2話 闇色の毛皮
目覚めはあまりにも緩慢で、安全な家でふと目覚めたような錯覚を思わせた。
――あれ……? 俺……?――
それでも何度か瞬きすればそうではないことに否応なく気づかされる。
そこは木目の天井はなく曇天があるばかりで寝ているところも布の上ではなく地面に直接寝ているものだと見ずともわかる。
起き上がる際のあちこちの痛みに顔をしかめて、ようやくそばに誰かいることに気がついた。
金髪でブラウンの目、見たところ自分より2~3下、12~13歳ごろの子供だ。
「君は……? 助けてくれた……のかな?」
血の足りない頭はいまだ緩慢で、しかし痛みの残る後頭部に何か葉のようなものが当てられ、布で縛られているのが触れてわかる。
また雪のない地面に横たわっていたということは気を失った場所から移動させ、手当てをした誰かがいたということでもある。
頭の傷というものは意外に思うほど多く血を流すもので、何かで抑えないとどんどん血が出て行ってしまうのだ。
そして手当をしてくれたのが目の前のこの子であることはその子の裂けた片袖を見ればわかることでもあった。
「お父さんと……はぐれちゃって……お父さん、どこに行ったのか……わかんなくって。
探してたら、あなたが倒れてて……怪我……してて……それで…………」
ぽつり、ぽつりと話した所によると、どうやら父親とはぐれたらしい。
「えーと君、名前は?」
「……? あ、スコル……、スコルだよ。」
「そっか、だがスコル、名前を聞いといてなんだが、俺はお前のお父さんを探してやることはできない」
そう言ってハティは、腕の噛み傷を見せる。
「俺は狼に噛まれちまった、たぶんいつか俺も狼になる。そしたらたぶんお前を喰っちまう。だから、ごめんな」
そのとき彼はスコルが恐れて、自分から後ずさると思った。狼は凶暴で、人や家畜を襲い、殺す、だから自分も殺されるのではないかと思う、それが自然な反応だったから。
しかしスコルは、キョトンとしたままだった。
「なんで?」
「は?」
おもわず間の抜けた声を上げてしまった。
それに気づいたかどうか。
「なんで狼だと僕を殺すの?」
――なんだ? この質問――
「え? いやだって、狼は人を殺すし……誰だって……」
「狼だって意味なく殺してるわけじゃないよ、中にはそういう奴もいるけど。それでもまともな奴は人間を襲ったりしないよ」
――まるで、いやまさか――
「……なんでだ?」
「だって危ないじゃん。人間って束になって襲ってくるもん、ほか狙うより危険でうまみも無いのに何で襲う必要があるのさ?」
――まさかまるで――
「そうじゃない!」
自然と声が大きくなる。
「お前……なんでそんなことわかるんだ?」
それにスコルはあっさりと答える。
「だって、僕も狼だもん。」
と。
「ひっ」
つい後ずさる。狼に襲われ、噛まれた記憶が舞い戻る。あの痛み、そして恐怖。
「どうしたの?」
スコルは首をかしげる
「じゃあ、あの時の狼は……」
「違うよ! 倒れているところを見つけたんだもの」
慌てて否定する。だがそれは嘘がばれたのを誤魔化そうとしているようにも見える。
ハティはいっそう警戒心を強めるが、態度にかすかな違和感を覚えた。
「お前、何を企んでいる?」
しばしの沈黙が洞窟を支配した。
その間にハティは相手を観察する。
小柄な体だ、しかしただの子供ではない、獰猛な狼なのだ。
岩壁に寄りかかり、腕に片手を添える格闘には向かない姿勢をとっている。まるで自分を小さく見せようとするように。
何か違和感を覚えよく見ると、かすかに腕が震えている。壁に寄りかかっていたのも足が震えていたからだった。
「お前……怯えているのか?」
思い返してみるとスコルは、ハティが狼に噛まれたと告げる前はかなりオドオドしていた、しかしそれを告げた後は年相応の態度になっている。
まるでスコルにとって人間こそが恐ろしいかのように。
だがそれは矛盾だ
狼は人よりも強く、一人では絶対に勝てない相手だ、だから人ひとり殺すのなんて簡単で、狼が人を恐れるはずはない。
「なんでだ?」
前と同じ、だが前とは違う感情を込めた言葉。
「何で怖いんだ?」
その言葉にスコルはビクッと身じろぎし、ポツリ、と呟いた。
「訳……分かんないから」
「食べるわけでもないのに襲ってきて、吊るしあげて喜んでる」
「気持ち悪い、何したいのか分かんない」
話を聞いてはみたものの、ハティは実はそれを半分も聞いていなかったし、まして同情すらしていなかった。
――狼は嘘吐き……か……とはいっても意味もなく何もかも嘘をつく、そんな愚かな奴らなのか?――
「つまり……」
――否、そんなに単純なら警戒させる必要がない、『嘘しか言えない』と書いて終わり、誰も騙されはしない、ならば答えは簡単で面倒だ、狼は相手をだますために真実を混ぜることを知っているはず。ならば今までのどこまでが嘘かを知らなければならない――
「人のやることが理解できない……ってことか?」
こくり、とうなずく。その眼は何か嫌なものを見たかのようにつま先を見つめていた。
「まあ、気持ちは分からなくも……ない……痛めつけられるのはつらいことだ」
「? 痛めつけられたことはないけど……そんな怖いやつらに会いたくない……怖いよ……」
誘導尋問だったのだが引っ掛からなかった、見破られた可能性もあるが動揺したそぶりもない。
――俺を襲ったやつじゃない……みたいだな……断定もできないが……――
噛み傷の大きさとスコルの頭は明らかに大きさが違う、だが狼に変わるというのがどのようなことかハティは何一つ知らない、故に、子供だからと油断するつもりはなかった。
「そうか…」
深追いは危険か、逆上されることこそないだろうが不審に思われるのは都合が悪い。
そう考えることはスコルと同行することを考えていたということで、スコルに僅かばかりではあるが心を開いたということをハティは気づいていたのだろうか。
「さて、スコル、これからどうするんだ?」
「それはむしろあなたが考えなきゃいけないことだと思うんだけど」
確かにそうだった、村を飛び出した、ということは、帰る場所を失ったということである。だが年下の子供に言われるのは何となく腹が立つものでもある。
「まあそれはそうだが……俺は行くべきところもない。
できる限り遠くへ、とは思っているが、ね」
事実、顔を知っている相手に出会ったらその場で殺されてもおかしくはない、知らない相手ならば、というような甘いことを考えないでもないが、自分の正体を隠して生きていくというのは困難なのだろうとスコルの話を聞いているとおぼろげに感じる。
「あなたの名前、なんていうの?」
「俺はハティ、ハティって呼ばれて……た」
「じゃあ、ハティについていく」
予想していなかったと言えば嘘になる。おそらくスコルが父親に会える可能性はかなり低いだろう、おそらくだが棄てられた、ということなのだろう。
狼になる子供なのだ、殺されなかっただけ幸運だろう――たとえ結末がより凄惨であろうとも――だがそれ以上面倒を見られるほどの者はいない。
ならばスコルはたった一人で生き抜くか、誰かに縋るしかない。
「俺は何もできないよ、一人で生きていけるか、それすらも危ういんだ。
だから、お前を助けるのは無理だと思う」
――冷たい言葉だ――
嫌な気分になる、『お父さんが見つかるまでだよ』とか『きっと大丈夫だよ』とか言いたいけれども、そんなことがあり得るはずがないことをハティも、スコルもまた知っているのだから。
「でも」
それでも救いはあっていいはずだ、たとえ自分たちがおぞましいけだものでも。
「来たいなら、一緒に来てくれ」
そうは言ってみたものの、地図もなし、適当な方向へ向かえばあっという間に山のどこかで行き倒れかねない。
そもそも行く当てもないうえに人里へは降りられないのだからどこに行こうと同じ事、とも思うが、どうすれば生きていけるか、その具体案が一つもないのである、再びズキズキと痛みだした頭へ手をやり途方に暮れるも答えが降ってくるはずもなし、早くも八方塞がりの態をなしていた。
「改めて顧みると……酷い様だなこれは」
自身の無計画さを悔いるべきかもしれないが、あの状況で今後の計画を練れるほど前向きな奴は余程神に愛されているかもしくは魔女かのどれかだろう。
それはさておき、これからどうするか、それを考えるにあたってできることとしては、まず差し当たっての状況をどうにかするか、長距離にわたる目的を設置するかのいずれかとなる。
長距離にわたる目的は、今のところ無いに等しい。
何しろ誰からも疎まれ、嫌悪される身の上だ、どこに行こうとも自分たちを受け入れてくれる地はあるまい。
人里から離れ、否応なく関わりを断ち切られて今、周りの規範なく生きるということが如何に難しいかを自覚することとなったのだ。
人の文明というものは基本的に助け合うことが前提である、それぞれの仕事を分担し個人でできない作業を補助する、それが無くなった今、ハティはそのすべてを自分だけでしなくてはならないのだ、おそらく父子で旅してきたであろうスコルが今生きていることを考慮すると、決して出来ない事ではないのだろうが、それを想像し実現するということは相当に難しいことである。
「まず必要なことは何だ、食べ物、寝床、この二つが常に揃うなら移動する意味はあまり無い、と思う」
「ええー」
嫌そうな顔をされた。
「ちょっと走ったら人間のいるところまで出ちゃうよ、見つかったらどうするの?」
定住するならともかく通りすがっただけならごまかす手段は幾つかありそうなものだが。
実際、旅人というものは珍しくはあるが――定住できない、後ろめたいところのあるものが殆どではあるが――いないわけではない。
とはいえそれらの大半は徒歩での移動はしないのが常識だ。
村と村はそれだけ離れているしその途中で何が起こるともしれないのだから。
それを考慮するならば森の中で少人数の人間と出会うということは、野盗が近くにいて襲われたか、野盗そのものかが大半となる。
――そうだ、野盗のことも考えなければいけないな――
金目のものなど持っていなさそうに見えるだろうし実際持っていないのだが、そういった場合でも口封じのため皆殺し、ということは頻繁に起こりうるだろう、こういった場合、近隣の村でそれらのうわさを聞く、というのが正しいのだろうが、
見た目に変わりないとはいえ、けだものが人里に入って無事に済むものなのだろうか、短時間なら気づかれる事もないかもしれない、だが後ろめたいものがあることは明らかだろう、それも相当に大きな事情が、である。
打ち解けるのは難しいだろう。
そうならば情報を得ることも難しい。
考えるたび出てくる不安材料に頭が痛いのを通り越し絶望感にうずくまりたくなったがそれを何とか振り払い、ふと差し迫った別の事柄に気が付いた。
「スコル、狼になるって、どういう事なんだ?」
今更なことではあるがハティは狼について何も知らないのだ、認めたくないとはいえ自身が人間から逸脱しつつあるのははっきりと認識できる。
ならば知っておかなければいけないことがあるかもしれないのだ。
「えっ? ええっと……とにかく痛いよ」
「痛いのか」
急に要領を得なくなった。
「あとすっごく苦しい」
――ひょっとすると自分も狼だというのは嘘なのではないか――
そう思うが
「とにかく痛くて苦しいの、まるで体が引きちぎられるみたいに、ううん、お腹とかって意味じゃなく身体中のなにもかもが、ばらばらにねじ切られるみたいに」
ふと見えたその顔は今その責め苦に会っているかのごとく歪んでいた。
そもそもスコルの言葉はただの迷子が話す内容ではないのだ、狼であるということは疑いようもないだろう。
ただこれではほとんど情報が入ってこない、ここは聞き方を変えるべきだろう。
「ええっと、そういうことではなくって、どんなふうに狼になるのかわからないか?」
「わからないよ、見えないもの」
――確かに――
「だったら、なにか徴とか、あるか?」
「うーん……、まず頭から痛くなる、かなあ」
ゾッと背筋を冷たいものが走った。
頭痛、それは今まさにハティを襲っているものだ。
今改めて突き付けられた通告はやや現実からそれていた思考を大きく揺るがすに足るものだった。
「……そのあとは……?」
「ある日突然来たって感じて、そして体中が痛くて熱くて、考えてることがめちゃくちゃになって、突然それが無くなると……狼になってるの」
全くと言っていいほど具体性がない、わかったことは少ない、今から苦痛が襲うこと、そしてそれは不可避のもののであるということ。
これらの実感は薄い、それがまさに危険だということを理解すべきなのに、、対面するまでの猶予が不明確であることにやや他人事の感覚が混じっていた。
「夜、頭痛がする、それは狼なる前兆だということは何となくわかってた。」
――いや、困難のせいだと思っていた頭の痛みも、本当は気のせいではなく本当に――
また、頭の芯がずきりと痛んだ。
「教えてくれ、どのくらいの猶予がある?」
「……頭が痛くなってから、2日ぐらい……」
頭が痛くなった時からちょうど2日。
もう、時間はない。
「がっ……あああっ……はっ……ぎあっっっ」
頭が一瞬で真っ白になった、体中から力が失せ、前後左右が分からなくなる。
これまでとは程度が違う、そんな今感じていることを言葉に直すのにも手が回らない。
しかも体中を苛む苦痛はそれだけでは無かったのだ。
胸の奥の鼓動が――4体液の1つ、血液を作る心臓と呼ばれる場所だ――激しく、まさに飛び出そうになるほどに暴れだしたのだ。
「ハティ、しっかりして! ああっもうっ今日は新月なのに!」
声が遠い、そもそも声を聞けているのだろうか、意味を理解もできぬまま、思考の隙間を流れていった言葉は音として復唱されるだけで意味を成さずに過ぎていった。
皮の下にある骨が熱い、まるで火にあぶられた飴のように溶けていくようだった。
腕、胸、喉、脚、頭蓋といわず全て、熱に浮かされてその形を放棄する、その痛みは想像上の比ではなく、苦痛を前にした時つい行ってきた祈りすらも浮かべられない。
「どうしよう、早くしないと、板か何か、枝でもいい、何か、暗くなる前に!」
背中がねじれ、体が浮き上がると叩きつけられるように地面に落ちる。
背中だけではない、体のあちこちが歪み、震えていた、捻じれ曲がった骨はへし折れる寸前のようで、このまま苦痛が続けば全身が粉微塵に砕け散りそうにも思えた、まるで、陶製の人形のように。
「口を開けて! ハティ! こっちを向いて! お願いだから! このままじゃ舌を噛み切っちゃう!」
おぼろげな影が目の前をちらつく、息ができない、誰かが胸を叩いている、歯が互いに絡み合ってそこを風が押し寄せてくる。
泣き妖怪の声が聞こえる、知らせに来たのはハティの死なのだろうか。
――死ねるならいい、この苦痛が終わるのならば命なんて――
その思考は幾度となく繰り返された、恐れと後悔は入り混じり、けれど何の助けにもなりはしない。
かつて殺してくれと頼んだ、それを聞く者は誰もいなかった、今はどうか、いるともいないとも言える、だが口からは濁った呼吸音が漏れるばかりで意味ある言葉になりはしなかった。がちがちと震える顎は溶け合ったように動かないが意志を込め何とかそれを開いた。その理由は殺してというためだったのかもしれない、だがその瞬間何か堅いものが口の中に挟み込まれた。
舌が押しつぶされ、息が詰まる、吐き出したいが歯は堅い何かに食い込み、ぴくりとも動かなかった。
瞬時、周囲から音が消えた、それは錯覚だったはずだ、ただそう思っただけ、だがそれを境にして、一気に体が塗り替えられる、そうハティは感じた。
肌が騒めいた、否、ざわざわという音を聞いた
気味の悪い音は耳元に始まり背中から末端へと広がっていく、その音に沿って体の奥から出てきたものがある。夜闇のように真黒な、獣の毛が。
みるみるうちに腕の先までを覆い尽くす、その形はねじくれ曲がり人の形から獣の形へと変じていく。
指が伸び上がりだが指と指の間は狭まっていく。
握りつぶされたように細長くなっていく手の先に弧を描くように黒い爪が出来上がる。
人外のその様は何か取り返しのつかないことをしたような思いを、痛みに薄らぐ意識の隙間に浮かばせた。
だが何を後悔しているのかは、分からなかった。
思考に没頭することなんて端からできはしないが、千地にちぎれた思考は今の体を受け入れがたいかのように、他人のものになったように関係ないことを考えているようだった。
それを無視するように体の変容は続く、体と心が別々のことをしているというのは魂が抜け出るかのような錯覚を覚えさせた。
背中から何かが引きずり出されるように感じると、顔が押しつぶされたようにまた息が詰まる、そうする間に顔の前に何かがあることに気が付いた。
とたん見えない手に掴まれたように頭が仰け反るとそのまま下を向くことができなくなる。
喉の奥が熱くなり何かが吐き出されそうに感じるも、出てきたのは声にならない嗄れ声だった。
身体を良いように弄繰り回された疲労はすでに限界だった、痛みと疲労でかき回された体は急に平穏な世界へと放り出された。
ふらふらと、自分のものではない四肢で立ち上がる、それはこれまでとはまた違った苦痛だった。
形が定まったばかりの脚は膝や踵があり得ない位置にあるし、腕は縛られたように手が動かない、いつの間にか咥えていた棒切れを吐き出すとその突き出た口が堅くこわばっていることにも気が付いた。
そしてハティの目の前についさっき――だがとても昔に感じた――道連れとなった少年、スコルが見下ろすように屈んでいた。
「良かった、生き残れた……」
言葉を返したかったが獣の口は人のようには回らなかった、アッとかガッとか意味のない音にしかならなかった。
だがスコルは察したようだった。
「御免なさい、何が言いたいのかは分かんないけど……多分言いたいことはわかる。」
屈みこむ体勢に疲れたのか体を後ろに倒し座り込む。
「痛いのも苦しいのも続くと思う。
でも慣れちゃうんだ、誰も彼も、良くも悪くも、ね?」
何かを諦めたようなその苦い笑いはどこか、寂しく思えた。
やっと投稿できた―
4か月とか長いにもほどがある……
しかも前より短いし……
失礼、お読みいただき、ありがとうございます!




