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先生

 五郎の家から正反対にある村外れ、鮮やかな椿を咲かせる一軒家に足を向けていた。

 先生と呼び、文字を教えてもらっている、いつの間にか住み着いていた若い男の家だ。

 庵には、彼一人で住んでいるようで、まるで隠遁者だった。

 しかし、暗い所がなく気さくで、外れ者にされている五郎にも、隔てなく接してくれている。

 門などはなく、綺麗に刈りそろえられた生垣の切れ間から、五郎はそっと中をうかがった。

 美しい紅色の着物を身につけた可愛らしい少女が、鈴の鳴るような声で歌い、それに合わせて鮮やかな黄色の毬をついている。

 ふと、歌がやみ、小気味良く地面を叩く音も消えた。

「誰か、いるの?」

 澄んだ声が聞こえ、五郎は首をすくめた。

「ほう、五郎の想い人かの」

「うううるさいっ! 静かにしてろよ」

「ほうほう、見目麗しい女子じゃ。五郎より三つ年下というところかの」

 黙らせようと手を伸ばすが、翁は身軽に跳ね逃げる。

 頭の上で騒がれたからか、子犬は大きく身じろいで五郎の腕からすり抜けた。敷地へと走り去る子犬を追うように目を向ければ、生垣からおかっぱ頭がのぞいている。

 情けない悲鳴を上げて、五郎は尻餅をつけば、少女は目を丸くしてから、口元を押さえて笑った。

「大丈夫?」

「こ、これくらい、平気だ」

「そう?」

 白く小さな手が五郎の前に差し出されたが、頼る事も出来ずに慌てて立ち上がる。

「あの子犬、あなたの?」

「そ、そう。あ、いや野良犬。さっき見つけたんだ」

「そう」

 ここ五日ほど、彼女を見かけてはいたが、声をかけられずにいた。少しのきっかけで話せるようになるのかと、五郎は子犬に心から感謝した。

「おれ、文字が書けないし読めなくて。でも、寺子屋で学問出来るお金もないし。ここの先生が、本を読みに来ていいって言ってくれて。それで、その先生に文字を教わってるんだ」

 言わなくてもいいことを、言ってしまった気もするが、五郎はなんとか話を続けようと必死だった。

「そうなの。文字を教わるって、楽しい?」

「すごく難しいけど、知らない事を知る事が出来るって、すごい事なんだと思うよ。おれは楽しいけど、父ちゃんは農作業には必要ないって言うんだ」

「そう、でも楽しいのね。わたしも……あ、そろそろ行かなくちゃ」

「もう帰るの?」

「うん。いろいろ聞かせてくれて、ありがとう」

 黄色の毬を両手で抱え、ほほえんだ少女は生垣の向こうに消える。

 名前を聞くのを忘れた事に気づき、五郎が慌てて後を追った。

「ねえ! 名前……」

 生垣に囲まれた一軒家。さっきの今であるのに、少女の姿はなかった。隠れる場所は縁側の下くらいしかなさそうだというのに。

 まさかという気持ちが、脳裏によぎる。一軒家の引き戸が開いた。

「なんのお構いも出来ず、申し訳ない」

 背の高く若い男が、有無を言わさぬ笑顔で、侍姿の男たちを、庵のような家から追い出した。

 しかし、難しい顔をした一人が彼に向き直る。

「……本当に、御館様の助けとなってはくれませぬか」

「何度言われても、辞退するほかありません」

「この村に戦禍が及ぶとも限らないのですぞ」

「そうなったら、逃げるしかありませんな」

「御館様を、裏切るおつもりか!」

 三者三様、なんとか食らいつこうと粘っているが、家人は軽やかに笑った。

「裏切るとは、面白い事を。私がどうして御館様の下から離れる事になったか、お忘れか?」

「そ、それは……」

「私が戻るなど、それこそ御館様は許されまい。独断で来られたそうだが。あなた方は、ここには来られなかった。お早く戻られよ」

 三人の男たちの背後に、黒い影のような揺らめくなにかを五郎は見た。

 時折、あぜ道などで手招きしているようにも見える黒い影を見かけるが、それよりもはるかに邪悪に感じ、五郎は垣根に身を隠す。

 先生が、斬り殺される。

 そう思ったが、五郎に助ける術はない。

 親兄弟に知らせようにも、距離が離れ過ぎている。村の人間は話も聞かず、五郎を煙たがるだけだろう。ただ、震えるしか出来ない。

 緊迫した空気は、家人のなんでもないとでも言うような言葉で破かれた。

「斬捨てたくば、そうなされば良い。生き恥を晒す。御館様が私を生かす理由は、ただそれだけだ」

「私が、伊秀いしゅう殿を斬るなどと。本当にそう思われるのか」

「もとより腹を切るべき人間なのだ」

「……失礼する」

 一人が背を向ければ、二人も苦しそうな表情を見せつつ、伊秀と呼ばれた男に頭を下げ、足早に去っていく。

 彼らの背中を眺め、伊秀は目を閉じた。

 はじめに浮かんだのは、自分が幼い頃見た屈託のない兄の笑顔。

 どうしてこんな事になってしまったのか、考えても詮無き事ではあるが、頭によぎるのは見た事もない澱んだ眼で、伊秀を見下すその姿だった――


 ――伊秀がまだ十にも満たない年の頃である。

 たっぷりと墨を含ませた筆をにぎり、紙に向かっていれば、足音荒く兄が踏み込んできた。いつもの事に別段驚く事もせず、腕を無理矢理引っ張られる前に、筆を置いていた。

 なりませぬ。と言う書の師匠の言葉も聞かず、兄はよく自分を連れ出してくれたものだ。

 八つも年が離れれば、酷い喧嘩に発展する事もなく、体の良い遊び相手として引き回される。

 棒を持たされては、剣術を叩き込まれた。泣き言を発すれば、なお打たれた。

 将軍の息子として、生きなければならぬのに、そんな事でどうする。と、厳しい顔をして見せながら、傷の手当をしてくれもした。

 年がゆけば父の側近どもからの重圧も大きくなる。おまえも例外ではないのだ。と口にし、手当ての仕方くらい覚えろと、傷口を叩いて快活に笑った。

 戯言を言い合ったり、釜から手づかみで飯を食った事もある。

 そんな兄は父の側近たちにも、臆せず間違っていると口を出し、反発する事もしばしばで。それであっても、他方からの意見に耳を傾ける度量もあり、慕われていた。


 その兄が、豹変した。

 半月ほど前から、伊秀を疎み遠ざけていたのは知っている。

 父が隠居し、兄が城主となってからでも、鷹狩りや遠乗りに同行させてくれていたが、その頃はまだ平常であったと思う。

 伊秀にも部下がいたが、一人が他から聞いた話によれば、新しくついた傍仕えが伊秀の事を不穏分子ではないかと吹き込んでいるようだった。問題はない、と思っていたし、部下にもそう言った。

 食い下がる部下に、あの兄が狂言に惑わされるわけがなかろうと笑った。

 しかし、事態は思いがけないほうに転がっていく。

 自室の前の庭で、刀を振っている時だった。

 武装した男たちが踏み入り、取り押さえられたのだ。何事かと問えば、秀介しゅうすけ殿の命である。と告げられた。

 それでも、理不尽を嫌う兄に潔白を示せば、必ず解放されるだろう。そう信じていた。

 大人しく従ったため、縄をかけられる事はなかった。

 裁きを受けるのかと思っていたが、連行されたのは、兄の自室である。

 彼の前で身形みなりを正し、まっすぐ見つめる。

 他の側近がいる前では、出来ぬ事だった。兄と自分だけの時に、礼はいらぬ。と言われていた。

 目の前にいる秀介は、一目見て異変を感じるほど、眼が落ち窪んでいた。顔色は悪く、少し線も細くなっている。

 どうしたのか、と眼だけで問うたが、異様に光る鋭い眼には怒りしか浮かんでいない。

「おまえを謀反むほんの罪で、民に落とす事に決まった」

 彼の口から発せられた言葉は、伊秀の耳を疑うほどだった。

 だが、いつものおふざけとは違うのだろう。それほどに秀介の声は硬く、悔恨の情をもにじませていた。

「何故だ、伊秀。おまえには特別目をかけていた。それが、何故に俺を裏切った」

「私は、兄上を尊敬し支える事にこそ、喜びを覚えております。反乱など、あろうはずがございませぬ」

「証拠は、あがっておるのだ。伊秀、これ以上、俺を怒らせるな」

「あるはずがない、としか申せませぬ。私は潔白です。兄上は、ずっと私という人間を見てこられた。それを疑うと申されますか」

 静かに、しかしまっすぐ秀介を見つめた。

 彼も眼を逸らす事はない。ただ、悔恨の情を浮かべていた顔は、嫌悪に歪んでいった。

「本来ならば、腹を斬れと言うべき所だ」

「兄上が、斬れと申されるのであれば」

 そこで、伊秀は頭を下げた。兄が本当に謀反だと思うなら、たとえ伊秀であれ、この場で斬られていてもおかしくはないはずだった。

 秀介は目を逸らす。斬れ、という言葉を飲み込んだ。秀介の態度は、まさしくそれであった――


 ――笑われるべきは、自分の方であったのか。

 伊秀は、ゆっくりと目を開けた。

 眼前に三人の姿はなかったが、誰かがぶつかったように、垣根が音をたて揺れた。

 のぞけば、五郎が半分垣根に埋まっている。伊秀はおもわず顔を綻ばせた。

「五郎だったか。外で声がしたから、だれかと思えば。今日は書でもしようかと思っていたのだが、君もするかい?」

「あ、あの……」

「さきほどの連中なら、気にする事はない。前に、過去は捨ててきたと言ったろう?」

「先生は、ここにいてくれるんですか?」

 よっぽど硬い表情をしていたのか、伊秀は苦笑しながらもうなずいた。

「私は、死ぬまでここにいるしかないのだよ」

「それは……おれも一緒だろうけど」

 冷たい風が二人を包み、薄着の五郎は大きく身震いをした。

 さわりと優しい音をたて、大きな椿が揺れている。

 少女の事を思い出し、五郎は伊秀を見上げた。

 なにを言えばいいのか、考える。敷地で遊んでいたのだから、知り合いなのかもしれない。

 しかし、まだ二十を少し過ぎたばかりの年齢で、ほぼ隠居のような生活をしている先生にまで、化け物と言われたくなかった。表には出していないが、兄のように慕ってもいた。

 見つめたまま、動かなくなった五郎の小さな瞳を、伊秀がのぞきこむ。

「どうした?」

「あ、いえ。なんでもないです。お邪魔してもいいんですか?」

「もちろんだ。入りなさい、囲炉裏で手足を温めるといい」

「そういえば、犬が……」

 五郎が見回すと、細綱をくわえた子犬は先生にじゃれついてから、五郎の足元に駆けてきた。

 それを見て、背の高い彼は、楽しそうに笑う。

「へえ、なつっこいな」

「でも、おれの家じゃ飼えなくて」

「私が……いや、飼えないな。誰か飼える者を探してみよう」

「探してくれるんですか?」

「二人で探すのだ」

 伊秀が子犬を抱き上げ、細縄を口からはずしてやるが、首元で引っかかっているようだった。背中側を見たが、縄の端は短毛に埋もれていて、判断がつかない。

 眉間にしわを寄せ、引っ張っている間に、子犬は細縄をくわえ直して得意げな顔をしていた。

 さりげなく、五郎は伊秀から子犬を受け取る。

「……でも、おれは村の人たちと話せないから」

「いじめか」

「でも、理由はおれの側にあって。時間をかけるしかなくて」

 からかいの言葉をかけてきても、五郎に直接手出しをしてくる者はいない。

 ただ嫌われているわけではない。恐れられてもいるのだ。

 曖昧に笑って見せた五郎に、伊秀はなにも言わず、小さな頭をなでてやった。

 骨ばった背を押し、土間に子犬をおろさせて、足を洗う水を用意する。

 手拭いを渡してやって、火の入った囲炉裏のそばに五郎を座らせた。

 胡坐あぐらをかき、伊秀が緩やかな雰囲気で座っているにもかかわらず、室内の空気は凛と張り詰めたものがある。

 いつもうるさい小さな者たちの姿や、声すらも聞こえてはこない。五郎にとって静寂は、この場所にしかない。

 しばらく足を温めていた五郎が居住まいを正し、正面に座った伊秀を、まっすぐ見た。

「先生、おれ強くなりたい。一人でも、生きていけるくらい」

「そうか。ならば多くの人に会い、多くの書を読み、多くを学ぶしかない」

「そうじゃなくて。先生が刀を持っている事は知っています。おれに、剣術を教えてくれませんか」

「農家の息子が、なにを言っている」

「自分で身を守れるのなら、農家だろうと関係ないじゃないですか」

「傷つけるだけの力など、本当の強さではない」

「それでも、大事な誰かは、守れる」

「誰のために、誰を殺す」

 伊秀の鋭い眼差しに、五郎は言葉を詰まらせた。

 握りしめた小さな拳を見て、伊秀は言葉を和らげて、強張った細い肩に手を乗せる。

「大切な者を守るために、誰かを殺すというのは、押し付けに過ぎない。それは誰のためでもなく、結局は自分のために過ぎないのだ」

「それは、でも……」

「良いか。剣術の道というのは、自身を鍛えるためにある。国の戦はともかく、技をひけらかし簡単に振りかざして良いものではない」

「おれは、振りかざすお侍しか、知りません」

「私もここに来るまで、多く見てきたよ。こんなにも外が腐っていたとは、正直驚いた。人間というのは、欲に惑わされやすい。思慮狭き者が多過ぎるのだ。心豊かになるには、学をもって世を知らねばならない。これからの時代、腕がたつだけでは駄目なのだ」

「腕がなければ……」

「己すらも守れない、か? 確かに道理ではある。だが心が強くあらねば、技は冴える事はない。刀があり、つかみ持ち上げる事が出来るのなら、たとえ赤子であろうと人を斬れる。しかし人を斬った所で、なにも生み出す物はない。一から生み出す事が出来る農民が、どれだけ素晴らしく豊かであるか。五郎は、知るべきだ」

 言い返そうと口を開けたが、声は出なかった。

 唇をかみ、うつむいた五郎から目を離し、伊秀は囲炉裏の炭をかき混ぜた。

 外では、まだ風があるのか、葉ずれの音が聞こえてくる。目の前に吊るしてある鉄瓶の湯が、小気味良い音をたてて沸いていた。

 伊秀は、ふと口元を緩める。

「しかし、すでに武士とも言えぬ者の言う事だ。武士道とは、はずれた考えでもあるかな」

「でも難しいけど、正しい事を言っているのはわかります」

 炭が赤く燃えるのを、五郎も眺めながら、言われた事を心の中で反芻していた。



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