忘却の刻
「五郎、止まるな。走るのだ」
硬い表情で、背を押してくる伊秀に従い、五郎は空ろな心のまま、ただ足を動かす。
二十ほどの武者が、追ってきていた。
舌打ちをして、伊秀が振り返り、彼らを阻む。母親を妹のゆきに任せ、二郎が五郎のもとに駆け寄った。子犬が五郎の腕からすり抜け、裏山の方へと走っていく。
「火をつけるとは。なんの罪もない民を、残さず殲滅させるつもりか! 伊秀一人の首だけでは、足りぬのか!」
一本道の、坂の上で伊秀が刀を構えた。
数十歩先で、兵が足を止める。
「御館様の命である! 即刻、武装を解き、投降されよ」
前に出た男に、伊秀は気迫を込めて、言葉を返す。
縄を打つとは言わなかった。捕らえられた直後に、首を打たれるだろう。
「火を消し、村から手を引くのであれば」
「反乱を起こす者どもが潜むとも限らぬ。全て焼き尽くし、殺し尽くす事が御館様のお考えであられる。命令は絶対である!」
「反乱を企む者などいない! しかしお主らが軍である限り、上に従うは必然。ならば、立ち合うしかあるまい」
「聞いたか! 伊秀は謀反を起こした! 切り捨てよ!」
隊の将を斬り伏せたところで、この惨劇は止まらないだろう。
滅ぼし尽くす事こそが、命令であるからだ。
――五郎が、振り向く。大きく頼もしい背中が、黒い影の塊を塞き止めている。
あるはずもない事に、五郎は息を呑んだ。
しかし、ゆっくりと影が伊秀を押し包んでいくのを見ているしかない。
二郎に引っ張られるように走りながら、先生と呟く。
手に、椿の花はない。連れられていた時に、彼の帯に挿しておいたのだ。
伊秀が気を発し、弓を警戒しながら刀を構えた。
雄叫びをあげ、鎧を着けた兵が押し寄せてくる。
いざ踏み出そうとすると、尋常ではない力で帯を引っ張られた。
伏兵がいたのか、と瞬時に脇差しを抜き、後ろに突き出す。なにかに触れた感覚はない。
視線をやれば、美しい着物を着た幼い少女が、左手で帯を引き、右手の人さし指を立てて、口にあてている。
どういう事かと前方に顔を向ければ、そこには黒い影に染まった兵士たちに押し包まれていく己の姿がある。
自らの戦いを、この眼で見る事が不思議でならなかった。
だが、しばらくは場をもたせられるだろう。振り返れば、少女が椿の枝を差し出していた。
受け取れば、返り血に染まった伊秀の袖を、小さく引っ張った。
「声を出さないで、こちらへ」
本当に幼き者であるのか疑いたくなるほど、少女の歩みは早かった。
全力で駆ける伊秀の、わずか先を行く。やはり人ではない者なのだ、そう思うしかなかった。
森に入り、五郎に追いつけば、彼は少女を見て目を丸くした。
知り合いだったのだろうか。そう思ったが、だいぶ山をのぼった時、手にしていた椿の一輪が、首が落ちるように、そのままの姿で地面に落ちた。
「急いでください。気づかれました」
白い肌が、今では青ざめて見えた。
五郎の背筋に、冷たいものが走る。
二郎に手を引かれたまま、坂の下へ視線を送れば、黒霧が広がり包まれた木々が立ち枯れし、朽ちていく。
「早く! 皆、もっと早く!」
悲鳴に近い声で、五郎は叫んだ。
二郎は、その尋常ではない声に視線を下にやったが、のぼってきた時と変わらぬ光景が広がっている。五郎が、なにに怯えているかわからずにいた。伊秀もさきほど見た、禍々しいほどの黒い物体を見る事は出来なかった。
だが、肌がひりつくほどのなにかが、近づいている事を感じていた。
五郎の叫びを、家族は疑わない。必死に先へと進むしかなかった。
やっと、祠が見えた。苔むした小さな祠は、焦りとは無縁のように、静かに佇んでいた。
その前に子犬が立ち、甲高い声で鳴いている。
「五郎、どうするんだ。祠になにがあるんだ」
息を切らせて、二郎が上ずった声を出す。
五郎が伊秀と少女を振り返ったが、二人とも困惑した顔を見せただけだ。
「そうだ、犬!」
叫んで、子犬の背を見たが、小さな翁はそこにいない。
どうして。と、声を絞り出し唇を噛む。
風を切る音が、立て続けに聞こえてくる。
「祠の後ろへ!」
周りの木々に、無数の矢が突き立っていた。
とっさに、ゆきをかばった母親の背にも、二本の矢が突き立っている。崩れ落ちる母親にすがり、悲鳴をあげたゆきを、二郎が引き剥がした。五郎がゆきの手を取り、二郎は母親を担ぎ上げ、祠の後ろに引っ張っていく。
横向きに寝かせた母親に、五郎が涙を隠そうともせず、顔を近づけた。
「母ちゃん、ごめん。おれが……おれが、こんなだから……」
もはや生きている事が信じられないほど、母親は血の気を失っていた。
だが、震える手で、五郎の顔をなでた。荒れた指先が触れ、五郎は現実なのだと思い知らされる。
「……皆、五郎が大切だから。忘れない、で……」
手が、力尽きて地面に落ちる。
二郎もゆきも、声を出さずに泣いていた。
もう、誰も失いたくはなかった。五郎は祠を叩く。なにか、出てくればいい。
呼んだのは、祠のなにかである事は間違いないのだ。
伊秀は、太い一本の木に背を預け、すすり泣く声を聞いていた。
持っていた椿の枝には、一輪の花が残っている。
これを、あの母親が持ってさえいれば。ひょっとしたら――だが、それすらも今更であった。
彼の元で大きな瞳を向けてくる少女に、伊秀は枝を手渡した。
「援護する。君は五郎のそばにいてやると良い」
「わたしは、五郎から頼まれました。先生を、助けてと」
「私は、すでに助けられた。だから、今度は私から頼んでも構わぬか?」
「……わかりました」
矢の雨がやむのを待ち、木に突き刺さった角度を見て、伊秀はおよその位置を測る。
「走れ!」
少女が枝を抱え、飛び出す。その盾になるように身体を配し、続けざまに襲い来る矢を叩き落した。
「先生!」
少女を祠の裏に引っ張り、五郎が叫べば、伊秀はまた木の陰に身を隠す。
脇腹に、矢を一本受けていた。臓腑は傷ついていないようだった。
しかし、動くには邪魔になる位置でもある。伊秀は冷静に、鏃を斬り落とし、引き抜いた。袖を破り、きつく締めるように腹に巻く。
心配そうにのぞいてくる五郎たちに、口の端を持ち上げ、笑って見せた。
「どうやって、逃がせば良いのか」
物の怪に、騙されたのか。なぜ信用してしまったのか。そんな事を考えている状況でも、すでにない。
逃がす人数が、多過ぎるのだ。
考えあぐねている伊秀を、祠の陰から五郎が見ていると、祠の下から辛子色の羽織を着た翁が這い出てくる。
「五郎よ」
「なにしてたんだよ! 祠に来てやったろ、なんとかしてくれよ!」
「頼みがあるのじゃ」
黒霧が、先に迫ってきていた。
そんな悠長なと怒鳴りたい気持ちを抑えて、先をうながす。
「早く言えよ」
「五郎、おまえの力を主様にくれぬか。一生を共にすると、誓え」
「……いやだ」
「このままでは、全滅じゃぞ。万が一にも逃れられたとしても、また同じ事が起きよう。これは、五郎の運命じゃ。死ぬまで逃れる事は出来ん。これ以上、大事な人間をおまえのせいで失いたくはあるまい」
「やっぱり、おれのせいなんだ」
「それ以外に、なにがある? 祠から主様を解放するのじゃ。戸のない祠を壊せるのは、おまえの先生しかおらぬ。この祠に供えをし、心から誰かを救おうと考える者にしか出来ぬのじゃ」
「騙してないと、なぜ言える? おまえが出てこなかったから、先生は傷を負ったんだぞ」
「死に至る傷ではない。五郎が決断するだけで、黒霧を消し去り、全てを解放させる事が出来るのじゃ。大きく見れば、おまえの先生も救う事になる。もうこんな惨劇は起きぬのじゃぞ?」
見えない何者かとやりあっている五郎を見て、二郎が腕を引っ張った。
そのまま、どこかに消えてしまいそうだったのだ。
「二郎兄ちゃん?」
「あ、いや。どうした、なにかあったのか?」
「……うん。おれ、なんとか出来るかもしれない」
「先生が、どうにもならない相手なのにか?」
「うん。二郎兄ちゃん、ごめん。一郎兄ちゃんたちにも、謝っておいて欲しいんだ」
二郎は、つかんだ手に力を込める。
おかしな弟だったが、嫌いではなかった。こうしてつかんでいても、煙のように消えていく気がした。
動かなくなった母親を見て、五郎はまた大粒の涙をこぼした。
「おれ、行かなきゃいけないんだ」
「じゃあ、おれがついて行ってやる」
「二郎兄ちゃんは、無理なんだ。おれの、なすべき事だから」
「四郎みたいに、なるんじゃないだろうな」
五郎が生まれた時には、すでに四郎はいなかった。生まれてすぐ、息を引き取ったのだという。
五郎は、首を横に振った。だが、確信はなかった。
「五郎。私たちじゃ、代わってあげられないの?」
「うん、だめみたいなんだ。ありがとう、ゆき姉」
ゆきも、二郎も泣いていた。少女だけが、その光景を大きな瞳に焼き付けていた。
「……いつまでも、一緒にいたかったな」
五郎がそれだけ呟くと、二郎が弟をきつく抱きしめた。
行きたくないよ。そう二郎にだけ聞こえる声でささやいて、彼から離れる。
少女が、椿の枝を両手で捧げるように、五郎に差し出す。
それを受け取って、五郎は泣きながら笑った。
「名前は、どうでもいいや。おれは、君が好きだった」
「名前は、椿。わたしも、あなたを助けたいほどに」
「……ありがとう」
そう言えば、椿は艶やかに笑った。
五郎は着物の袖で顔を拭い、帯に枝を差し込んだ。
祠を、叩く。
「くれてやる。おれが欲しければ、くれてやるから!」
「やめよ!」
突然立ち上がり、声をあげた五郎に、総毛立つほどの不吉な予感に伊秀が一喝する。
恐ろしいほど、近くで遠吠えが聞こえた。
こんな時に、野犬か狼も相手にしなければならないのか。と伊秀が奥歯を噛みしめる。
「だから! 皆を助けてくれよ!」
黒霧に声をかけているわけではなかった。
祠が雷でも落ちたかのように光り輝き、その白い光は外に出ようとでもするように輝きを増していく。。
「先生、祠を斬ってください! お願いします!」
伊秀は、それでどうなるのか、わからなかった。立て続けに、わからない事が起こっているのだ。
全身を押し潰してくるような重苦しい空気が、光を浴びて薄れていく。
いつの間にか、矢の雨も止んでいた。
祠を壊し、より状況が悪くなるとは思えなかった。それだけその光は、雨上がりの晴れ間のように、心休まるものに感じた。
伊秀は息を整え、大きく踏み出し、刀を一閃した。
格子に組まれた骨組みが、下から、斜め上に向かって直線的に斬り離される。
――光が、満ち溢れた。
邪悪なものすべてが洗い流されるように、光の奔流が溢れ、視界が白一色に染まる。
強烈な光の渦の中で、伊秀は獣の唸り声を間近で聞いた。伊秀は刀を握る手に力を込め、眼を凝らす。
目映い光に眼を痛めながら、それでも警戒は解かなかった。
周囲の物すら見えないほどの輝きの中で、伊秀は見た事もないほどの大きな白い獣が五郎をくわえ、黒霧を蹴散らし、光の中に消えていくのを――確かに見た。
いつの間に意識を失っていたのか、伊秀が目を覚ませば、祠の後ろで倒れている二郎とゆきが目に入った。動かない彼らを見て、右手を握りしめた。
それで気がつく。刀は握りしめたままだった。敵の姿は見えない。身体を起こし、脇腹に手をやるが矢傷は塞がっていた。
着物には穴があいており、袖も千切れている事から、夢ではない事は確かである。
「助けられなかったのか」
苦い気持ちで、奥歯を噛みしめた。
だが、二郎たちが身じろいだ事で、二人とも生きている事を知る。
なぜ殺しもせず、退却したのかはわからない。記憶が曖昧になっていた。
無残にも破壊された祠に寄りかかり、枝葉の間から少しのぞく夕闇が迫る空を振り仰ぐ。
『二人』を、助けられた。当初の目的は、達成出来たのだ。
伊秀は、安堵し立ち上がる。
いち早く起き上がっていた子犬が、ゆきの細く長い指に咬みついて、悲鳴をあげさせていた。
「無事であったか」
その様子に気持ちを軽くし、笑いながら二人に手を差し伸べた。
恐縮しながらも、二人は伊秀の手をつかむ。
身体に力が入らないようで、足元がふらついてはいたが、二人はなんとか立ち上がった。
伊秀が、彼らの母親に近づき、鏃を落としてから、矢を引き抜いた。
「ありがとうございます、先生。母はここに埋めていこうと思うのですが」
「いいのか?」
「はい。おれたちは森に生かされてます。だから、父ちゃんも近くに埋めようと思います」
「そうか」
壊れた祠の板や柱を、土を掘るのに使おうというのか、ゆきも二郎も手慣れたように作業をはじめた。
伊秀も手伝おうと祠に近づけば、足元にあった鮮やかな緋色が目に入る。
椿の花が一輪、落ちていた。周辺に、椿の木もなければ、枝すらも見当たらない。
しかし、それを見た伊秀は、酷く心を揺さぶられていた。
大切ななにかを、忘れている。
頭の中が混乱し、思い出そうとすれば、引きつるような痛みさえある。だが絶望という心持ちではなく、浮かんでくるのは切なさと――なぜか、希望だった。
落ちている椿の花に、手を伸ばせば、気がついたゆきが声をかけてくる。
「先生、どうかしたんですか?」
拾い上げた鮮やかな花は、手の中で泣いているようにも見えた。
「もう一人、ここにいなかっただろうか」
そんな事が、あるはずはない。それはわかっているのに、聞かずにはいられなかった。
しかし、ゆきは首をかしげ、不思議そうな顔をしている。
二郎は、一瞬動きを止めただけだ。すぐに作業をはじめている。
「いいえ、私たちだけでしたけど」
「……そう、だな。おかしな事を」
伊秀は、椿の花を土のかからない脇に置いた。
時間をかけて穴を掘り、埋める。
星がまたたく時間になってしまったが、麓におりても、大変な事態が待っているのだろう。
伊秀は、椿の花を盛り上がった土の上に置き、二人とともに手を合わせた。
風が、森の木々を揺らす。波のような音が、山全体に広がった。
目を開けた伊秀に、椿の花はなにかを語りたそうに、風に煽られ土の上でくるりと回った。
だが、それだけだ。
伊秀は、背を向けた。風が切なく悲痛な声をあげながら、三人の髪や着物を揺らす。
大切ななにかを、忘れてしまった。
その事だけは忘れまい。
伊秀は一歩、暗闇に包まれた山道へと踏み出した。
読んでくださって、ありがとうございました!
そして、和風小説企画を主催してくださった、伊那さまに感謝です。
企画参加がなかったら、和物はなかなか書かなかったかもしれません。
和風っぽいものになっていると感じていただけたら、嬉しいです。
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