは言っても、ここには100人程度の、しかも、料理人だとか世話係だとか馬を手入れする者だとか護衛部隊だとか信長の妻である濃姫らがいた。・・・おおよそ兵力とは呼べないような手勢であった。
『くっ・・・まさか急襲されようとは。』言いながら、信長は外へ飛び出す。
飛び出た信長がみた、あまりの光景に信長は言葉が出なかった。
明智家の家紋、桔梗をあしらった、真っ青な群青色の旗がうらめしそうに風に揺れている。
その周りには赤く燃え盛り、まるで生き物のように揺らめく松明の火。
そして黒の鎧を着た、織田家の兵たちが馬世話係を槍で突き殺しているところだった。
光秀に与えたはずの軍団だった。
金をおした赤黒い甲冑に身を包む光秀が真直ぐこちらをみていた。
血が火に照らされ、きらりと光って飛ぶ。
真夜中なのに、まるで昼間のように明るい本能寺の中庭は、まさに地獄絵図のような無惨な光景だった。
『光秀!本当に貴様は光秀なのか!?』
信長は希望を込めて大声で訊く。
光秀も大声で返答する。
『信長!・・・いや、信長様。わたしは、あなた様には大層、感謝しておりまする。なんでもない、このわたしを取り立ててくださった信長様には感謝をしてもしきれません。しかし、恩を仇で返さなくてはなりません。』
『やはり光秀なのか・・・では、なぜこのようなことをするのだ。次の毛利戦で天下は治まる。乱世は終わるのだぞ?』
光秀はゆっくりと立ち上がり言う。
『・・・訳はいくらでもありまする。まず第一に公家衆貴族のおぼしめしでありますから。他にも・・・濃姫のことを。』
『公家が?どういうことだ?お濃がどうしたのだ?』
『貴族たちは朝廷を滅ぼそうとする信長様に対し、討伐の勅令を出すおつもりです。わたしはいくら信長様の命令でも、天皇にだけには刃を向けられません。しかし、ほんとは天皇のために兵をあげたわけではありません。濃姫様のことで兵をあげました。』
『なに!?お濃が好きなのか?好きであるならば、そう言えばいいであろう。こそこそと通ったりするから悪いのだ。』
『そうではありません。濃姫様は信長様を愛していた。しかし信長様はその愛に応えようとしなかった。そればかりか、正室をさしおいて吉乃様や、鈴姫様と・・・。
わたしは濃姫様の相談にのっていました。それを濃姫様のもとへ通っていると誤解され、信長様に疎まれていると聞きました。
わたしは疎まれても構いませんが、濃姫様だけには害がないようにと思いました。しかし、信長様は濃姫様を閉じ込めてしまい外部の接触を断ってしまいました。
濃姫様は悩みを外に吐くことができずにつらかったことでしょう。どうすれば信長様に愛されるか、とずっと悩んでおられました。濃姫様は私と血のつながりは薄いですが、兄妹であります。濃姫様は斉藤家と土岐家の子。私は土岐家の血を受け継いでおりますから。』
向かってくる敵兵を槍で突きながら、信長は言う。
『そうであったか。それが兵をあげた主な理由であるか。』
『さようでございます。もう敬語を使う必要はなくなりました。主君に兵を向けたということは、もう家来ではないということ。・・・申し訳ござらん。・・・者ども!あの者を討ちとれぃ!!』
『もはや・・・是非もなし。』
まず向かってきた兵の顔を槍で突きとおし、横から斬りかかろうとした兵を蹴倒した信長は、縁の手すりに足を乗せ、下から槍を突き出してくる敵兵を刺していく。
蘭丸も小刀と直刃の二刀を両手にもち、次々と斬ってゆく。
お鈴のおかげで、蘭丸と並ぶ側近になれた、お鈴の兄は小斧でなぎ倒していく。
料理人も包丁を使ったり、鍋ではたいたりしている。
宣教師から貰い受けた、黒人奴隷の弥助はその力を生かして、角材で殴ったりしている。
小姓たちはそれぞれに小刀や石などで戦っている。
濃姫の侍女もある程度武器が使えるらしく、短槍や短刀で戦っている。
濃姫は事の詳細を聞いて、光秀に会おうと、信長の隣までやってきた。
『光秀・・・なぜかようなことを?われは、このようなことを望んではおりません。早々に兵を退きなさい。』
『もう遅いのです、帰蝶様。もう計画は回り始めました。だれにも止められません。』
『光秀・・・もう無理なのですね・・・?』
そのときあまりの抵抗に手を焼いた、斉藤利三の部隊が鉄砲隊を前へ出し、撃ちはなった。
その弾丸は小姓たちを打ち倒し、信長の頬をかすめた。そう、隣には帰蝶がいるのに。
『帰蝶!』
あわてて信長は、お濃を抱きしめる。ゆっくりと足から力が抜けていって、崩れ落ちていく帰蝶。首に当たったらしい。
『の、、ぶな、がさま・・・』濁音を言うのが苦しそうであった。
帰蝶は続けて言う。
『・・・光ひ、、では、、・・・私のせいなの、、で、、す。お許しく、、だ、、さぃ・・・』
カクンと首が垂れた。
帰蝶の死顔は、なぜか微笑んでいるようだった。
夫である男の腕の中で、帰蝶は眠った。
信長の目から一筋の光りが流れ落ちた。
鬼神信長。このときの彼の目は鬼が棲みついているかのごとく、恐ろしい眼をしていた。
信長は悟った。自分は心から帰蝶を愛していなかった。どこかで戦略結婚だと思っている自分がいて、親同士の戦略に、自分の結婚が利用されただけだと思っていた。
会った事もないような女と結婚させられた。当然、2人の間に愛はない。と思っていた。
だが、帰蝶は自分のことを愛してくれており、子供こそいなかったが、帰蝶は今まで自分に黙ってついてきた。
今頃になって信長は、帰蝶の愛を知る。帰蝶の死と引き換えに。
信長は帰蝶が少し愛しく思えてきた。もういないという現実が、なおさら、そのことを想わせた。
『帰蝶・・・』
『濃姫様!』
光秀は殺すつもりのなかった帰蝶を殺してしまったことで、気が動転していた。
信長は直槍を一閃させると、また再び突き始めた。槍が舞うたびに、敵兵が飛んでいく。突いては、斬り、突いては、飛ばしの連続で次々と倒していく。
『帰蝶・・・すまぬ・・・』
槍に帰蝶が宿ったかのように、力がみなぎった。
蘭丸は、もう信長様を助けることはできぬと判断し、自害を薦める。
この時代、敵に首を取らせるくらいなら自分で死ぬ方がよいと考える時代だった。
『信長様!もう持ちこたえる事は無理でございます。私が時を稼ぎますので、中で自害を!敵に討ち取られてはなりません!』
そのとき光秀の号令がかかった。
『・・・もう遅い!・・・もう手加減することはない!・・・濃姫は、もうない!・・・全軍、突撃!信長を討て!』
光秀はやけくそだった。
自らも顔見知りの側近をひとり切り殺した。
時が止まったかのように、信長の頭のなかでさまざまな思いがうずまいた。
信長はあきらめたくなかった。できることならここで潔く果てたい。自分についてきてくれた、家臣たちや帰蝶とともに戦い抜きたかった。
だが、明智勢は容赦なく銃弾を浴びせてくる。
味方がまたひとり、ふたり・・・と倒れてゆく。ふと見渡せば、まだ戦っているものは十数人くらいだった。兵でもなんでもない者が戦っていた。
これがもし、同数の兵力なら、こちらの大勝利じゃないか・・・!!
だれひとりとして裏切らず、逃げずに戦っていた。そして死んでいった。
自分も肩や腕、足などに切り傷がたくさんあった。鉄砲のかすり傷もいくつかあった。
今まで必死で気づかなかったがそこら中が痛かった。
(帰蝶はもっと痛かった・・・)
信長は、死んでいった者、自分のために戦ってくれた者に感謝を覚えた。
今までも感謝してきたが、今日ほど感謝したことはなかった。
そして、蘭丸の肩をぽんっと叩くと、退け。と合図した。
蘭丸は首を振った。
『殿が退いてから、続きます。さぁ、おはやく!』
信長は小さく頷いた。そして退こうと向きを変えようとした瞬間、背中に違和感が走り、激痛が走った。
敵がすぐ後ろにまで迫ってきていた。背中に突き刺さった槍をつかんで、その兵を引き寄せ切り伏せる。幸い、あまり深くはないようだった。
信長は本能寺へと退いた。
仏像がある真ん中の部屋まで走って行った。
蘭丸も走っていた。敵が信長の自害を邪魔しないように駆け回り次々と斬ってゆく。
銃弾が脚にはいったが、不思議と痛みはなかった。
蘭丸は自分の忠誠心を少し誇らしく思った。
父と同じように信長様のために死ねるなら、命は惜しくなかった。
戸を蹴り倒して、中に入ろうとしていた敵をつらぬくと、もう片方の小刀で首をかき切り、刀を抜くざまに次の敵を切り倒した。もう100人以上は倒していた。だが、敵は一向に減らない。
(信長様は自害できただろうか・・・)
まだ生きている数人の味方も本能寺の縁へ集まってきて、中に入れないように敵を防ぐ。
敵が繰り返し繰り返し寄せてくる。
斬った。次の敵が出てくる。それも斬った。
お鈴の兄は小斧が折れてしまったらしく、敵から奪った剣で戦っていた。彼の片腕はもうずたずたに切り裂かれていた。
・・・
突然敵が退いた。
何事だ。と思い見ると、黒い鉄がたくさん飛んできた。
蘭丸は胸をぶち抜かれ、腹をぶち抜かれても、倒れても、刀だけは離さなかった。敵の歓声が聞こえた。
『信長様・・・先に待っておりますから・・・』
口を開いたが声にならなかった。
うっすらと敵の足が見えた。
目を閉じた。何か温かな光が見えた。感じた。
意識がなくなっていった。
外の騒がしさが嘘のように静かな仏像の部屋までたどり着いた、信長はろうの火を畳に落とした。
ゆっくりと燃え広がる火を見つめながら今までの人生が走馬灯のように頭に広がりかけた。
しかし信長は未練を断ち切るようにして、長い髪を切ると、ぼさぼさになった髪を揺らしながら、小刀を抜いた。
本能寺の中が騒がしくなった。小刀の白い太刀筋を眺め、蘭丸達の奮闘を思いながら、腹を出した信長は、人生50年と言っていた自分の49年の生き急ぎすぎたかもしれない生涯を惜しんだ。
信長は不思議な気分だった。死ぬ間際だというのに。
死ぬ間際にして本当の愛を知り、本当の人と人とのつながりを実感できた。
白い綺麗な小刀がずぶりと、腹に食い込んだ。さっと横へ滑らせる。地獄の業火のようにめらめらと燃える炎。
紅蓮の炎が本能寺をゆっくりと覆い尽くす。
外にいた光秀は拡がりゆくその炎を見ながら、『信長・・・』とつぶやいた。
『信長の死体を捜せ!』光秀は焦っていた。帰蝶の冷たくなった微笑をみて、後悔してきた自分を振り払おうとしたのかもしれない。
愛と憎しみは紙一重。それでも愛はこの世でもっとも美しいものなのかもしれない。
信長と光秀はなにを感じたのだろうか。愛憎の果てに2人は戦った。そして2人とも死んでいった。
光秀ほどの男がたとえ中国大返しがあったとしても、そう簡単にやられただろうか。秀吉の好敵手ともあろう男が、なんの策もなしでいたはずがないと思う。なにか思いつめる節があったのかもしれない。
愛に生きることは簡単じゃない。でももしそれができたのなら素晴らしいことだと思う。愛とともに。