第四章
田横がたどり着いた島は、即墨の東の海上にある。島にはある程度の住民がいたが、田横は意に介さなかった。住民の多くは、斉地を本拠に活動する漁師の家族であり、その中には大陸と島の間を行き来して生活する者もいた。
つまり田横の顔は、この島では利く。
住民たちは「田氏の王さまがこの島にやってきた」と騒ぎ、揃って貢ぎ物を差し出したりした。しかし、その貢ぎ物の中身が揃ってどれも魚であったことは、田横を落胆させた。
――当面三食どれもが魚、という生活が続きそうだ。
並み居る豪傑たちと覇権を争い、人を人とも思わぬような人生を送ってきた自分が行き着いた場所……それが三食魚づくしの島だった、ということに思い至ると、彼としては苦笑いするしかない。
――これが天罰だとすると、軽いものではないか。
そう考えると、苦笑いが本気の笑いに変わる。なんと滑稽な顛末。一種の喜劇ではないか、とも思えてくる。
――しかしこのまま終われば、総じてわしの人生は幸福なものだったといえるかもしれない。
だが、このまま終わるはずがないとも思う。あるいは自分はこの島を足がかりにして、もっともっと東の海上へ逃れなければならないのではないかと。そして大陸に住む者の誰もが知らない土地へたどり着き、そこで自給自足の生活を営むしか生き残る術はないのではないか、と思うのであった。
もちろんそんなことは出来るはずがない。仮に見知らぬ土地にたどり着いたとしても、名族に生まれた自分が畑の土をあさり、素潜りして魚を採って生活するなど、出来ようはずもなかった。気位の面もあるが、それ以前に技術的な問題がある。彼は泳ぎの練習などしたこともなかったし、作物は育てるものではなく、人に命じれば勝手に育つものだと思っていた。この段階に至り、ようやく彼は庶民の逞しさと、自分の人生の浅はかさを後悔したのであった。
にもかかわらず、つき従う五百名の部下たちは自分にとてもよくしてくれる。もう自分には彼らに与える土地も、金もないというのに。
名目的な爵位さえも与えることができない。それは自分があえて王侯を称さなかったからであった。
――普通の人間として、生きたい。
田横はそれを強く願った。そして心の片隅で、自分にはそんな小さな願いを持つことすら許されないのではないか、と思っていた。
やがてその思いは皇帝の使者を迎え入れることで、現実味を帯びていく。田横としては、なぜ放っておいてくれないのか、という思いを使者にぶつけるしかなかった。
「私はかつて……陛下の使者の酈食其を煮殺してしまった。聞くところによると、酈食其には弟がおり、漢の将軍となっているそうじゃないか。しかも、なかなか有能な男だと聞く……。彼は私を恨んでいるだろう。それを思うと、とても恐ろしくて上洛などできぬ。勇気がないのだ。笑ってくれてもいい」
使者は笑わずに答えた。
「陛下は貴殿の罪を許す、とおっしゃっています。陛下が許すのですから配下の将軍に過ぎない酈生の弟がそれに逆らうことは出来ません。どうかご安心なされよ」
田横は歯がみしながら、それに返答する。
「許される、ということであれば……どうかもう私のことは忘れていただきたい。平民として、海中の島にとどまらせていただくことをお許し願いたいのだ。……そうお伝えしてくれ」
使者との会見は物別れに終わった。
使者との会話の中で、あらためて気付かされたことがある。
自分は、いつの間にか命を惜しむようになった。
――不思議なものだ。戦いのさなかにいる時は、より死ぬ確率が高いというのに、それを気にしたことはなかった。なにが私をこのような腑抜けにしたのか……。
田横の頭の中には、いま二人の兄の姿がある。
田儋と田栄。ともに乱戦の中で戦死した彼らは、田横にとって自らの生き方の指標となる人物たちであった。
しかし皇帝に向かって「放っておいてくれ」とでもいうような返答をした自分の姿はとても情けなく、結果的に二人の兄の顔をも汚したような気分になる。
――今さらなんだ! どうせ……我らが支配した斉は滅んだ。私が彼らの真似をしたとしても、国は再興しない。ただの……死に損だ! 無駄死にだ!
そう自分に言い聞かせ、気の迷いをごまかそうとした。
島の端の断崖から海を眺め、思いを馳せる。
あのときの酈食其の言葉。
「指揮官は韓信だ! 彼に比べればお前らなど……犬に過ぎぬ!」
「犬は犬らしく振るまえ。腹を見せて、降参するのだ」
やはり自分は犬に過ぎなかった。怒りに任せて酈食其を殺したものの、迫り来る韓信に恐れをなして逃げ回ったあげく、皇帝相手に見逃してほしいなどと哀訴するとは……。
――武力も持たぬ弁士を殺し、自分より強い相手には腹を見せる……まぎれもなく私は犬だ。
長兄の田儋は、秦の章邯率いる当代最強の軍に雄々しく立ち向かった。
次兄の田栄は、項羽を相手にしても決して卑屈にならず、たびたび剣を交えた。それに比べて自分は……。
田横は幾日も思い悩んだが、この先どうすべきかと考えても答えは見つからなかった。そうしているうちにまるで催促するかのように漢の使者が再び彼のもとに現れたのである。
「衛尉酈商には、貴殿が現れても決して騒動を起こさぬよう言い渡した。関中まで来いとは言わぬ。雒陽まで来て、顔を見せよ。招きに応ずれば、再び王侯を称する身分に戻れる。しかし、応じなければ貴殿は滅ぼされよう」
その言葉を真に受けて王侯に戻れるとは思わなかった。それよりも自分が応じないことで、島の五百名の部下たちに危害が加えられることを恐れた。そのように感じてしまうあたり、田横は二人の兄と本質的に違ったのかもしれない。
結局彼は二人だけの食客を連れて海を渡り、大陸へ上陸した。