捨てられ聖女は仮面の騎士と歩む~奪われた婚約、失った未来。でも彼がずっと隣にいた~
私は十六歳のとき、日本からこの世界に落ちてきた。
「聖女」と呼ばれ、王宮に迎えられ、王太子アレクシスの婚約者になった。
最初の私は、ただ守られるだけの存在だった。
与えられた使命は「庶民を救うこと」。寄付を集め、食堂を作り、配給を行った。人々は私を慕った。
――でも、続かなかった。
寄付に頼る施しは、すぐに行き詰まる。
「救われたい」と集まった人々は、やがて「もっとくれ」と求めるようになり、施しが止まると、冷たい背中を見せて去っていった。
私は気づいた。
「聖女」としての役目は、もう終わっていたのだ。
そして二十歳になった今。
王宮からの援助は打ち切られ、婚約者である王太子は、元婚約者のリアンナに今は心を奪われ、私にはもう何も残っていない。
ただひとり――
いつも仮面をかぶり、私の傍に立ち続けた騎士だけを除いて。
ーーー
今朝、王宮の帳簿から、私の名前が消えた。
王立救済院への資金援助は「打ち切り」。たった一行の書き付けで、私の居場所は音もなく終了した。白い修道服の袖口は、昨夜の配膳で付いたスープの染みが落ちきらない。私はまだ「聖女」と呼ばれているけれど、その肩書きはもう、誰の手にも触れられない飾りだ。
最後の昼食を配り終えると、人々は早足で去っていった。感謝の言葉はある。けれど、目は笑っていない。
「寄付って、続かないんだな」
ぼそりと漏れた男の呟きが、胸の奥の柔らかいところに刺さる。
扉が閉まる音。広い食堂に私ひとりだけ残る。積み上げた木皿は低い塔みたいに揺れて、今にも崩れそうだ。
「……終わったのね」
声に出すと、思っていたよりも簡単で、そして少しだけ痛かった。
足音が近づく。振り返ると、黒い仮面の騎士――彼が立っていた。いつも私の後ろ、半歩。王宮で王太子の婚約者になってから、ずっと専属の護衛を務めてくれた人。名はヴァンサン・クロード。皆は「ヴィンス」と呼ぶ。けれど私は、最後まで彼の素顔を見たことがない。
「アリス様」
低く、乾いた声。仮面の奥で、どんな顔をしているのだろう。
「……あなた、まだいたの。もう、護衛する理由はないわ」
「理由はあります。あなたがここにいるから」
即答だった。私は舌打ちしたくなる衝動を飲み込む。こんなときでさえ、彼は揺れない。
「皆、いなくなったのに。あなたは物好きね。仮面をつけないといけないくらい不細工なくせに。」
わざと酷い言葉を選ぶ。彼は黙って、崩れそうな皿の塔を片手で支えた。作業台の端に置き直し、袖をまくる。
「後片付けを」
「騎士が皿を洗うの?」
「今は護るものが、皿しか残っていませんから」
少しムカついて、少し笑いそうになった。感情が忙しい。私は二十歳。こちらの世界では、女は二十代前半で結婚するのが普通らしい。私は四年前――十六歳で日本から落ちてきて、聖女と呼ばれた。たくさん守られて、たくさん与えたつもりで、でも、本当に誰かを救えていたのかどうか、わからない。
洗い場に立つ背中を見ていると、胸の奥で何かがほどけた。ほどけてしまうと、次のものが入り込んでくる。焦り。孤独。悔しさ。そして――奇妙な軽さ。
「ねえ、ヴィンス」
「はい」
「私、冒険者になるわ」
手が止まった。水滴が静かに跳ねる。
「登録に行く。今から」
「……わかりました」
「止めないの?」
「止めても、行くでしょう」
「ええ。行くわ」
「ならば――」
彼は濡れた手を拭き、仮面の向こうからまっすぐに言った。
「君が行くなら、どこへでも護る」
その言い方が腹立たしくて、そして腹立たしいほど安心した。私は外套を掴み、ぎこちなく腕を通す。白い修道服の上に、旅人の灰色。似合っていない。けれど、似合わないままでいい。今はそれしか持っていないのだから。
◇
王都の中央大通りに面した冒険者ギルドは、夕方になるといつも騒がしい。酒と革の匂い。擦れた笑い声。依頼票の前に群がる人垣。
「……あれ、聖女じゃねえか」
「登録しに来たのか? 冗談だろ」
「泣けば誰かが助ける、ってやつ?」
耳はよく聞こえる。四年前、涙は武器だった。けれど今、それは役に立たない。私は受付の前まで進み、まっすぐに頭を下げた。
「冒険者登録をお願いします」
受付嬢がまばたきを二度。ちらりと私の後ろを見る。黒い仮面の騎士が、無言で立っている。
「お連れさまは……」
「護衛です」
彼が短く答える。受付嬢は微笑んで、書類を差し出した。
「お名前、年齢、得意な技能。あと、緊急連絡先に誰か――」
私は羽根ペンを握る。インクが少し滲んだ。
名前。アリス。年齢。二十。技能……回復魔法、浄化、簡易結界。攻撃魔法は、壊滅的。心の中でため息をつく。緊急連絡先……浮かばない。王宮は遠い。王太子アレクシスは、もう私に興味がない。
黙っていると、横から手が伸びて、空欄にさらさらと字が書き込まれた。
「……アルノー、子爵家?」
「父に相談すれば、附属子爵位を譲る、と言われました。近々、願い出ます」
さらりと言う。さらりと言い過ぎだ。
「ちょっと待って。あなた、侯爵家の三男でしょう? 子爵って、そんな簡単に――」
「余りものです。家にとっては、私が外れても困らない椅子。あなたを守るなら、名も家も要る」
さらり。私は言葉を失う。彼の仮面に映る自分の顔が、赤く火照っているのがわかった。恥ずかしさ。怒り。戸惑い。全部が混ざって、味のわからないスープみたいだ。
「……勝手に決めないでよ。不細工のくせに」
「はい」
肯定された。胸の奥が痛む。私の酷い言葉は、いつも彼を傷つけるはずなのに、彼は痛がる素振りを見せない。痛まないのではない。ただ、見せないのだ。
「登録、完了です」
受付嬢がギルドカードを差し出す。金属の薄片に私の名。
アリス――ただの、アリス。聖女の二文字は、どこにもない。
「初依頼、受けますか?」
「受けるわ」
私はカードを握りしめ、依頼票の掲示板へ向かった。ざわめく人垣が、波みたいに左右へ割れる。紙束の中から、手頃なものを選ぶ。草原の牙兎の駆除。護送の護衛。子どもの迷子捜索。どれも地味で、でも確かに必要だ。
「これにする」
牙兎の駆除。小さな爪、敏捷。結界の練習にもなる。私にもできるはず。私は振り返り、彼に紙を見せた。
「……反対?」
「いいえ。あなたが選んだなら」
その一言で、身体の芯が少し温かくなる。私は頷いて、受付に紙を差し出した。サインと説明を受ける。簡単な注意事項。集合時間。
それらを聞き終えると、私はふと思いついて、彼に向き直った。
「あなた、仮面。ずっと外さないつもり?」
「命じられたので」
「誰に」
「王太子殿下に。」
胸のどこかが、きゅっと縮んだ。私は唇を噛む。
勝てなかった。最後まで。王太子の元婚約者のリアンナにも、王太子にも、そして私自身にも。
でも――負けただけで終わりにするつもりは、ない。
「……いいわ。じゃあ、仮面の騎士さん」
私はギルドカードを掲げる。震えは、もうない。
「明日、狩りに行く。私、やれることからやる」
「はい」
「見てなさい。私は“救う”んじゃない。“選ぶ”の」
言い切ると、彼の仮面の向こうで、何かがわずかに揺れた気がした。感情の波。私には読めない。でも、確かにそこにある。
ギルドを出ると、夕陽が王都の屋根を赤く染めていた。
二十歳。結婚適齢。未来は、綺麗に決まっていない。だからこそ、怖い。だからこそ、楽しい。
「ヴィンス」
「はい」
「明日、遅れたら置いていくわ」
「置いていけるものなら」
即答。私は笑って、彼を睨んで、そして歩き出した。長い影が二つ、石畳に伸びる。
聖女の物語は、ここで終わり。
アリスの物語は、今から始まる。
ーーー
初依頼は、拍子抜けするほど地味だった。
草原で畑を荒らす牙兎の駆除。ついでに、町外れの村まで穀物袋を運ぶ護送の護衛。
――聖女から冒険者へ。華々しい再出発、のはずが。
「結界、張るわ。サークル・シェル」
足元に淡い光の輪が広がる。……はずだった。輪は一拍遅れて滲み、うさぎほどの魔獣が軽々と跳び越えた。
「ひっ――」
耳の長い影が私の胸元へ。思わず身を引いた瞬間、黒い外套がふわりと入る。
「下がって」
ヴィンスの短い声。抜剣の音は一度だけ。牙兎は土に沈んだ。
「今のはテストよ。次は大丈夫」
負け惜しみ、と自分でもわかっている。
ヴィンスは責めない。責めないのが、余計に癪に障る。
その後も小さな失敗が続いた。
荷車の後ろで、私は荷崩れ防止の結界を張るつもりで軽量化の術式を誤発動。段差で穀物袋が浮き、前へずるりと滑る。
「わ、わわっ!?」「落ちる! 落ち――」
私の袖を掴んで引き止めたのは、結局またヴィンスだった。
彼は片手で荷車を押し戻し、もう片方で私を支える。私は彼の胸板に額をぶつけ、言い訳が口から零れそうになる。
「……だ、だいじょうぶ。想定内」
「はい」
肯定しないでよ。反論しないでよ。そう思うのに、口から出たのは違う言葉だった。
「いちいち口出ししないで。不細工のくせに、黙って守ってればいいの」
言ってすぐ、胃のあたりがひやりと冷える。
最低だ、私。
「……失礼。以後、気をつけます」
仮面の奥から、変わらない声。彼は私の粗雑な言葉ごと包み込んで、何事もなかったように歩調を合わせた。守られている感覚が、悔しい。情けない。なのに、離れてほしくない。
(強くなりたい。ひとりで立てるって、証明したい)
護送を終えた夕方、依頼主から受け取った報酬は銅貨の束。
ギルドのカウンターで換算される金額は、王宮の献金の一日分にも届かない。分かっていたけれど、胸に刺さる。
「本日の評価、問題なしです。次も初級依頼から積み重ねると――」
受付嬢の笑顔が、妙に眩しい。
私は掲示板へ視線を逸らし、紙束を素早く見上げた。そこに、黒く太い字が躍る。
【上級討伐】森域北端・岩甲熊出没。討伐推奨。補助枠若干名。
岩甲熊。分厚い岩の甲殻をまとう巨大獣。
上級。私の結界でも、支えになれるかもしれない。
胸の奥が熱くなる。ここで何か一つ“大きいもの”を成せたなら――。
「受付さん、これ。補助枠、空いてる?」
「アリスさん、これは上級でして……初日は、もう少し基礎を――」
「できます。できるわ。私、リアンナに勝つの!」
口に出した瞬間、空気が一瞬止まった。
周りの冒険者がちらりとこちらを見る。
受付嬢は困ったように目を伏せ、そっと私の正面に紙を置いた。
「……補助枠は、回復と結界をお願いするものです。大変危険ですので、同伴の方の承認も必要で――」
「承認する」
私より先に、ヴィンスの声が落ちた。
受付嬢が目を見開き、すぐに記入欄を指し示す。彼は迷いもなくサインを入れた。
「ちょっと、勝手に決めないで」
「勝手ではありません。あなたが行くなら、私は行く」
喉の奥が熱くなる。怒りか、安堵か、自分でも判別がつかない。
「……いいわ。なら、足を引っ張らないで」
「承知しました。あなたは結界を、私は前に出ます」
「命令しないで。私は補助じゃない」
「その自負は、強さになります。けれど命は、一つです」
視線がぶつかる。仮面の奥の彼の目は見えないのに、なぜか真っ直ぐ射抜かれた気がした。
私は踵を返し、掲示板から紙を剥がす。震えは、もうない。
(大丈夫。私はできる。やれる。やるの)
――やるんだ、と自分に言い聞かせる声が、ほんの少しだけ空回りしていることを、私はまだ認めたくなかった。
◇
翌朝。森域北端の前線野営地。
ベテランの冒険者たちが簡易天幕を張り、武具の手入れをし、香草を煮込んでいる。空気はぴんと張り詰め、昨日の酒場の喧騒とは別物だった。
「補助枠の新人か。……聖女、ね」
壮年の隊長格が私のギルドカードを見て、淡く笑う。
「泣かれちゃ困るぞ。岩甲熊は甘くない」
「泣かないわ。結界には自信があるの」
嘘ではない。自信は、ある。結果が伴っていないだけで。
ヴィンスは私の隣で、短く礼をした。
「前衛は任せてください。刺突で甲殻の継ぎ目を狙う。あなたは守りを」
「命令しないでって言ったでしょ」
「提案です」
提案。そう受け取ればいい。
私は小さく息を吐き、頷いた。肩の力を抜く。手のひらに魔力が集まる感触を確かめる。
森の奥から、低い唸りが聞こえた。
土が震える。葉がざわめく。目の前の地面が、わずかに隆起――。
「来る!」
隊長の号令。
私は詠唱に入ろうとして、ほんの一瞬、昨日の失敗が脳裏をよぎる。あのとき輪が遅れた。だから、早めに――。
「サークル・シェ――」
早すぎた。輪が現れて、仲間の足を絡めた。
「わ、足が――」
「下げろ! 下げ――」
しまった。解除、解除――。焦りで舌が絡む。
葉の闇を割って、巨体が姿を現した。岩の板を幾重にも背負った、山のような獣。岩甲熊。
私の喉が凍る。
その巨爪が、まっすぐこちらに振り下ろされた。
――次の瞬間、私は理解する。
私はまだ、初級の一歩を踏み出したばかりだということを。
それでも前へ出ると決めたことを。
そして、その代償がどれほど重いかを。
「間に合ってくれ!」
ヴィンスの声が、鋭く森を裂いた。
ーーー
岩甲熊の影がのしかかる。空が暗くなるほどの巨体。
私は息を吸いそこね、詠唱が喉で千切れた。
「下がれ!」「隊列立て直せ!」
隊長の怒号。けれどさっき早出しした結界が、仲間の足を絡めたまま消え切らない。私が、絡めている。
巨大な爪が振り下ろされ――視界が白く弾けた。
風が切り裂かれる音。土が爆ぜる匂い。
次の瞬間、黒い外套が私の前に割り込んだ。
「ヴィンス、だめ――!」
叫びより速く、爪が彼を掠めた。鈍い音が一つ。時間が、止まる。
左肩から先が、ない。赤いものが、春の雨みたいに葉に散った。
世界がぐにゃりと歪んだ。耳鳴り。膝から力が抜ける。
彼は右手だけで私を抱き寄せ、背中をこちらに向けたまま、片腕で剣を強く握る。
「泣くな。下がれ」
掠れた声。私は喉の奥で引っくり返った声を出しながら、遅れて結界を張りなおした。
「サークル・シェル――!」
今度こそ間に合う。淡い光の輪が、前衛と私たちを包む。
ヴィンスは半歩だけ輪の外へ出て、巨体の間合いを潰すように踏み込んだ。刺突。甲殻の継ぎ目に、わずかな血が滲む。
「継ぎ目! 右肩甲の下!」
隊長の叫びに、前衛が一斉に畳みかける。
岩甲熊は咆哮し、のしかかったまま足場を砕いた。地面が揺れ、私は尻もちをつく。結界が軋む音。魔力が一気に削られていく。
「アリス、集中だ」
耳元でヴィンスの声。体温が触れるほど近いのに、彼の左側は静かだ。存在しない。
胸が、ぎゅっと縮む。
(私のせいだ。私が遅れた。私が空回りして、みんなの足を絡めて――)
「ふざけないで」
自分に向けて吐いた言葉が、ひゅっと冷えた空気に消える。
私は歯を食いしばり、輪をもう一重重ねた。結界は重ねれば強くなる。魔力は減るが、今はそれでいい。今は――守ること以外、何もできない。
前衛の刃が継ぎ目を捉え、岩甲熊が大きくよろめいた。隊長がとどめの合図を出し、最後の一撃が落ちる。
巨体が、森に沈んだ。
ざわめき。荒い息。木漏れ日の埃が舞う。
私は結界を解き、ふらふらと立ち上がる。足が震える。
黒い外套の背に、しがみつくように縋った。
「ヴィンス、腕、腕が――!」
「……わかっている」
彼はいつもの調子で言った。仮面の奥の目は見えないのに、妙に穏やかな声だ。
私は喉をふるわせ、袖を裂いて止血帯を作る。**圧迫、固定。**頭が真っ白でも、手は覚えている。回復魔法は傷口を塞ぐが、失われたものは戻らない。それだけは、この世界でも同じだ。
「止血する。痛いわよ、我慢して」
「はい」
短い返事。彼は一度も呻かない。私の指が震えるのを、黙って受け止める。
温かいものが指先を濡らす。血だ。土と鉄の匂いが混ざる。胃の奥がきゅっと攣る。
「どうして……どうして、そこまでして庇うの。私なんかのために」
言った瞬間、視界が滲んだ。涙が落ちる。落ちた涙で彼の外套の黒が濃くなる。
ヴィンスは少しだけ顔を伏せ、仮面の影で微笑んだように見えた。
「君は危なっかしい。放っておけない。最初からずっと、そうだった」
胸が、痛い。
私が吐いた酷い言葉たちが、喉の奥で逆流する。不細工のくせに。何度も。何度も。
「搬送だ!」
隊長が合図を飛ばし、担架が運ばれてくる。
「神殿まで距離がある。全力で走るぞ。回復魔法で持たせろ、聖女!」
「う、うん――ヒール・バインド!」
私は止血帯と一体化させるように治癒の術式を重ね、出血を縛る。魔力がぎゅっと持っていかれる感覚。頭が薄く痺れる。
担架に乗せられたヴィンスが、右手で私の手首を軽く握った。
「離れるな」
「離れない。絶対に」
森を抜ける道は、こんなに長かっただろうか。
木々の影が走り、石畳の村路が揺れる。人の声、鐘の音。神殿の白い階段が見えたとき、膝から力が抜け、私はその場に崩れ落ちそうになった。
◇
神殿の回廊は静かだった。
高位の癒し手が舌打ちし、私の止血帯を見て短く頷く。
「よく持たせた。腕は……戻らない。だが命は繋がる」
言葉の意味は、知っていた。知っていたくせに、胸のどこかが粉々に砕けた。
私は祈りの間の柱に背を預け、両手で顔を覆う。
私がやった。私が、彼の腕を奪った。
肩に柔らかな布がかけられる。いつの間にか、司祭が私の隣に座っていた。
「罪悪感というのは、便利な仮面だよ」
静かな声。
「それを被っている限り、自分を責めることで、目を逸らせる。――本当にすべきことから」
私はゆっくりと顔を上げた。司祭は微笑も叱責もしない、まっすぐな目でこちらを見ていた。
「本当にすべきこと?」
「君は、どう生きたいのだ。誰のために」
喉が、痛い。
私はずっと、勝ちたかった。誰かに。彼女に。世界に。
けれど今、胸の奥で言葉が形を変える。
(勝ちたい、じゃない。――守りたい)
祈りの間の扉が開き、癒し手が顔を出した。
「容体は安定した。話は、短く」
私は立ち上がり、ふらつく足で病室に入った。
白いシーツ。陽の差す窓。仮面は外され、寝台に横たわるヴィンスの横顔が、初めて正面から見える……のは、もう少し先に取っておきたいと、なぜか直感した。今はまだ、彼の静かな呼吸だけを確かめたい。
「……生きてる」
当たり前のことに、息が詰まり、笑って泣いた。
彼の右手が、わずかに動いた。気づかせないほど静かに、シーツの上を這う。
私はその手を両手で包み込む。温かい。確かに、ここにいる。
「ヴィンス」
名前を呼ぶと、彼の睫毛が揺れた。
ゆっくりと瞼が上がる。焦点が私を捉え、仄かな安堵が滲む。
「……無事で、よかった」
「あなたの台詞じゃない。私が言う番よ」
喉の奥が震えて、笑いにならない笑い声が漏れた。
私は深呼吸をして、言葉を選ぶ。選んで、やっと、口にする。
「私、気づいたの。勝つために生きるんじゃない。あなたのために、生きたい」
彼は瞬きを一度した。
痛み止めのせいか、声はかすれている。それでも、はっきり聞こえた。
「……それは、償いか?」
「違う。償いじゃない。私は、選びたいの。自分で」
司祭の言葉が胸の奥で灯りになり、暗闇を少しずつ溶かしていく。
ヴィンスは短く息を吐き、視線を窓に流した。午後の光が、白い壁を金色に染める。
「なら――」
彼は私の手を少し強く握り、ゆっくりとこちらを向いた。
「俺の隣を、選んでくれ」
肺が跳ねる。心臓が忙しく暴れる。
返事をしようとして、声が出ない。代わりに涙が先に落ちた。
「答えは、急がなくていい。夜に、もう一度、話そう」
彼は目を閉じた。私は手を握ったまま、しばらくその寝息を数えた。
日が傾き、祈りの間の鐘が一度だけ鳴る。
外は、きっと冷える。夜の焚き火を起こさなきゃ。
私は立ち上がり、深く頭を下げた。
「――待ってて。夜に、ちゃんと答える」
扉を閉めるとき、ふっと風が頬を撫でた。
血と土の匂いは、もうしない。代わりに、焚き火の煙の匂いが、確かに近づいていた。
ーーー
夜の森は、昼間の喧噪が嘘みたいに静かだった。
焚き火の炎がぱちぱちと音を立てて、赤い光が周囲をゆらめかせる。
ヴィンスは片腕の包帯を巻いたまま、壁際に寄りかかっていた。
私は火の前に膝を抱えて座り、何度も唇を噛む。
あの戦いの後から、胸の奥がうるさくてたまらない。
罪悪感だけじゃない。後悔だけじゃない。もっと……何か。
どう言えばいいかわからない。
でも、言わなければいけない。
「……ヴィンス」
声をかけると、彼は片目をゆっくりと開けた。
仮面はまだ顔に掛けられたまま。焚き火の赤で、黒鉄の面が揺れている。
「眠れないのか?」
「眠れるわけ、ないでしょう。……私、ずっと考えてた」
火の粉がはぜ、夜空に散る。
私は胸の前でぎゅっと手を握りしめて、吐き出した。
「私は今まで、自分のためにばかり動いてた。リアンナに勝ちたいとか、認められたいとか……そんなことばかり考えて、あなたにまで八つ当たりして。
でも今日、あなたが腕を失ってまで私を庇って――やっと気づいたの。勝つことなんかより、ずっと大事なものがあるって」
喉が焼けるみたいに熱くなる。
私は唇を震わせながら、正面から言った。
「償いたいんじゃない。私は……あなたを守るために生きたいの」
一瞬、焚き火の音だけが響いた。
長い沈黙のあと、ヴィンスは低く呟いた。
「……なら」
右手が伸び、ゆっくりと仮面の留め具に触れる。
かちり、と金具の外れる音。
彼が仮面を外す仕草に、私は思わず息を呑んだ。
火に照らされた素顔。
彫刻のように整った頬、深い蒼の瞳、すっと通った鼻すじ。
王太子よりも――いや、今まで見た誰よりも美しい。
「……っ」
言葉が出なかった。頭が真っ白になる。
ヴィンスは私の狼狽をよそに、静かに笑った。
「王太子の命令だった。俺の顔は目立つから、仮面で隠せ、と。だからずっと、これで通してきた」
「そ、そんな……じゃあ私……!」
胸が痛い。思い出す。あの暴言の数々。
――『不細工のくせに口を出さないで!』
私は両手で顔を覆った。
「ひどいことばかり言った……。本当は、不細工なんかじゃなかったのに……ごめんなさい」
涙が零れ、頬を伝う。
その手に、彼の右手がそっと触れた。温かい。優しい。
「謝るな。俺はずっと、君が君だから護りたかった」
瞳が真っ直ぐに私を射抜く。
火の粉がふわりと舞い、夜気が二人の間を撫でた。
「アリス。……なら――結婚してください」
世界が止まった気がした。
鼓動が、胸の奥で暴れる。
「け、けっこん……?」
「そうだ。俺は侯爵家の三男。子爵位を分けてもらう予定だ。独立して、新しい家を作るつもりだ。……その隣に、君にいてほしい」
言葉の意味は理解できるのに、頭が追いつかない。
私は涙で霞む視界のまま、彼を見つめた。
「本当に……私なんかでいいの?」
「君だからいいんだ。神秘的な黒髪も、素直じゃないところも、危なっかしいところも……可愛くて放っておけなかった。最初からずっと」
声が震える。胸が詰まる。
私はただ、こくりと小さく頷いた。
すると彼は、そっと私の手を取り、その甲に口づけを落とした。
優しく、誠実に。
「……ありがとう」
その瞬間、焚き火の赤が揺れ、夜空の星が一層鮮やかに瞬いた。
私は泣きながら笑った。
やっと見つけた。勝ち負けじゃない、私の選ぶ未来を。
ーーー
あの日から、時間は静かに、けれど確実に流れていた。
ヴィンスが左腕を失ったことで、私の中の何かもまた、確かに変わったのだと思う。
彼は侯爵家に願い出て、余剰の爵位を与えられた。
「アルノー子爵」。
その名を口にした瞬間、胸の奥がじんわりと熱くなる。
「本当に……いいの?」
気づけば、私は問いかけていた。
「いいも悪いもないさ。俺はもう、王太子の下に仕えるつもりはない。君と生きる。そのための家が欲しいんだ」
真っ直ぐな瞳に射抜かれて、息を呑む。
聖女として誰かに「仕え」る日々から、彼と「並んで」歩む未来へ。
その響きが、どれほど嬉しいことか。
式は、こぢんまりとした神殿で行われた。
立ち会ったのは、数人の神官と親しい人々だけ。
けれどその瞬間が、これまでで一番まぶしい舞台に思えた。
「聖女としてではなく――あなたの妻として、生きます」
言葉にした途端、涙がこぼれそうになった。
ヴィンスは片腕で不器用に、けれど確かに私の指に指輪をはめる。
粗削りな仕草なのに、胸が詰まるほど優しい。
この人を選んでよかった、と心の底から思った。
それからの日々は、驚くほど忙しかった。
礼儀作法に、帳簿の付け方。領地の小さな訴えを聞くこともあれば、農民たちの仕事を手伝うこともある。
最初は戸惑い、失敗ばかりだった。
けれどヴィンスは笑って、「ゆっくりでいい」と言ってくれた。
その言葉に救われながら、一歩ずつ子爵夫人としての自分を築いていく。
時折、かつての自分を思い出す。
――泣けば誰かが助けてくれると信じて、必死に取り繕っていたあの頃。
弱さを隠すために、強がり続けていた聖女アリス。
「もう違うわ。私は変わる」
鏡の前でそう呟いた。
ドレスを纏った私の姿に、少しだけ誇らしさを覚える。
ある夜。
火の灯った部屋で、彼の横顔を見つめながら小さく呟いた。
「ヴィンス……私、あなたの妻になれて、本当に幸せ」
彼は目を瞬かせ、すぐに柔らかい笑みを返してくる。
「俺もだ。……アリス。君が選んでくれた未来を、必ず守る」
片腕で、ぎこちなくも抱き寄せられる。
その不器用さが、胸に沁みた。
そして――「アルノー子爵夫人」として社交界に出る日が訪れた。
ドレスの裾を握る手が震える。
でも、隣にはヴィンスがいる。
一歩踏み出した先で、視線が交わる。
リアンナ・ヴァルグレイブ侯爵令嬢。
かつて憎しみを向け続けた宿敵。
あの日から変わった私が、もう一度、彼女の前に立つ。
逃げない。
今度は、きちんと向き合うために。
ーーー
煌びやかなシャンデリアが照らす大広間。
音楽と笑い声に満ちた夜会の中、私は深く息を吸い込んだ。
――今日、この場で、向き合わなくてはならない。
「大丈夫だ。俺がそばにいる」
隣でヴィンスが静かに囁く。
片腕の彼がいる。それだけで、震える心が少し落ち着いた。
だが、視線を感じた瞬間、心臓が跳ね上がる。
広間の中央。白いドレスに身を包み、凛と立つ女性。
リアンナ・ヴァルグレイブ侯爵令嬢――かつて私が執拗に敵視した相手。
気づけば、足が勝手に彼女のもとへと進んでいた。
そして、人々の視線を浴びながら、私は深く腰を折る。
「リアンナ様……今までのこと、全部……ごめんなさい」
ざわめきが広がる。
元聖女が、公の場で頭を下げたのだ。
プライドばかりで、泣いてばかりだった私が。
息が苦しい。視線を上げるのが怖い。
けれど、彼女の声はすぐに降ってきた。
「大丈夫よ。あなたは十六歳でこの世界に来て、必死だったのでしょう?」
柔らかな声音に、胸がじんわりと熱くなる。
赦された――そう思った瞬間、涙があふれた。
「……リアンナ様」
震える声で、ずっと胸に引っかかっていた疑問を口にした。
「前に一度だけ聞いたことがあるけど、リアンナ様……もしかして、前世、日本人?」
会場が一瞬、静まり返る。
けれどリアンナは驚くでもなく、穏やかに頷いた。
「ええ、そうよ。前に聞かれた時、答えられなくてごめんなさい。」
その一言で、目の前の彼女が急に近く感じられた。
同じ故郷、同じ孤独。
私だけが異物だと思っていたのに――違ったんだ。
気づけば、彼女が差し出す手を取っていた。
温かい掌が重なる。
かつては憎しみしか抱けなかったその人に、今はただ救われている。
「今日からは、敵じゃない。親友よ」
「……はい」
涙まじりに笑うと、リアンナも優しく微笑んだ。
広間の片隅で、ヴィンスが静かに立っていた。
片腕を失っても、凛とした姿。
その瞳には、誇らしげな色が宿っている。
(私……やっとここまで来られた)
かつては嫉妬と虚勢しかなかった私。
けれど今、胸を張って言える。
私はもう聖女ではない。ひとりの女として、選んで生きていくのだと。
ーーー
朝の中庭に、小さな机がずらりと並んだ。
読み書きの板、数取りの石、針と糸、磨いた木のスプーン。
アルノー子爵邸の一角に開いた**学舎**は、まだできたばかりだ。通うのは領内の子どもと、働き口を探す大人たち。私は鐘を一度鳴らして、笑顔で教室を開く。
「今日の読み本は『仕事を選ぶための三つの扉』。字の読める子は隣の子に教えてあげてね。できたら交代、先生はいないと困る人になろう」
黒髪のお下げが揺れ、少年の手が挙がる。
「先生、足の悪いぼくでもできる仕事はある?」
「あるわ。帳簿、料理、仕入れの交渉、道を覚える地図係だって立派なお仕事。できることを増やせば、“選べる”幅は広がるの」
別室では、裁縫と木工の職業訓練。さらに離れでは、旅籠や商家へ人を繋ぐ仕事斡旋の机が動いている。
以前の私なら、ここで食べ物を配って「救えた」と思っていた。けれど今は違う。
与えるのではなく、選べる力を増やす――それが、私のやりたいこと。
「アリス、見取り表」
扉口から現れたのは執務服のヴィンスだ。右肩の包帯はもうない。片腕でも背筋は真っ直ぐ、視線は澄んでいる。
私は受け取った帳簿にさらりと目を走らせる。今日縁が繋がった人数、明日の実習の枠、足りない材料。赤と黒の線が交差して、未来の地図みたいに見えた。
「……上々ね」
「君がよくやっている」
「私だけじゃないわ。みんなが“自分の分”を持って帰っているもの」
学舎を締める頃には、空の色が桃色に変わっていた。
教室を飛び出す子どもたちの背に、私はそっと手を振る。
「また明日。今度は君が先生ね」
門をくぐると、車寄せに馬車が待っていた。
夕風が草の匂いを運び、遠くで鐘が三度鳴る。私はヴィンスの手を借りて乗り込み、対面に座る彼に微笑んだ。
「今日もお疲れさま、アルノー子爵」
「お疲れさま、アルノー子爵夫人」
車輪が石畳を叩き、町がゆっくりと後ろに流れていく。
しばらく並んで街並みを眺めてから、私はそっと口を開いた。
「ねえ、ヴィンス。私、ずっと“守られる側”でいたのね。聖女として、娘として、婚約者として。……でも、もう違うわ」
胸の奥で、ことん、と何かが定位置に収まる音がした。
「今度は私が、あなたを守る番。一緒に背負うし、一緒に笑う。転んだら手を引く。あなたの片腕になりたいの」
彼は驚いたように目を瞬かせ、それから少しだけ困った顔で笑った。
「それを言うなら、俺は君の両腕でいたい」
「欲張りね」
「君もだ」
笑い合って、言葉がすっと夜に溶けた。
私は指輪を外し、掌でくるくると転がす。銀の輪っかの内側には、小さく刻まれた文字がある。
――Élire。古い言葉で「選ぶ」。私が刻んでほしいと頼んだ言葉。
「ねえ、覚えてる? 焚き火の夜、言ったわ。私は償いじゃなくて“選びたい”って」
「ああ。だから、俺は言った。俺の隣を選んでくれ」
「選んだわ」
私は指輪をはめ直し、彼の右手に自分の左手を重ねる。
「そして今日、もう一度選ぶ。私はもう、聖女じゃない。アリスとして、選んで生きる」
馬車がゆるやかに止まる。屋敷の門が開いて、灯りが川のように流れ込んでくる。
降車の段でよろけた私を、ヴィンスが片腕で抱き留めた。
「……大丈夫」
「知ってる。けれど、抱き留めたい」
不意に、頬が熱くなる。
私たちは肩を並べて屋敷へ歩き、玄関で靴音が重なった。
ふと、彼が足を止める。
「アリス。君がどれだけ前へ出ても、俺は怖がらない。君の選択を誇る。だから、ときどき、休むことも選べ」
「うん。……その時は、あなたの腕の中で」
夜の廊下に、二人の影が並んで伸びた。
細く、長く、同じ方向へ。
――ここから先は、二人で作る。
⸻
机にランプを置く。炎がガラス越しにゆらぎ、書きかけの便箋を金色に染めた。
宛名は、リアンナ。
親愛なるあなたへ。
先日の夜会で、手を取ってくれてありがとう。
あのときの一言――「大丈夫よ」――で、私はようやく前を向けました。
私はもう聖女ではありません。アルノー子爵夫人として、学舎と仕事の橋渡しを始めました。
食べ物を配る代わりに、文字と手仕事と小さな誇りを配っています。
それが、あなたの言った“選べる世界”の一歩なのだと、今では思えます。
あなたも私も、自分で選んで、ここにいる。
それが嬉しくて、少し誇らしい。
いつかまた会いましょう。今度は昔話ではなく、これからの話をするために。
追伸:夫は今も不器用です。だけど、とても優しいの。
アリス
封をして顔を上げると、ランプの光に二人分の影が重なって、壁に長く伸びていた。
私の影と、隣で静かに見守るヴィンスの影。
揺れて、重なり、また並ぶ。
影はやがて、灯が消えるまで伸び続ける。
選んだ道の先で、また明日も伸びてゆく。
私はそっと手を差し出した。彼が迷わず握り返す。
温かさが確かめ合うみたいに、指先で脈が合った。
「おやすみ、ヴィンス」
「おやすみ、アリス」
小さな灯が、二人の間でやさしく揺れた。
――これが、私の物語の新しい一行目。
そして、選べる世界に刻む、最初の約束だ。
ここまでお読みいただき、本当にありがとうございました。
この物語は、前作で「敵役」として描かれた聖女アリスを、どうしても幸せにしたい――その一心で書き始めました。
16歳で異世界に来て、勝ちたいと足掻きながらも空回りし、時には誰かを傷つけてしまったアリス。けれどそれは、弱さと必死さが入り混じった、不器用な叫びにすぎなかったと思います。
そんな彼女が、仮面の騎士ヴィンスに守られ、愛され、自らも「守りたい」と思えるようになったとき、やっと本当の意味で“選んで生きる”ことができたのだと思います。
そしてもう一つ、リアンナとの再会と友情も、どうしても描きたかった場面でした。
かつては敵同士だった二人が、手を取り合う姿は、私自身の願いの形でもあります。
そして、もしまだ前作 『婚約破棄は最高の投資でした ~前世ディーラー令嬢、自由市場で国を変える~』 をお読みでない方がいらっしゃいましたら、ぜひそちらもご覧いただければ嬉しいです。
リアンナの物語を知っていただくことで、このアリスの歩んだ物語も、きっとより深く味わっていただけると思います。
読んでくださった皆様に、心から感謝を込めて。