表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
2/6

第二章

 田横が梁を去り、海上の島へ向かったという一報は、すぐに櫟陽の皇帝のもとへ届けられた。このあたり、古代だというのに漢の情報収集力はたいしたものである。

 しかし情報を得た劉邦は、その情報をもとにどう行動すべきか迷った。せっかく情報を得ながら、行動を起こせずにいたのである。

 ――消し去ってしまいたい。

 劉邦がそう思うのには、わけがあった。


 かつて斉を韓信に攻略させておきながら、酈食其を講和の使者として派遣したことは、彼の見通しの甘さを露見させた。劉邦はそれを恥じ、生き残った田横を滅ぼしたい、と思ったのである。田氏をすべて滅ぼし、最初から何もなかったことにしたかったのだった。


 このとき傍らに控えた相国の蕭何は努めて冷静に劉邦に進言した。

「田横の行動は、いわば消極的不服従というものでしょう。陛下の統治は受け入れがたいが、あえてそれに武力で対抗しようという意思はない……そう見えます。個人的に面識もなければ禍根もないのですから、そっとしておいてやるのが上策かと」

 蕭何らしい意見であった。しかしこのとき劉邦は珍しく蕭何に向かって怒気をあらわにしたという。

「禍根がないだと……そんなことはない! 酈生を殺された!」


 だが、蕭何は動じなかった。

「お怒りですな。しかしですな、陛下……田横としては、あの場合酈生を殺さずにはいられなかったでしょう。酈生の言葉を信じて行動したのに、ひょっこり韓信が現れ、国を奪われたのですから。したがって田横に行動の誤りはありませぬ。……陛下の方にそれがあります」

 劉邦はこの言葉を聞き、極めて不機嫌さをあらわしたような仏頂面をしてみせた。

「蕭何……お前、わしのせいだと言うのか。そうやって直言してくれるのはいいが、わしがいつもそれを喜ぶと思ってくれては困る」


「お許しを。しかし、言わねばなりません。あのとき酈生を失った悲しみは陛下だけのものではありませんでした。楚王韓信は当時、迷いながら斉に攻め込みましたが、自分の行為の結果に立ち直れないほどの衝撃を受けたといいます。彼の気持ちも考えてやるべきでしょう」

 劉邦はしかし、こんなことを言われても素直に反省する男ではない。

「だったら奴は徹底的に討てばよかったのだ。田横を討ち漏らすなど……奴らしくもない」

「仕方がありませぬ。田横は彭越のもとに逃げ込んだのですから。韓信としてはどうしようもなかったでしょう」

「なら彭越が悪い。どうして奴は匿ったりしてわしの意に反することをしたのだ」

「彭越は、あの時点では陛下の臣下ではありませんでした。彼は中立的な存在でしたので、田横を匿うことで漢に対抗できる勢力を培おうとしたのでしょう」

「韓信にも彭越にも罪はない、としたらやはりわしに罪があるということになるのか」

「陛下のお立場、そして決断にはそれほどの重みがあるのです。これを機に深く自覚なされた方がよいと存じます」


 ――自分の立場が軽いことをいいことに、よく言いおるわい。

 劉邦は内心でそう思ったが、若干それが態度に出たようだった。そばにいた蕭何の耳には彼の口から発せられた「けっ」という音が確かに聞こえたのである。


 しかし、蕭何はあえてそれを無視し、

「田横を討つおつもりですか」

 と聞いた。


「どうせ討つな、というのだろう。しかし、奴の背後には斉の賢者たちが控えているのだ。情報では今のところ五百名しかいないとのことだが、それらが核になってひとつの勢力になったとしたら、どうする? 島にこもったからといって座視しているわけにはいかん」

 これは確かに劉邦の言う通りであった。さらには田横の行動を黙認することで次々に同様の行動を起こす者が現れても困る。消極的不服従者が数多く現れ、それらがひとつにまとまったりしたら、それは立派な叛乱勢力になってしまうからだ。その時、消極者たちは積極者に転じるに違いない。

「ならば、懐柔したらいいでしょう。その島の王にでも封じたらいかがですか」

「王だと! ふざけたことを言うな。いや、わしは討ちたいのだ。酈生の仇を討ちたいのだ」

「またそれをおっしゃる……本心なのですか、それは? おそれながら陛下より酈生の仇を討ちたいと願っている人物を私は知っています。その者を呼んで、意見を聞いてみるがいいでしょう」


 このとき劉邦は、自分の思いで頭が一杯で、他者のことに思い至らなかったようである。蕭何の口から自分より田横を恨んでいる者がいると聞いても、それを想像することができなかったらしい。


「誰のことだ、それは? 韓信のことか」

「いえ、まあ彼もその一人かもしれませんが……違います。お忘れですか? 衛尉(近衛隊長)にあたる人物です」

「……ふむ。そうか……そうだったな。奴ならわしよりも田横を恨んでいるかもしれん」

 劉邦は得心した。


 その後、劉邦と蕭何は衛尉と会見するに至った。

 その場に現れた男の名は酈商といった。高陽の生まれで、陳勝が兵を挙げてから半年後に劉邦の配下になった男である。劉邦にとって極めて早い時期から付き合いのある男であった。


 彼は田横に煮殺された酈食其の弟であった。


評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ