還座
山道をいくつも越えた先に、御山村はあった。
行政区画では「町」の隅にあたるらしいが、実際には村と呼ぶのがふさわしい。
山肌に沿って木造の家が点々と並び、畑と林が曖昧に入り混じる。空気は湿っていて、どこか遠くで水の流れる音がする。
携帯電話の電波は、途中からまったく入らなくなった。
僕は、ここに教師として赴任した。
教育支援という名目で、都会の大学を出て間もない新任教師を、この村は受け入れてくれた。
「生徒は、たった四人です。少なくて驚かれましたか?」
案内役の区長は、穏やかな笑みを浮かべていた。
古い藍染めの作務衣を身にまとい、年齢は七十を過ぎているように見える。
「いえ……少ない方が、きっと、子供たちとゆっくり向き合えますから」
自分でも取り繕うような返事しかできなかった。
区長は「そうですか」と柔らかくうなずき、集落の奥へと歩き出した。
見えてきたのは、古い木造校舎だった。
かつては多くの子供たちが通っていたらしく、教室がいくつも並んでいるのが外からでもわかる。校庭には遊具が静かに錆びついて、ブランコが風もないのに時折きぃ、と小さく音を立てる。
しかし、校舎に近づいてみれば、その朽ち具合は明らかだった。
木の柱には苔が這い、外壁はところどころ塗装がはがれている。軒先にはクモの巣が揺れ、屋根瓦には雑草が根を張っていた。
教室として使う部屋は、校舎の端にある一室だけ。
生徒はたった四人だ。二年生がふたり、双子だという。それに四年生がひとり、そして六年生がひとり。
中学生以上は街の学校に通うため、村には残らないということだった。
古びた教室の扉を開けると、湿った木の匂いが鼻をくすぐる。
黒板には長年のチョークの粉が染みつき、真っ白なチョークの箱は隅に置かれたまま動いていない。生徒用の机は、古い傷と落書きが残る木製で、椅子の脚も微かに錆びついている。
窓の外には濃密な緑の山が迫り、その向こうには、かすかな水音が絶え間なく響いている。静けさが教室を包み込んでいた。
「まぁ、今日まで春休みですから、明日からよろしくお願いしますよ、先生」
区長は、年輪を刻んだ穏やかな微笑を浮かべ、校舎の入口に立ったままそう告げると、ゆっくりと歩いて去っていった。
一人取り残され、教室の中を見回す。
壁には色褪せた子供の絵が飾られ、隅に置かれた花瓶には枯れ果てた花が首を垂れている。
窓際のカーテンは長く日光に晒され色褪せて、風に吹かれるまま緩やかに揺れている。
――どこもかしこも、まるで時間に置き去りにされたかのような風景だった。
一人残った僕は明日からの授業のための準備を終え、ひと息つくと、教室の隅にある棚の中に、埃をかぶった古い名簿を見つけた。
興味本位からページをめくると、見知らぬ名前がいくつも並んでいる。
ふと、最後のページに目がとまった。
『芦原 透』
それは――僕の名前だった。
……奇妙な感覚が背筋を這い上がった。
村に来たのは今日が初めてのはずなのに、胸の奥底で何かが静かに波打ち始める。
この村の道を曲がると、小さな祠があることを僕は知っている。
川のせせらぎの音は、夕暮れになると少しだけ高くなる。
古い木造の橋を渡った先には、紅葉が美しい大きな楓の木が一本だけ立っていることも――なぜか知っている。
まるでずっと昔、この場所で何年も暮らしていたかのように。
ずっとここを離れていて、ようやく戻ってきたかのように。
しかし、それはありえないことだ。
僕はこの村を知らない。
でも――。
心の奥底に、懐かしさに似た甘く重い痛みがゆっくりと広がっていった。
その夜、僕は奇妙な夢を見た。
深い闇の中、水が音もなく僕を取り囲み、息苦しさが肺を締めつける。
動こうにも身体は重く、水底に引きずり込まれていく感覚。
目の前には暗い池が広がり、その中央に半分沈んだ祠があった。
水面に揺らぐ影のような祠の奥に、誰かが座っている。
――それは僕とまったく同じ顔をしていた。
冷たく濡れた手が僕を引き寄せ、抵抗する力も声も出ないまま、僕はただその暗い祠に向かって沈んでいった。
※
翌朝、村の校舎に向かう道の両脇には、満開の桜がひっそりと咲いていた。
校庭に入ると、朝のひんやりした空気の中、子供たちがやってくるのが見えた。
最初に到着したのは、二年生の双子だった。
小柄で愛らしい容姿のふたりは、手を繋ぎながら軽やかな足取りで駆けてくる。
「おはようございます、先生!」
ふたりが揃った声で挨拶する。
「おはよう。えっと、君たちが二年生の双子かな?」
僕が尋ねると、ふたりは同時に元気よく頷いた。
「はい! ぼくがヒロで、こっちがハル」
「よろしくお願いします」
微笑み返す僕の視線の先で、双子の弟だろうか――ハルが、きらきらと目を輝かせながら、無邪気な表情で口を開いた。
「先生、おかえりなさい!」
一瞬、僕は言葉を失った。
「え……?」
戸惑いを隠せない僕に、ヒロが慌ててハルを見つめ、少し困ったように言った。
「ハル、違うよ。先生は、初めて来たんだって」
「そうなの?」
ハルは不思議そうに首を傾げる。
「ごめんね、先生。ハルったら時々変なこと言うんだ」
ヒロが小さな笑みを浮かべて取り繕うが、僕の胸の中には先日の名簿のことがふと蘇る。
「大丈夫だよ。でも、なぜ『おかえり』なんて言ったのかな?」
そう尋ねると、ハルは少し考えるように視線を宙に泳がせてから、何でもないことのように再び笑った。
「わかんない。でも、先生はずっと前からここにいた気がしたんだ」
春風が桜の花びらを舞い上げ、穏やかな静けさが僕たちの間を流れた。
戸惑いと、少しの混乱の余韻を感じながら舞い散る桜の花びらを見る。
まるで儚く、その存在を主張するように、ふわりふわりと舞っていく。
「先生、おかえりなさい」
残りふたりの生徒のうちのひとり、女の子が、何気ない笑顔で僕にそう言った。
「……君も?」
女の子は小さく頷いて、柔らかく微笑んだ。
「僕もそう思ったよ」
六年生の少年も加わってそう言い、子供たちは穏やかに笑い合った。
授業が始まると、4人の子供たちはひとつの教室で一緒に席についた。
学年の違う子たちが、それぞれ違った教科書を机に広げる。
「みんな、この村はどんな村だと思う?」
僕が授業の一環として問いかけると、子供たちは少し戸惑ったように顔を見合わせた。
「静かな村」
「山がいっぱい」
「川がきれい」
子供たちが口々に答える中で、6年生の少年が真顔で僕を見つめた。
「先生、あの祠にはいかないでね」
教室が一瞬静まり返った。
「あの祠って?」
「村の奥にあるんだ。僕らは行っちゃいけないって言われてる」
少年の言葉に、他の子供たちも真剣な表情で頷いた。
「絶対に行っちゃだめだよ」
ヒロが小さく付け加えた。
帰宅途中、区長と出会った。
「先生、どうですか?」
「ええ、皆、いい子たちで安心しました」
僕は笑顔で応えながら、子供たちの言った祠、そして昨日、見た夢のことを思い出して口を開いた。
「ところで区長さん、『祠』って何かご存知ですか?」
区長の表情が一瞬曇り、微かなため息が漏れた。
「あれは……君には関係ないことです」
区長はそれ以上何も言わず、早足で去っていった。
その背中を見送りながら、僕の胸には再び不安が静かに広がっていった。
「あんたには鍵がある。思い出せばいい」
突然、背後から囁くような不気味な声が響き、僕はびくりと身体を震わせて振り返った。
そこには深い皺を刻んだ顔、枯れ木のような細い身体をした老婆が立っていた。
暗い瞳が鋭く僕を見つめ、再び囁くように繰り返した。
「思い出せばいい……」
その姿に再び僕は背筋が凍りつき、胸の奥に言いようのない恐怖がじわじわと広がっていく。
僕の記憶は小学生の時からしかない。
気がつくと児童養護施設にいた。
覚えていたのは芦原 透という名前だけ。
けれど、どこか都会の空気には馴染めず、里親に引き取られてからもずっと違和感を抱えながら生きてきた。それでも大学まで出してくれた里親には感謝しているし、家を出た今でも連絡を取り合っている。
この村に来たのは偶然だったが、何かが僕をここへと引き寄せたような気がしてならなかった。
日が暮れ帰宅の時間になり、村の細い道を歩く。
外灯はひとつもなく、闇が次第に濃さを増していった。
夜は真の暗闇になり、耳に届くのは風に揺れる木々の葉擦れの音だけだった。
※
気が付くと私は森の奥へと足を運んでいた。
まるで呼ばれたようにそこに向かっている。
午前とも午後ともつかぬ曖昧な時間、空は灰色に滲み、周囲の音はひどく遠く感じられた。
木々は鬱蒼と茂り、湿った空気が肌にまとわりつく。やがて辿り着いたのは、見覚えのない池だった。
水面は濁っていて、まるで呼吸しているかのように静かに波打っている。鼻腔をくすぐるのは、土と水苔、そして腐葉の混じり合った生々しい匂い。
池の中央には、朽ちかけた祠がぽつりと佇んでいた。屋根の一部だけが水面に出ており、木製の橋はすでに崩れ、足場としては到底使いものにならない。
それでも、僕の足は自然と苔むした石の上を伝って池の縁に進んでいた。
風もないのに、背後の木々がざわりと鳴った。
足元の水際に、冷たい空気が吹きつける。
そして、どこか遠くから、誰かの声が聞こえたような気がした。
――ここは……私の場所だった。
頭の内側に響いたその声は、僕のものだった。
けれど、それは間違いなく僕ではなかった。
喉の奥がひりつき、息が詰まりそうになる。
その瞬間、僕はまるで何かに見下ろされているような錯覚に襲われた。
逃げなければ。そう思うのに、身体は微動だにしなかった。
静かな水面に映るのは、祠と、僕と、そして ――その隣に、もうひとつの影。
白く、細く、笑っているように見える顔。
僕は思わず目を逸らした。
目を覚ましたとき、天井が揺れて見えた。
息が荒く、胸が波打つように上下している。額からは汗が噴き出し、シャツの背中も首筋もぐっしょりと濡れていた。
まだ夜明け前のようだった。窓の外は深く暗く、木々の影が重くのしかかるように立ちこめている。
夢……だったのか?
そう思いながら、僕は体を起こし、無意識に足元へと視線を落とした。
土。
パジャマがわりのスウェットの裾から、床に乾いた土がこぼれている。泥のような湿り気はないが、爪の間にも、微かに土が入り込んでいた。
――まさか、本当に……?
ぐらりと世界が傾いたような感覚に、頭を押さえる。
現実と夢の境が、曖昧になっていく。あの場所に、自分は本当に行ったのか? あるいは私が――行ったのか。
そして再び、あの声が脳裏に甦る。
「ここは、私の場所だった」
強烈な既視感。
知っていたはずの景色。
忘れていた、何か。
けれど、思い出せない。頭の奥がじんじんと痺れ、鈍い痛みが残った。
※
夕暮れが、ゆっくりと校舎の廊下を染めていく。
西日に照らされて伸びる影が、ひとけのない教室を静かに横切っていく。
授業が終わり、生徒たちが元気に帰っていったあとの教室には、名残のような声の余韻だけが漂っていた。
胸の奥に残るざわめきを抱えたまま、僕は自然と校舎の片隅にある資料室へと足を向けていた。
――ここに来れば、何かがわかる気がした。
自分でも理由はわからなかったが、どうしても確かめずにはいられなかった。
資料室は二階の一番奥――かつて図書準備室として使われていた部屋で、今ではほとんど物置と化しているらしい。
扉は木製で、年季が入り、開くたびにぎい……と鈍い音を立てた。鍵はかかっていなかった。
中は、長年の埃と古紙の匂いに満ちていた。
天井の隅に蜘蛛の巣が薄くかかり、窓は半分だけ曇ったガラスで、差し込む夕日が部屋の埃を金色に照らしている。
棚には年代も記されていない紙束や古いファイルが、無造作に積み上げられていた。
まるで、誰かの記憶が重なり合った層が、そのまま時を止めて残されているようだった。
僕は黙って、ひとつひとつ、丁寧にファイルを引き出していく。
黄ばんだ新聞の切り抜き、手書きの報告書、風習に関する覚え書き……どれも断片的で、体系だった記録は見当たらない。
どれくらい探していただろうか。
日がほとんど沈みかけた頃、ふと手にした薄い冊子が、目に留まった。
《還座ノ儀ニツイテ》
くすんだ表紙に、墨のような手書き文字がにじんでいる。
背表紙はほつれ、指先で触れただけで崩れてしまいそうなほど古びていた。
僕は慎重にページを開いた。
そこにはこう記されていた――
「百年に一度、御神を還す」
他にも、震えるような筆致でこう綴られていた。
“御山村では、百年に一度、神の器を選び、祠へと還す儀式が行われる”
“儀式は必ず、〈双子の魂〉によって為されねばならぬ”
“器のうち一柱は迎え、もう一柱は送りとなる”
“もしこの儀式が途絶えれば、村は災いに呑まれ、やがてその姿を失う――”
ページをめくる指先が、ひやりと冷たくなった。
――双子の魂。
胸の奥に、得体の知れない感覚が引っかかる。
二年生の双子。ヒロとハルの無邪気な笑顔が脳裏に浮かぶ。
まさか……。
そう思いかけたとき、不意に――
その言葉が、鏡の裏側から響くように、別の記憶を揺さぶった。
双子は――。
誰の声でもない、私の声だった。
※
その日、村の唯一の居酒屋で、僕の赴任を歓迎するささやかな会が開かれた。
古びた木造の建物の中には、提灯の明かりが揺れ、炭火で焼いた魚の香ばしい匂いが漂っていた。
席に並ぶのは十人ほどの村人たちで、どこか皆、似たような顔立ちをしていた。親戚同士なのかもしれない。
「先生、よう来てくれましたな」
「うちの子も、あんたが来てから毎日楽しそうでねえ」
笑い声と湯呑の音が、ほのかに燻された柱の奥で響いていた。
けれど、僕はどこか、落ち着かない気分でそこに座っていた。
にこやかな村人たちの輪の中で、自分だけが何か別の空気をまとっているような気がした。
ふと、居酒屋の戸口が開き、ひとりの青年が入ってきた。
背は高く、浅黒い肌。髪は無造作に後ろで束ねられており、濃い眉の下にある目元はどこか涼しげだ。
服装は簡素なものだったが、身のこなしや佇まいに、都会の匂いが残っている。
店内の空気が、微かに揺れた。
僕が視線を向けた瞬間、その青年が立ち止まり、こちらをじっと見つめた。
「……礼?」
その声はほとんど息のように、押し殺したように小さかった。
だが、その場にいた数人が一斉に彼の方へ顔を向けた。
青年はすぐに目を伏せ、口を引き結んだ。
「……礼、かと……思った。すまない」
僕は思わず席を立った。
「礼って……誰ですか?」
青年は少しだけ口元を歪めたが、それは笑みではなかった。
「いや……ただの、昔の知り合いに……似ていた。気のせいだろう」
そう言いながらも、彼の視線は何かを探るように僕を見ていた。
名前を名乗ることもなく、それ以上会話を交わすこともなく、彼は店の奥へと姿を消した。
意味もわからず、ただ脳の奥で、どこかが疼くようだった。
会はその後も続いた。笑い声は絶えなかったが、僕の耳には遠く、どこか上滑りしていたが、酔いもまわらず、食欲も湧かず、ただ座っているだけで消耗していくような夜だった。
居酒屋の灯りはすっかり落ち、村人たちの姿もほうぼうに散っていく。
帰路、ひとりで歩く夜の道。
いつものように静かで、何も変わらないはずだった。
だが、僕の胸の奥には、得体の知れない違和感がじくじくと根を張りつつあった。
――礼。
なぜあの名前が、こんなにも胸に残るのだろう。
出会ったはずもない、記憶にない名前。
けれどその響きが、なぜか懐かしく、そして……痛い。
この村は……何かがおかしい。
ここに来てから何度も見る夢、あの池、沈んだ祠、そして私という内なる声。
思い出そうとすれば、霧がかかり、すり抜けていく。
だが、少しずつ確かに輪郭を持ち始めていた。
祠に行けば……いや、行かなくてはならない。
足が勝手に道を逸れていた。
暗い森の中、僕は手を震わせながら、伸びた枝をかき分けて進んでいた。
木々は幾重にも折り重なっている。
下草は湿り気を帯びてぬかるみ、踏みしめるたびに足元からじゅくりと音がする。
どこからか、ぽつぽつと水の滴る音が響き、辺りには常に薄靄のような気配が漂っていた。
森の奥、開けた場所にそれはあった。
池――濁った緑褐色の水を湛えた、沈黙の沼のような池が、そこに静かに横たわっていた。
そしてその中央に、半ば水に沈んだ祠がぽつりと佇んでいる。
祠の屋根は苔に覆われ、飾り瓦も崩れ落ちている。
水面には黒い波紋が静かに揺れ、まるで何かがその下で息を潜めているようだった。
呼吸が浅くなる。
肺の奥に湿った空気が重たく沈み、喉が無意識に上下する。
夢で、ここを見た。
この祠も、水の匂いも、靄の流れも、何もかもが既視感をもって胸を締めつける。
風はないのに、木々がざわりと鳴り、背後の森が、生き物のように蠢いた気がした。
そして、水面にふと目を落とすと、そこに自分がいた。
影のように薄く、けれど確かにこちらを見ている顔。
その瞬間、鼓膜の内側に、囁くような声が響く。
――ここは……私の場所だった。
その声は僕自身のものに聞こえた。
けれど、それは紛れもなく僕ではなく、私と名乗るもうひとりの自分。
ぞくり、と背骨をなぞるような寒気。
見下ろす足元の水面がひどく黒く、底のない奈落のように思えた。
そして、映る影の隣に、白く細い、笑っているような顔。
「……禁忌を、犯した」
不意に過去の声がよみがえる。
池のほとり、湿った地面に立ち尽くす僕の耳に、突然ざわめきのような声が流れ込んでくる。
現実ではない。
けれど夢とも違う――頭の奥から、直接響いてくるような、懐かしくも不穏な音。
ざっ、と水面が揺れ、祠の奥から光のない影が立ち上がったように見えた。
意識がぐらりと揺れる。
そして――。
「……禁忌を、犯した」
低く、重たい大人たちの声が、耳元で木霊した。
顔は見えない。
誰が言ったのかもわからない。
けれど確かに、何人もの声だった。
「これは、神の怒りを招く」
「送らねばならぬ。還さねば……あの子を」
「還座の儀は、まだ終わっていない……!」
ばくばくと心臓が喉元まで押し上げてくる。
耳鳴りのように、脳内で声がうねった。
そして次に響いたのは、澄んだ少年の声だった。
「違う……ちがうよ、僕がやったんだ」
聞き覚えのある声だった。
優しく、まっすぐで、どこか寂しげな響きを持っていた。
「透……」
別の声が、それに応える。
こちらは少し低く、けれど同じように優しくて、迷いに満ちていた。
ふたりの少年がいた。
白装束を着せられたその姿はそっくりだった。
けれど、微妙に違う。
ひとりは、ほんのわずかに目元に影を持ち、もうひとりは、光を背負っていた。
「……礼、ぼくは大丈夫だよ」
その少年――透が、もうひとりに向かって微笑んだ。
小さな笑みだった。
けれど、その笑みは、どこまでも静かで、凪いだ水面のように穏やかだった。
「ぼくが、おまえの分も背負うから」
その直後、場面が転じた。
水音。悲鳴。叫ぶ声。
誰かが抵抗するように身体をよじり、けれど――流される。
黒く濁った川に、小さな身体が沈んでいく。
「透……! やめて、透!」
泣き叫ぶ声が遠ざかる。
水面が閉じ、闇が全てを覆っていった。
僕は――いや、私は、その光景を静かに見つめていた。
視界が暗転する直前、水底で何かが目を開いた。
それは、芦原 透の瞳だった。
芦原 透には、かつて兄がいた。
双子の兄――芦原 礼。
二人は還座の器として、この村で育てられた。
その存在が「神を迎える器」となることは、決められていた運命。
一人は器として神を迎え、一人は神へ還される。
けれど、兄・礼は僕が「還される」と知って、それを拒んだ。
──あの日。
礼は、祠を壊した。
神を迎える器としての資格を失った――その瞬間、村の大人たちの顔が一斉に歪み、怒号が渦を巻いた。
夜の山に響くような低い声、涙をこらえて歯をむき出しに叫ぶ者、祠の前で拳を振り上げる影――。
誰もが礼を指差し、責め立てている気がした。
まるで世界が急にひっくり返り、言葉も空気も冷たくなった。
少年だった透は、その中心で身動きもできず、息を詰めて立ち尽くしていた。
「……僕がやったんだ」
透が小さくそう言ったとき、礼の目が見開かれた。
次の瞬間、透は自ら儀式の川へと歩み出た。
祭壇で燃える火。鐘の音。衣の裾が水に濡れ、身体が冷たさに沈んでいく。
自ら選んだ「還る」という道。
──それがすべての始まりだった。
ぼろぼろの足音が、背後から迫る。
振り返ると、そこにはあの老婆が立っていた。
「……思い出したかい、芦原 透」
声はひび割れた壺のようで、しかしどこか、安堵すら滲んでいた。
「あの日、礼が祠を壊したあの時から、還座の儀は終わっていたんだよ」
「……僕は……僕は、礼を――」
「……お前が送られたあと、儀式をやり直そうとした。けれど、すでに祠は壊れ、神は、お前の中に降りた」
「礼は……?」
「一人は器として神を迎え、一人は神へ還される。これが儀式の理だ」
池のほとり。森の静寂を破るものは何もなく、ただ己の鼓動だけが全身に響いていた。
「……礼」
口に出してみて、その響きがどこか懐かしく喉を震わせた。
視界の奥に浮かぶ祠の影が、静かにゆらぎ始める。
その奥に立つのは――かつての自分。
否、私。
夢の中で幾度も見た、もう一人の自分。
川に沈み、儀式に捧げられた器。
死んだはずの子供。
だが、確かにここに在る。
湖面に映る自分と、もう一人の自分が、ゆっくりと重なっていく。
意識が引き込まれていく。
水面がゆっくりと割れ、私が浮かび上がる。
今の自分に、かつての私が問いかける。
「戻ってきたんだね、僕」
「……ただいま、私」
その瞬間、風が吹き、木々がざわめいた。
祠がかすかに鳴動する。
村の空気が変わった。
懐かしいものが、ようやく戻るべき場所に戻ったような感覚。
儀式は、いま、完成した。
神が降りる。
祠が静かに輝き、何もなかったように森に溶けていく。
──翌朝。
教室に、私はいた。
何事もなかったかのように、机にノートを広げている。
窓の外には、静かな山の緑と、柔らかい光。
桜の花がひらりと風に乗り、窓辺をかすめる。
「先生、おはようございます」
いつものように子供たちがやってくる。
私は微笑み返す。
ただ、ふと指先に視線を落とすと、爪の間に残る泥が、まだ洗い落とせていなかった。
「先生、また来てくれてよかった」
ハルがそう言って笑う。
ヒロも続ける。
「先生、今日は何を教えてくれるの?」
教室の隅――窓ガラスに映る自分の顔が、ほんの僅かに揺れて、誰か別のものが覗き込んでいるように見えた。
私は微笑む。
その笑みは、どこか“私”でも“僕”でもない、だれかのものだった。
村は今日も静かだ。
何も変わらない。誰もその違和感に気づかない。
ただ、すべては――もとどおり、いや、あるべき姿に還っただけ。
還座 了