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第三章

 酈商は兄の食其とは違い、学問に興味をもつことはなかった。兄が世間からつまはじきされるような人物であったため、若い頃の彼はそのとばっちりを受けて苦労することも多かったようである。兄は「狂生」と呼ばれたのに対し、彼も「狂生の弟」と呼ばれ、ともに蔑まれた。

 まったく一族の中に変人がいるということは迷惑なことで、自然、酈商は兄を恨むようになった。まだ若かりし頃の酈商は、よく兄に詰め寄ったものである。

「今日も路地裏で殴られたぞ、兄上! 彼らが兄上の学問を理解できないからといってやみくもに罵倒したり、殴ったりすることはやめてください。私は、その仕返しを受けねばならないのです」

 酈商の切なる訴えはたびたび続いたが、食其の答えはいつも決まっていた。

「大いなる目的のためには、小さな屈辱や痛みには耐えねばならぬ」

 その答えを聞くたびに酈商は激怒した。

「耐えているのは兄上ではありません。私なのです! いったい兄上の言う、大いなる目的とは何なのですか!」

 酈食其はいつもその問いかけを黙殺したが、たった一度だけ、それに答えたことがある。


「善悪の峻別だ」


 しかし酈商にはその答えの意味がよくわからなかった。


――悪は兄上、あなただろう。

 酈商はそう思ったが、このときの酈食其の言葉は不思議と彼の中で重みを持った。そして以後は屈辱を受けても兄にそれを言いつけることをしなくなったという。


 そして酈商は劉邦の軍に参じて現在に至っている。学問を志した兄とは違い、彼は純粋な武官として数々の戦いを経験し、相応の地位を築いた。が、善悪の峻別という兄の言葉の意味は未だ解明できずにいる。


「私に言えることは、兄は兄らしく死んだ……本望だったろう、ということだけです」

 酈商は召し出された場でそう自分の考えを述べた。


「お前は、ことの仔細を知っていて、そう言っているのか?」

 劉邦は聞いた。あるいは自分に対する遠慮が彼にそう言わせたのではないか、と勘ぐっているのである。


「知っております。陛下が兄に使者としての任務を与えながら、楚王韓信に攻撃命令を出していたこと……楚王は兄が使者として臨淄に滞在していることを知って攻撃をためらったが、配下の弁士・蒯通の言を用い、結局攻撃したこと……一連の出来事はすべて聞き及んでおります」


「では、お前は兄の死に関して誰をも恨んでいない、そういうことか? そう捉えてよいのだな?」

 聞かれた酈商は、少し悩んだ表情を浮かべたが、やがて心の中のおぼろげな思いを押し出すように、言葉を継いだ。


「誰かを恨んだところで……兄が帰ってくるはずがありません。生前の兄は……学問を追究するあまり……とらえどころのない人物でした。弟の私が言うのですから、それは間違いありません。……兄は、死ぬ運命を承知で臨淄に向かった。そして望みどおり死んだ……兄の意思がどういうものか私には未だにわかりませんが、兄には兄の望む死に方があったのだと思います」

 劉邦はこれを聞き、あからさまに安堵したような顔をした。威厳がないようにも見えるが、これは少なからず酈食其の死に責任を感じていた彼の気持ちをよくあらわしていたと言える。


「では、わしの指令に間違いはなかった、と?」

「私に陛下の詔を評価する権限はありませぬ。また、たとえあったとしても……陛下のご判断に間違いはなかったと思います」

 酈商の態度はまったく不自然さがなく、それによって劉邦も蕭何も、この言葉を信じた。


 しかし彼らの質問はまだ続く。

 蕭何がその口火を切った。

「実際に君の兄を煮殺した斉の王室に対しては……とりわけ一族の最有力者であった田横についてはどう思う?」


 やや酈商の表情は固まった。そして額には汗が浮かぶ。

「田横……楚王韓信が討ち漏らした男、ですな!」


 酈商の眼光の鋭さが増したように、二人には見えた。落ち着いて兄の死を受け止めているように見えた彼にとって、唯一虚心でいられない相手が田横、ということになるのであろうか。


「田横を恨んでいるか? 憎いか?」

 蕭何の問いに酈商は目を閉じた。自ら眼光の鋭さを消し、それによって次第に心が落ち着いていく様が傍目にもわかるようであった。


 やがて彼は答えて言った。

「憎くないか、と言われれば憎い。ですが憎いかと問われれば、そうでもありません、とお答えしましょう。今、陛下が私に田横を討てと命令されれば、私は無心でその命令を実行します。しかし、命令が下されなければ……なにもしません」



 劉邦と蕭何はこれによって田横を懐柔しようと決めた。兄を殺され、誰よりも田横を恨んでいるはずの酈商が「討つことに乗り気でない」と言っているのである。情を優先させたような形ではあるが、必要以上に争いごとを起こす余裕は、政情が未だ不安定なこの時期の漢にはない。

 しかも酈商が「指令に間違いはなかった」と言っている以上、劉邦としては無理に田横を討つ理由がなくなった。胸のつかえがとれた劉邦は、海上の島にいるとされる田横に対して使者を送り、罪を許すと宣言した。そして一度上洛して顔を見せよ、と指令を出すに至る。


 しかしそれを聞いた田横の胸中は複雑なものだった。


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