第一章
一
「客人、何用だ」
そう言いながら玉座に座ったのは、老人であった。六十歳を過ぎたあたりだろうか。この当時では充分老人といえる年ごろであった。
どういうわけで自分がこんな老いぼれを頼るはめになったのかは、説明がつかない。ただ、敵に追われたところで近くにいたのがこいつだった、というだけなのか。それとも自分はこの男を味方に付けることで天下にもう一波乱起こそうと願っているのか。
どちらも答えは「否」だった。
確かに自分は捲土重来を期して、ここ定陶にたどり着いた。そのときは確かに戦うつもりでいた。
しかし、こいつは自分のそんな気持ちをくじいた。
韓信はまだしもその配下の灌嬰にまで負けたことが許せず、ひとり気炎を吐く自分に向かって、この老いぼれは言ったものだ。
「まあ、しばらくゆっくりなされよ」
と。
とんだ珍客が舞い込んだものだ、と思ったに違いない。しかし、この男は表面的にはそれを示さず、破格の待遇をしてくれた。静かな居宅、豪勢とはいえないまでも充分な食事、身の回りの世話をする女官……そのすべてを用意してくれ、さらに自分の引き連れてきた部下にも同様の待遇を示してくれた。
その結果、自分は骨抜きになってしまった。戦うのが嫌になり、静かな生活を求めるようになった。
それがこの男の狙いだったのだろう。この男は、やはり自分を厄介者として感じていたのだ。自分がいつまでも戦おうとしたら、韓信が黙っていない。自分を匿うことで韓信に攻め入られることを、こいつは恐れたのだ。
しかし、こいつはたいした奴だ。いまでこそこうして椅子などに座っているが、あの当時はゆっくり座っている姿など見たことがなかった。人には「ゆっくりなされよ」などと言いながら……。
この、彭越という男は王になった。逆に自分はなりそびれた。自分は確かに王家に通じる家柄に生まれたというのに。
この目の前の男は、ただの漁師に過ぎなかった。しかもそれだけでは食っていけず、追剥ぎなどをして生計を立てていた……そんな奴が!
「…………」
軽蔑の念が確かに自分の中にはあった。しかし、今になって思ってみると彭越に対する自分の感情は、「感謝」だけだ。
戦いを忘れさせてくれたことは、自分の人生を楽にした。そしてこの老人は自分が楽をしていることを尻目に、ひたすら戦い続けていたのであった。
「客人……」
「…………」
「聞こえているのか、田横どの!」
二
「少し、考えごとをしておりました……」
田横は彭越を前にしてややぼんやりとした口調で話し始めた。
「よからぬ考えではないだろうな」
「いえ……ところで折り入ってお話がございます」
彭越は少し迷惑そうな顔をした。
「あまり聞きたくはないが……言うがいい」
「は……申し上げにくいのですが、そろそろおいとましようと思います。長らく世話になりなんのお礼も出来ないのですが」
田横の表情は依然ぼんやりとしたままで、前の気炎に満ちたものはないように見えた。
「おいとま……出て行くと言うのか。いったいどこに行くあてがあると言うのか」
「東へ。ひたすら東へ……」
この言を聞いた彭越は、ふう、とため息をひとつもらし、
「東へ行くということは、斉に戻るつもりか。……やめておけ。天下は定まったのだ。君の宿敵の韓信はすでに斉にはいないが、曹参がまだいる。君が今さら斉に舞い戻ったとしても……手持ちの部下はどのくらいだ? せいぜい五百名がいいところだろう。そんな数では彼らに勝てはしない」
とさとすように言った。
「わかっています」
田横は少し微笑んだようだった。
――おや? こんな男だったかな?
あらためて彭越が田横を見ると、以前と比べて目尻が下がったように見えた。また、両の眉毛の角度もやや下がったようにも見える。
――表情が穏やかになったようだ。
「わかっているとは……ではどこに行くというのだ」
「東です」
「東はわかった。さっき聞いた」
「海にまで行こうと思っています。そしてどこかの島へ」
「島?」
「天下がすでにおさまったというのに、いつまでもお世話になるわけには参りません。それに私がここにいれば、梁王たるあなた様にいつか迷惑がかかることでしょう。漢の皇帝がいつ私のことを思い出すかと思うと……私を匿っていることは決してあなたのためにはなりますまい。出て行こうと思います」
彭越はそれを聞いてひとしきり考えた。この男は殊勝な態度を装っているが、実は漢によって統一された社会など見たくないだけではないか、と。考えられることではある。ほんの一瞬だけではあったが、この男は王を称した。それも気位が高い田一族の中枢にいた男である。人の下で小さく膝を折って暮らすことをよしとするはずがない。
「君らしくない殊勝な言葉だな。かつて酈食其を煮殺した男の言葉とは思えん」
彭越はあえて挑発するような言葉を選び、田横の反応を待った。
しかし、その言葉は本当に彼を傷つけたようだった。
「ああ……そのことはもう言ってくださるな! 忘れてしまいたいのです」
これには彭越の方がびっくりした。この男は本当に鋭気を失ったのかもしれない。
「触れてはいけないことだったか……いや、申し訳ない。しかし、君が戦いを忘れて静かな暮らしを望むのであれば、もう少し待たれるがよかろう。あと二、三年もすれば……わしの地位もしっかりしてくるような気がする。まあ、わしの中央に対する発言力がある程度高まれば、君の平穏を確約してやることは可能だろう」
その彭越の言葉はありがたかった。しかし迷惑でもある。田横は島に行きたかったのであった。戦いを忘れ、政治を忘れるには、誰もいないところの方が望ましい。誰かがいれば、自分は戦いを思い出すに違いない、と思っていたのであった。
「ありがたいお言葉ですが……どうか行かせていただきたい。私は戦いにも、隠れて過ごすことにも……疲れました。どこか誰も知らない土地で、自由気ままに過ごしたい、つまるところ私の言いたいことはそれだけなのです」
これを聞いた彭越は、意を決した。
「君がそこまで言うのであれば……。好きにするがいい。どこの島に行くかは知らないが、旅中に必要な食料はある程度持たせよう。しかし……それ以上の援助はできんぞ。それでもいいのか」
「はい」
彭越は不安を抱きながらも、田横の出立を許可した。しばらく我慢すれば平穏を約束する、という言葉に嘘はなかったが、厄介払いができたという気持ちは確かにあった。