1話 その男、無自覚につき。――喉を潤す一杯が、死に至るまで
リメイクしました!
――男女比1:4。
男性の人口は全体の5分の1しかいない。そして、この世界の女性の9割はパートナーを持てずにいる。
だからこそ、男女のささいな触れ合いが何倍も刺激的な意味を持つ。袖が触れた。視線が合った。それだけで女性の心臓はドクンと跳ね上がる。
女性たちは恋に飢えている。正確には、恋をする機会そのものに飢えている。
たとえ運よく出会いに恵まれ、想いが届いたとしても、翻弄され、浮気され、あっけなく捨てられる。
それが、この世界のありふれた恋の末路。
一方、男たちは生まれた瞬間から希少であるため、女性から求められ、尽くされる環境の中で育つ。
外見を磨く必要がない。努力する理由がない。女性からの好意も愛情も、当然のものとして受け取る。
ついには、感謝を口にすることもなくなった。
この世界の男が悪いわけではない。そうなるべくしてなっただけの話。
だが、そんな世界の歪みなど知る由もなく。
彼――結城 悠は今日も普通に生活し、無自覚のまま、干上がった女性たちの心へ優しさを振りまいてしまう。
喉を潤し、何気なくテーブルに置き忘れた一本のペットボトル。
それが、隣に住む女性の心臓部に――抗いようのない致死量の愛を打ち込んでしまうことを、彼はまだ知らない。
◆
この世界に来てから三ヶ月。ようやく一つの結論に達した。
「ここ、俺の知ってる日本じゃない……」
日本によく似たこの世界は、俺の知っている世界と微妙に何かが違う。
電車のホームには男性専用車両が連結されている。
街角には『夜の一人歩きに注意。狼(女)はすぐそばにいます』という男性向けの防犯ポスターが貼ってある。
デパートの広告には、レディースデイならぬ『メンズデイ:男性のお客様ポイント5倍』の文字が躍る。
最初は冗談だと思ったが、これがこの世界の普通のようだ。
居酒屋の看板にも『男子会プラン:ドリンク飲み放題無料』と大きく書かれている。
女子会という言葉は、この世界ではほとんど聞かない。
男子会……それって楽しいのか? 想像すると、店の中から「ウェーイ!」という野太い声が聞こえてくる。
そして、街を歩くとたびたび女性から声をかけられる。
最初は人生に三度来るというモテ期が来たか、と思ったけど、どうやら違う。
なぜなら、他の男も女性から声をかけられているからだ。
――じゃあ、なぜ?
おそらくだが、ここは元の世界とよく似た平行世界。なにかの理由で女性の積極性が強まり、社会進出がより発展した世界線に迷い込んだのだろう。
そして、女性の社会進出が進んだ結果、逆に男性が守られる側に回った世界なのではないか。
そういえば、街で見かけるのは女性ばかりな気もする。
まあ、平日の昼間から出歩いてる男なんて元の世界でもそう多くなかった。
バイト先のカフェも客のほとんどが女性だが、カフェなんてどこもそんなものだろう。
といっても、よく考えれば大した違いはないな……
人が街を歩き、飯を食い、仕事をして、眠る。そういう意味では、俺のいた世界と根っこは何も変わらない。
結局は――
普通に過ごす。それだけだ。
ただ、つい先日。
『悠くん、本当に気をつけてよね…… 女っていう生き物はね、イイ男を見つけたら、絶対に逃さないんだから……』
そうバイト先の先輩から心配そうな顔で忠告された。
まあ、どの世界にもその手の話はある。会社にしろ学校にしろ、行き過ぎた人というのは一定数存在する。
先輩はその例外的なケースを心配してくれているんだろう。
何かあったら、その時に考えればいい。困ってもいないのに、先回りして悩む必要もないだろう。そもそも俺はいい男でもイケメンでもないしな。
無用な心配だ。
◇
ガチャリ、とアパートのドアを開ける。
そこには鼻を突くジャンクフードの匂いと、暗闇の中で青白く光る液晶画面があった。
「遅ぇ! お腹が空きすぎて、スマホの充電より先にアタシのライフがゼロになるじゃねぇかァ!」
ソファに寝そべり、ポテトチップスの袋を枕代わりにスマホを掲げている女がいた。
――阿久津 魅夜
切れ長で鋭い瞳はどこか人を寄せつけない雰囲気がある。
白に近いプラチナブロンドをラフに流し、耳にはいくつものピアス。黒のレザーチョーカーが白い首筋に映える。
モデルのように引き締まった四肢はスラッと長く、オーバーサイズぎみのシャツを着た彼女が動くたびに、その下にある絶妙な存在感の膨らみが視界に入る。
本人いわく、ネットで配信の仕事をしているらしい。
登録者は二百万人を超えていて、視聴者からは「女王様」と呼ばれている――とも言っていた。
どこまで本当かはわからないが、この態度を見ていると女王様の部分だけは妙に納得できる。
最近は隣室のベランダから平気な顔で乗り込んでくる。
最初は家に帰ると美女がいるというだけで多少ドキドキしていたが、今は自分のプライベートがないことへの不満の方が大きい。
勝手に人の部屋に侵入するのって、この世界でも犯罪だと思うんだが……
毎回ベランダの鍵をかけ忘れる自分にも、責任はあるのかもしれないけど。
つまりは相当に自由すぎる女ということだ。
「……魅夜さん、また勝手に入ったんですか。あれほど来る時は連絡してって言ったじゃないですか。それと玄関から来てください、普通に」
「えー、いいじゃん。減るもんじゃねぇし。それに、アタシの部屋が今どうなってるか知ってるだろォ? あれはもう人が住める場所じゃねぇんだわ。ケヒャヒャ」
彼女はソファから起き上がり、俺を見上げるように見据える。
その拍子にシャツの襟ぐりから覗く鎖骨と胸元。
「……」
彼女は俺のシャツを勝手に拝借して着ている――わざわざ一番匂いが残っていそうなものを。
「……ポテチ食べるくらいなら、これ食べていいですよ」
仕方なく買ってきた野菜たっぷりサラダと豆腐ハンバーグを並べる。
だが、彼女はその三白眼を細めてサディスティックな愉悦の笑みを浮かべた。
「あぁん? 女に優しいフリかぁ? そうやって骨抜きにしてから金だけ取ってポイっと捨てんだろォ? お前の魂胆は分かってんだぜェ!」
そのセリフが最初に出るって……
「……そんなんじゃないです。ただの心配です」
真顔で返すと、彼女は拍子抜けしたような顔をしていた。
彼女は親切にされると、自分をハメるための詐欺か何かだと思い込もうとしている節がある。
だが、ふと彼女の方を見ると、差し出したハンバーグを誰よりも美味しそうに口に運んでいるところだった。
◆
出会いは一ヶ月前。
アパートに帰り、ふと隣の部屋に目を向けると、大量の荷物と格闘している女性がいた。
「……はぁ、マジで死ねよ。どいつもこいつも、女をなんだと思ってやがる……」
呪詛を吐くその女性――阿久津 魅夜は重い機材ケースを前に膝をついていた。
プラチナブロンドの髪に鋭い三白眼。都会的な冷たさを纏ったクールな顔立ちは、二度見してしまうほど綺麗だった。
ただ、同時に放たれるオーラは他者をはね付けるものだった。
「あ、それ重そうですね。運びますよ」
声をかけた瞬間、彼女は凍りついた。ゆっくりと顔を上げたその瞳には、刺すような不信感が宿っている。
「あァ……テメェ何様のつもりだァ……安っぽい逆ナンのつもりかぁ? 笑わせんなァ!」
拒絶。拒否。反発。
だが、彼女の背後に整理されていない段ボールやゴミの山が見えてしまった。放っておけば、足の踏み場もなくなるだろう。
おせっかいかもしれないが、隣人のよしみだ。
「あー、とりあえず玄関まで入れますよ。失礼します」
彼女の暴言を適当に受け流して機材ケースを持ち上げた。
「なっ……テメェ!? 勝手に……ッ!」
唖然とする彼女を尻目に、そのまま淡々と荷物を運ぶ。
なぜか彼女の視線が俺の腕の辺りに落ち、何かを言いかけて口をつぐんだ。
◇
――それから数日後。
ガシャーーンッ!
隣室から何かが割れたような大きな音が聞こえた。
ドアの隙間から声をかけて中へ入ると、彼女は割れたグラスの真ん中に座り込んでいた。
「……危ないですよ」
そう言ってホウキを借りる。
破片を片付け、ついでに散らかった服を畳んで端に寄せた。
「……テメェ何なんだよ、男のくせに、なんでそんな……」
「いや、ガラスの破片は危ないですよ。掃除だけ済ませたら帰るんで」
言ってから反省する。会ったばかりの女性に対しておせっかいすぎたかもな。次から気をつけよう。
動いたら少し喉が渇いたな……
持参していたペットボトルの水を半分ほど一気に飲む。そして中身の減ったボトルを近くのテーブルの上に置いた。
その時、スマホが震えた。バイトの先輩から『今すぐ連絡して』という通知。
「すみません、俺、もう行きます!」
慌てて彼女の部屋を飛び出した。
自分の部屋に戻ってから、ペットボトルを置いてきたことに気づいた。
……まあ、いいか。
ただの飲みかけの水だ。捨ててくれるだろう。




