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第五章

 使者は通常随員を連れているものだが、このときの使者は一人だけだった。軽く見られたような気がしないでもないが、田横としては人数が少ない方が気楽であった。これが二十名を越すほどの随員を伴った使者だったとしたら、彼にとって雒陽までの道中は刑吏に引きずり回される囚人がたどるもののようだったに違いない。


 彼らは雒陽までの道のりを駅ごとに馬車を乗り換えて、共にした。

 馬車に乗っている間は、することがあまりない。必然的に使者との会話が増えた。

 使者は自らを「王鄭」と名乗り、気軽に田横に話しかけた。しかし、その割にはこの王鄭なる人物は自分のことを話すことを、あまりしない。

 そのことに気付いた田横は、やや不安になる。それも無理のない話で、彼がこれから連れて行かれる場所は、いわば敵地であった。使者がなんらかの理由で自分を欺いているのかもしれないと疑いたくなる気持ちも、自然なものであった。

「君、いや、王鄭どのは、どこのお生まれか」

 相手に出身地を問うことは、この当時では素性を知りたいという意思表示のひとつである。田横のこのときの質問もそれに違いなかった。

「臨湘です。それが何か?」

 臨湘とは洞庭湖の南のほとりにある城市である。春秋時代の楚の領地でかなりの奥地であった。

 ――臨湘……長沙人か。漢の勢力はすでにそこまで広がっているということか……。

 田横は内心驚いたが、相手に対してはそれを悟られぬよう、素っ気なく言った。

「聞いてみたまでだ」

 だが王鄭というその人物は田横の顔をいたずらっぽい目で眺め、

「ははぁ、わかりましたぞ。疑っておいでなのですな?」

と言った。

「そんなことはない」

「臨湘はいいところですよ。夏には洞庭湖で遊び、秋には遠くに見える山々が真っ赤に紅葉する。冬は殺風景で私にはつまらなく見えるのですが、それはそれで味わいがある、という人もいます」

 王鄭の口調は屈託のないものだった。緊張している田横には、それが逆に癇に障る。

「君の出身地に興味があるわけではない。聞いてみただけだと言ったではないか」

 仮に疑っているとしても出身地を偽っていることを疑っているのではないのだ、田横はそう言いかけたがなんとかその言葉を飲み込んだ。

「そうでしたか。これはとんだお喋りを……申し訳ござらぬ」

 王鄭はそう言って微笑んだ。そうして見ると不思議に長者らしい風格も漂うように感じられる。田横は王鄭が使者として下手したてに態度を構えていることから、疑いなく相手が年下だとふんでいたのだが、もしかしたら自分より年上なのかもしれなかった。その辺も聞いてみたいと思った。

 ――いや、根掘り葉掘り聞くのはよそう。


「田横どの。あまり考え込まなくてもよろしい。私は一介の使者に過ぎず、皇帝はあなたのご尊顔をいちど拝見したいと望んでいるだけです。他意はありません」

 それを聞いた田横の表情が、緩んでいく。眉間のしわがとれたかと思うと、彼は口にさえも出して言った。

「それを聞いて安心した。わしは島に残してきた配下の者たちに危害が加えられてはいけないと思い、こうしてやってきたのだが……覚悟が足りないようだ。配下に与えられる危害を一身に受けることになると思うと恐ろしくて仕方がない。わしが酈食其にした仕打ちのことを思えば、当然だというのにな」

 王鄭は、驚いたようだった。田横の言葉に返事をしなかったのである。

「どうした。なにを驚く」

「いえ……。私は斉の田儋・田栄・田横の三兄弟は揃って気骨があり、近寄りがたい存在だと聞いていたものですから。あなたが過去の行為を後悔しているような発言をすることが意外だったのです」

「ぬけぬけと言う奴だ。だが、これは本心そのものだ。確かに酈食其には裏切られたという思いはあったが、殺してしまえばそれがわざわいのもととなる……当時のわしはその危険性を熟知していたが、あえて酈食其を殺した。二人の兄のように強い……君の言葉を借りれば気骨のある男だと見せつけるためにだ」

「斉が漢に土足で踏みにじられることを嫌ったがための行為でしょう。理解できることですよ」

「うむ。しかし漢への対抗姿勢を打ち出すためにわしのとるべき行動は……酈食其ではなく侵攻してきた韓信を殺すことであった。しかし、わしは恐くてそれが出来なかった。わしは逃げ出し……韓信の配下にあった灌嬰の軍にも敗れた。それが、わしの正体よ。気骨のある男、というのは看板に過ぎぬ」


 王鄭の見る限り、田横は酈食其を殺したことを本気で後悔しているようであった。乱世の梟勇の姿は影を潜め、人生が嫌になった隠者のような印象を受けた。

「こんな男の『ご尊顔』を拝見したって、皇帝が満足するわけがない。おそらく、皇帝だってわかっておいでだ。顔を見たいというのは口実で、その実はわしに恥をかかせようという……」

「そうかもしれません。しかし、それに耐え忍べば生き続けることはできましょう」

「確かにそうだが、皇帝が許したとしても酈食其の弟は許しはすまい。仮に許してくれたとしても、わしは一生負い目を感じて生きていかねばならない」

「酈商は……そんなことを気にはしません」

「なぜ、そう言える?」

「なぜって……。ああ、駅に着いたようです。馬車を乗り換えましょう」

 その言葉に従って馬車を降りた田横だったが、やや王鄭の態度に不信感を抱いたようだった。


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