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黒霧

どれくらいの間そうしていたのか、囲炉裏の火がはぜる音がして、五郎は顔を上げた。

 伊秀が立ち上がり、ふすまを開け、短い木刀を出してくる。

「むやみに振り回さぬと誓うなら、持ち方と振り方は教えよう」

「やった! ありがとうございます」

「良いか。振るうのは、私の前か、周りに誰もいない時だけだ」

「わかりました。約束します」

 嬉々として目を輝かせた五郎を見て、伊秀は笑った。

 弟か息子がいたら、こんな感じだったのだろうか。そう思うほど、五郎を気に入っていた。

 手渡せば、五郎は飛び上がって喜んだ。

「しかし、教えるのは次に来た時だ。今日は書をやると決めていたから、それは横に置いておきなさい」

「はいっ!」

 筆を滑らせはじめた後も、手の届く所に木刀を置いてある五郎。

 郎の字が大きくなってしまったが、五郎は満足そうだった。

 伊秀の手が、筆を握る五郎の小さな手を包み、力強い筆使いで紙に『五郎』と書く。

「字も、釣合いが大切になる。前後の字の大きさを考え、書くと良い」

「字を書くのも、考えないといけないんだ」

「なにごとにおいても、考える事をおろそかにしてはいけない」

 小さな声で、はい。と返した五郎は、唇をとがらせて筆に墨をふくませた。

 まだ十にも満たない子供なのだ。伊秀は、ほほえましく彼を見つめ、立ち上がる。

 土間に顔を出せば、カゴやザル、積んでおいた薪が散乱していた。

 子犬を探したが、姿はない。もしやとひっくり返ったカゴを持ち上げれば、子犬は丸くなって寝息をたてている。

「おまえは、気楽だな」

 薪を積みなおし、子犬が届かない場所にカゴやザルを置く。

「……聞け、人の子よ」

 聞き覚えのない声に、伊秀は瞬時に気を張りつめた。

 火掻き棒に手を伸ばし振り返れば、犬がきっちりと座り、伊秀を見つめている。

「人の子よ。儂の声が、聞こえたな?」

 立ち去った三人組が、自分を担ごうとしているのではないか。と、伊秀はまず疑った。

 しかし、声は犬のいる辺りから聞こえてきている。

 周囲に気を配りながら、五郎に聞こえないように声をかけた。

「誰だ」

「そんな事は、どうでもいい。おまえ様に頼みがあるのじゃ」

「名も名乗らぬのか」

「どうでもいい事じゃ。この村に、戦禍が及ぼうとしておる。五郎の家の裏山に、祠がある。そこに五郎を連れてきてはくれまいか」

「……五郎、を?」

「そうじゃ。猶予は、あとわずかしかない」

「どうして、五郎なのだ」

「あれは特別じゃ。儂らの姿を見て、声を聞く。あれから出る、気のようなものは、儂らに力を与える。しかし悪いモノからも狙われ、喰われる事からずっと守ってきた」

 あれは、知らんがの。と、きょとんとした顔のまま、子犬に憑いた何者かが笑う。

 伊秀にも、この村に来てから、五郎と村人の間にある違和感は感じていた。

 それがなぜだか、村人たちも言葉を濁す為、わかるはずもなかったが、ずれていた考えがしっかりと心にはまり込んだ気がした。

「ならば、そのままおまえたちが守れば良いではないか」

「相手が人間じゃからの。ちょっとしたいたずらならば、問題はないが。儂らが直接手を下せば、闇に囚われる。そうなれば、五郎を襲う側に立つ事になるのじゃよ」

「村民は、どうなるのだ」

「運が良ければ、生き延びよう。儂にとって、他の人間など……」

「どうでもいい。そう言うのか」

「祀り、崇める事を忘れた人間など、どうでもいい。そう思わんか?」

「思わぬ。神や仏がいるならば、慈悲はあろう」

「逃がしたくば、そうするがいい。五郎を連れた状態で、誰しもが言う事を聞くか。いささか問題はあるがのう」

「人間など、どうでもいいと言うのなら。なぜ私に頼むのだ。何者かは知らんが、五郎に直接言えばいいではないか」

 壁越しにも、人の気配はない。しかし、嫌な予感がした。

 予感でしかないものだが、戦の時にしばしば感じていた感覚に似ていた。

 多少、混乱する頭を静めながら。伊秀は、話をする事で冷静さを保っていた。

 猶予はわずかだと言った声は、それでも焦る様子はなく、のんびりとしている。

「おまえ様に頼むのは、まとっている気が澄んでいるからじゃ。それに、祠の主様にも、おまえ様を連れて来るよう頼まれておる。一度訪れた事があろう? 気に入られたのじゃな」

「……断ったら?」

「皆殺しじゃ」

 その言葉を聞いた瞬間、伊秀は子犬に向かって、火掻き棒を振り下ろした。

 子犬は微動だにしない。際どい所で止めていた。

「貴様らの仕業でか」

「違う。人間どもが山を越えてくる。戦にかこつけて、敗残兵がやったと思わせるようにな」

「……まさか」

「上に立つ者の疑心は、際限ないのう。もう、おまえ様が死ねば済む。という簡単な話では、すでにないのじゃ。五郎を救え」

 火掻き棒を下げ、眉間に深いしわが刻まれる。

 子犬が立ち上がり、背を向けた。

「さて。急げ、人の子よ。もうそこまで来ているぞ」

 なにが、とは聞かなかった。伊秀は、すぐさま五郎を呼び、草鞋わらじを履くよううながす。

 次に使う時は、自らの腹を切る時だろう。と思っていた刀を手に取った。

 訪れた三人の男たちが、生きてはいないだろう事を、一番に思う。

 謀反を起こしたわけではなかった。兄である御館様に、楯突いた事すらない。しかし、臣下の戯言を吹き込まれ続け、兄は自分を遠ざけた。

 目をかけてくれていた。だからこそ、裏切りという言葉は、酷く兄を歪めたのだろう。

 彼らが伊秀を頼って来た事で、疑心が確信に変わってしまったのだろう。

「今更か」

 打刀と脇差しを、帯にさす。

 物々しい気配に、子犬を抱えた五郎が怯えた目を向けた。

「先生?」

「五郎、木刀は置いていけ。武器を手にしているだけで、狙われかねぬ」

「え……はい、わかりました」

 五郎は、水瓶の隣に渋々立てかける。

「良いか、なにがあっても私から離れるな」

「はい」

 小さな彼は、多くを聞く事はなく、気丈にもうなずく。

 五郎の手には、いつ手折ってきたのか、大きな花を二つつけた椿の枝を持っていた。

 伊秀の後に続き、一歩外に踏み出せば、五郎は身体を震わせて山の方を見た。

 それに気付いたが、伊秀は足早に夕焼けに染まる道をただ進む。五郎が小走りでついて来るのを確認しながら、道沿いの家屋に声をかける。

「逃げよ! 敗残兵が来る、山の祠まで逃げるのだ!」

 五郎の目には禍々しいほど黒い影に染まっていく山の姿が、驚いて飛び出てくる村人たちには見えていない。

 伊秀が指をさした山には、誰もいないように見える。

 追いついてきた五郎を見て、顔を歪め、村人はぴしゃりと音を立てて戸を閉めた。

「せ、先生! 敗残兵って?」

「全ては、私のせいなのだ」

 なぜ。とは聞かなかった。五郎はただ、まっすぐに伊秀を見つめ、首を横に振った。

「あれは、先生のせいじゃないです。おれ、先に祠に行ってます。だから、先生は村の皆をお願いします」

「しかし……」

 五郎を守れと言われた事を説明しようとして、言葉を詰まらせる。

 だが、わかっているとでも言うように、五郎は哀しそうに笑った。

 子犬が、五郎のあごをなめている。

「先生は、あいつからなにか聞いたんですね。大丈夫です、おれには変なのがついてますから。それに、おれがいたら皆は先生の言う事も信じてくれなくなる」

「駄目だ。私は、五郎を守り連れて行く事を約束したのだ」

 しかし、五郎は首を振る。

「ありがとう、先生。変なのの言う事、信じてくれて。それなのに、おれをまだ普通に扱ってくれる」

 風を切る鋭い音が、頭上を越えていった。

 火のついた矢が、茅葺きの屋根に刺さり、あっという間に燃え広がっていく。

「敵襲っ! 皆の者、祠に逃げよ!」

 伊秀が叫びながら、五郎の腕をつかみ走る。

 火のついた者は地面に転がらせ、肩から背中にかけて燃え移った火を叩き消した。

 百ほどの甲冑を身につけた男たちが、雄叫びを上げ山から姿を現す。

 混乱の極みとなった村に、容赦なく襲いかかった。

 伊秀は左方からぶつかってくる敵を、刀を抜きざま斬り捨てる。

 五郎の目には、伊秀の太刀筋が見えなかった。気がつけば、三人が道に倒れ、包んでいた黒い影が霧散していく。

「走れ!」

 その声に、五郎は迷わず全力で走り出した。

 囲まれないよう、伊秀が近づく者を斬り伏せながら駆ける。

 五郎の家が、みるみるうちに近づき、騒ぎに気付いた両親と兄姉たちが外に出てきていた。

「父ちゃん! 皆、逃げて!」


 何本もの火矢が、二人を狙って射かけられる。

 数本の矢は、振り向きざまに伊秀が叩き落していたが、残った数本は家へと向かう。


 五郎は目を見開いた。

 父親の胸に矢が突き立っていた。燃えながら倒れていく父親に、母親や姉の悲鳴が胸を締めつけた。

 家にも火がつき、燃え広がる。

 母親が放心したように座り込んでしまったのを、二郎が涙を拭う事をせずに、引き起こそうとしていた。

 生きてさえいれば、なんとかなる。二郎の悲痛な呼びかけが続いていた。



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