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その飲みかけ、致死量につき。――男女比1:4の世界で普通に生活する俺が、飲みかけボトルを置き忘れた結果――  作者: やっくん


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25話 この男、強がりにつき

――強制連行まで、あと二日。


 ピコン。


 昼過ぎスマホが鳴った。


如月雫『契約無効の外堀、今埋めてるところ。必ず無効にするから待ってて』12:14


 短い文面なのに画面から気迫が伝わってくる。


『ありがとうございます。よろしくお願いします』12:15


 すぐに返信して俺は少しだけ息を吐いた。


 あの人が味方でいてくれてる――それだけで肩の荷が軽くなっている気がする。



 夕方にもう一度、通知が鳴った。


如月雫『同期に応援を頼んでる。鳳が相手でも、数で押せば戦える』18:02


(頼りになる……進捗を伝えてくれるだけで安心できるな……)


 俺は契約書の控えをテーブルに置いたまま、その日は久しぶりに少しだけ眠れた。


◇


 ――あと一日。


 朝からスマホは静かだった。


 昼になって、ようやく一件。


如月雫『少し難航してる。でも諦めてない』13:47


 難航――


 その二文字を何度も読み返す。


『大丈夫ですか? 俺にできることがあれば』


 既読はすぐについたが、返事は来なかった。



 夕方、もう一度アプリを開く。既読のまま。


 夜、に再び開く。既読のまま。


 風呂から出てからも開く。


如月雫『ごめん、もう少し時間が』22:51


 それきりだった。


 俺は画面を消して天井を見上げた。


(……雫さんは戦ってくれてる)


 それは分かる。分かるけど……


 文面が短くなっていくたびに、胸の奥のざわつきが大きくなっていく。


 あの白髪の弁護士の言葉が耳の奥で蘇る。


 ――その法をつくるのが鳳なんだよ。


(……やめよう。信じるって決めたんだ)


 あまり眠れないまま朝が来た。


◇


 ――当日。


 九条さんが迎えに来るのは夕方だと聞いている。


 スマホは朝から一度も鳴らない。


 部屋の隅には、昨日のうちに詰め終えたボストンバッグが一つ。


 することも特にないけれど。


 なのに気づいたら俺は靴を履いていた。


 今日で、たぶん自由に外を歩けるのは最後だろう。


 好きなところを周って、おいしいものを食べに行こう。


 そうだ。それがいい。


 最後の一日くらい、パーッと使ったって罰は当たらないはずだ。


◇


 駅前の商店街はいつも通りの昼下がりだった。


 ラーメン屋の前で足が止まる。


 ここの味噌ラーメン、ずっと気になってたんだよな。


 ……でも、なんか違うな。


 俺は踵を返した。


 また少し歩くと映画館の看板が見えた。


 観たかったやつ、まだやってるじゃん。


 ……いや、二時間もじっと座ってられる気がしないな。


 次はゲーセン……も違う。


 本屋も違う。


 公園のベンチに座ってみたが――結局、三分で立ち上がった。


 最後の自由なんだけどな……


 なのに、いまいち心が動かない。


 足だけが、勝手にどこかへ向かおうとしている。


 ……どこへ?


 立ち止まって、顔を上げた。


 見覚えのある、細い路地の入り口が、そこにあった。


(……あー……)


 そういうこと、か。


 ラーメンでも映画でもなく、俺はずっと、ここに来たかったらしい。


 このまま何も言わずに行ったら、きっと後悔するしな。


 あの夜、あの人は俺の話を最後まで聞いてくれた。


 それが、どれだけ――


……だめだ。うまく言葉になんないけど……会って、顔を見て、それから考えよう。


 俺は、路地に足を踏み入れた。


◇


 古びた二階建てのコンクリートビル。


 昼間に見ると、看板の照明が消えていて、余計に古びて見えた。


 階段を上る。


 建て付けの悪いドアの前に立って、ノブに手を伸ばした――その時だった。


『――今月いっぱいで、この事務所の賃貸契約は終了します』


 ドア越しに、声が聞こえた。


 低く、静かで、氷みたいな声。


(……この声)


 忘れるはずがない。九条さんだ。


『あなたの銀行口座は凍結され、弁護士会からは懲戒請求の準備が始まります』


『ウソよ……ッ!』


 雫さんの声だった。


 いつもの、あの余裕のある声じゃない。掠れて、震えていた。


『信じるかどうかは任せます。ですが、あなたは二度と法を語れなくなる』


 ノブにかけた手が、動かなくなった。


(……なんだよ、これ)


 頭が、うまく回らない。


『さあ、お選びなさい。鳳の専属顧問として光の当たる場所へ昇るのか。それとも――』


 九条さんの声が、す、と冷たさを増した。


『あのような青年一人のために、ご自分の八年間を無駄になさりますか?』


 あのような青年――俺のことだ。


 ドアの向こうで雫さんが追い詰められている。


 事務所を、口座を、資格を、八年間を、人質に取られて。


 ――俺の、せいで。


 お礼を言いに来た――それだけだったのに。


 俺が彼女に背負わせていたものの重さを今、初めて知った。


 膝のあたりから力が抜けそうになる。


 でも――


 ドアの向こうから返事は聞こえてこなかった。


 雫さんは、まだ「はい」と言っていない。


 あの人はまだ、迷いながら、それでも俺のために踏みとどまろうとしている。


 考えるより先に、手が動いていた。


 ガチャッ――


 建て付けの悪いドアを思いきり開けた。


「……結城くん!?」


 雫さんがデスクの向こうで目を見開いた。


 顔色がひどく白い。


 その手前に一分の隙もない秘書服の背中。


 九条さんが、ゆっくりとこちらを振り返った。


「……あら、悠様」


 驚いた様子はまるでなかったのがかえって不気味に感じる。


 最初から俺が来ると分かっていたみたいに、その藍色の瞳は静かだった。


「雫さんを、巻き込まないでください」


 声が震えないように腹に力を入れた。


「事務所とか、口座とか、資格とか……そういうの、全部やめてください。この人は関係ない。俺が――」


 一度、息を吸う。


「俺が、行けばいいんですよね」


「……っ、だめ! 結城くん、何を言って――」


 雫さんが立ち上がった。


 俺は雫さんの方に向き直る。


「雫さん。俺、実は……ちょっと楽しみだったんですよね。執事の仕事」


「……え?」


「住み込みで、衣食住つきで、豪華なお屋敷で働けるんですよ? よく考えたら、けっこうおいしい話だなって」


 休みはないけど夜は休めるかもしれない。外出も申請を出したら出られるかもしれないし、連絡手段もきっとあるはず。お金は――もらえなくても生活はできるだろう。やりがいだってあるかもしれない。


「執事服とか、ちょっと憧れあったし。料理の腕も上がりそうだし。三億の借金がチャラになって、寝る場所と飯までついてくる。そう考えると悪くないかなって」


「だから、雫さんが気に病むことなんて、何もないですよ」


 雫さんは何も言わなかった。


 ただ、俺の顔をじっと見ていた――何かを見透かすみたいに。


 それでも雫さんは何も言わないでいてくれた。


「…………バカ」


 絞り出すような、小さな声だった。


「……はは。よく言われます」


 九条さんが、すっと一歩こちらへ歩み出た。


「――よろしいのですね?」


「はい」


 即答した。


「雫さんへの……如月先生への話は、全部なしにしてください。事務所も、口座も、資格も、このまま。それが条件です」


「条件……ですか」


 九条さんの眉がほんのわずかに動いた。


「立場をお分かりでないようですね。あなたに交渉の材料など――」


「ありますよ」


 お腹に力を入れてはっきり声を出す。


「俺が、暴れず、逃げず、大人しく行くこと。……そっちだって、面倒は少ない方がいいでしょ」


 我ながら安い材料だと思う。


 でも、今の俺ができることは、これくらいしかない。


 九条さんは何も言わずに俺を見ていた。


 藍色の瞳が何かを見定めるように、じっと俺を見つめていた。


 値踏みとも違う。あの日カフェで向けられた視線とも、少し違う。


 なんだろう。うまく言えないけど――


 その沈黙は、思ったより長かった。


「……いいでしょう」


 やがて九条さんは、静かにそう言った。


「如月先生への提案は撤回します。賃貸も、口座も、資格も、このままに。……鳳の名において、約束いたしましょう」


 ふ、と体から力が抜けそうになった。


「結城くん……!」


 雫さんがデスクを回り込んで俺の前に立った。


「なんで……なんでよ。私はまだ、諦めてな――」


「雫さん」


 俺は頭を下げた。


「三億の話を、笑わずに聞いてくれて、ありがとうございました」


「……っ」


「一人にはしないって、約束してくれて。……俺、あのときすっごく嬉しかったです」


 本当は、これを言いに来ただけだった。


 顔を上げると、雫さんは唇を噛んで俺を睨んでいた。


 泣くのを我慢してるみたいな、怒ってるみたいな、そんな複雑な顔だった。


「……お礼なんかいらない」


 雫さんは掠れた声で言った。


「私はまだ、負けてない。あんたの契約書は必ず破棄させる。だから――」


 まっすぐに、俺の目を見て。


「待ってなさい。絶対――迎えに行くから」


◇


 マンションに戻ると、部屋の前に黒塗りの車が停まっていた。


 九条さんは先に着いていて、車の横に静かに立っていた。


 部屋に上がり、ボストンバッグを掴む。


 昨日のうちに詰めておいた荷物。着替えと、洗面用具と、それから――


 テーブルの上の、契約書の控え。


 一瞬、迷って、それもバッグに押し込んだ。


(……忘れないようにしよう)


 これがどういう契約か。俺が何を分かった上で行くのか。


 俺は絶望して仕方なく行くんじゃない。俺は自分で選んだんだ。


 部屋の電気を消す。


 ドアの鍵を閉める。


 いつもと同じ、なんてことのない音のはずなのに、やけに大きく響いた。


 階段を降りると、九条さんが後部座席のドアを開けて待っていた。


「……お願いします」


 俺は自分の足で車に乗り込んだ。


 ドアが閉まる。


 走り出した車の窓から、暮れていく街が流れていく。


 スマホが、ピコンと鳴った。


如月雫『待ってなさい』17:58


 たった六文字。


 俺はその画面を、しばらく見つめてから、そっとポケットにしまった。


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