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短編

青春の終わりと魔王

作者: 相浦アキラ

 27だったか28だったか。とにかく30手前だった。あの頃の僕は。心身の衰えの実感は特段無かったが、スケート選手ならとっくに引退している年齢だし、実際衰えてはいたのだろう。いつの間にか成長が終わりを迎え、老いが始まっている。そんな影のない恐怖が付きまとい出していた。普通ならば結婚したり仕事で結果を出して衰えを騙し騙し生きていくのだろうが、定職に就かず浮ついた話も一切無かった僕はいても立っても居られなくなってしまった。


 僕は自分の事を誰よりも価値が無い人間だと思っていたので、人よりも稼ぐとか人よりも幸せになるとかそういうつもりは無かった。目の前の仕事を嫌々やり過ごす事はしても、何かを積み上げるという事を全くやって来なかったし、やりたくもなかった。老人のように達観していたし、全てがどうでも良かった。

 しかし前述の30前の焦燥が作用したのか、僕は珍しく「このままじゃ駄目だ」という気分になっていた。「今からでも遅くない。また20代なんだから間に合う筈だ。ちゃんと働いて、ちゃんと稼いで、ちゃんとした人生を歩み直すんだ。頑張ったら彼女だって出来るかも知れない」


 僕は何かにとりつかれたように張り切っていた。僕があんなに張り切る事はそれまで無かったし、きっとこれからも無いのだろう。ハローワークの求人は欠かさずチェックし、毎週のように面接を受け、フォークリフトの免許も取った。「遅れて来た青春」とでも言おうか、僕は子供のように無我夢中で突き進んでいた。


 そんな努力が実を結んだのか、地方の物流倉庫に就職が決まった。大型トラックから下ろした荷物を大まかな住所に分けて保管し、小型トラックに詰め替えて配送するという、物流の中継点を担うような仕事だった。月収は20万程度と当時にしてはまずまず。準社員なのでボーナスは無いが、一年後には正社員登用制度があり、基本給も多少上がるとの事だった。

 職場の人は明るくてハキハキした人が殆どで、良くしてくれた。僕の方も少しでも早く仕事を憶えようと、単語カードに荷物の住所と対応したバース番号を書き込んで休憩時間に眺めていたら、期待の新人と褒めそやれたりもした。悪い気はしなかった。僕は明るく輝く未来に向かって走り続けているつもりだったが、そんな僕のスタートダッシュは長続きしなかった。


 最初に違和感を覚えたのはいつだったか何だったか、あまり覚えていない。表面上は仲が良さそうに見えて、陰で互いの悪口を言い合うような人間関係だったか。普通の会社ならすぐに求められる契約書へのサインを何故か一月近く引き伸ばされ、やっと契約書が出ると酷く安い日給で時給換算すると750円程度な事に気付いた時だったか。来年の正社員登用枠は既に戦力となっている僕の二つ上の先輩でほぼ決まっており、正社員になるには最低でも二年以上かかる事を知らされた時だったか。求人票に「残業2時間程度」と書いてあったのに実際は毎日4時間残業で夜10時まで働かされ、休日出勤もほぼ毎週あり、家と職場を往復するだけの毎日に疲れ果てた時だったか。


 そういった様々な失望が積み重なり、初出勤から3カ月で僕はやる気を失いつつあった。仕事のミスも増え、毎日のように何かしら叱られていた。精神も病むようになり、退職を考えるようになっていた。僕を導いてくれていた青春の光は陰りを見せ、「やはり僕は駄目なんだ。僕なんかがいくら努力しても一生報われる事は無いんだ」「僕はこのまま何も出来ないまま老いて死んでいくんだ」という諦観が僕を埋め尽くしていた。それでもまだ黄昏れの残り香のような薄橙色の光は僕の中にぼんやりと残っていて、僕はまだ将来への希望を捨てきれずにいた。


 派遣で入って来た森口さんと出会ったのはそんな折りだった。

 老いた美青年というのが、森口さんの第一印象だった。

 顔立ちは整っていてスタイルも良く、物腰も丁寧でどことなく高貴な気配すらあったが、40半ばくらいだろうか。年はもう大分いっていた。人生の疲れを象徴するように皺が目尻や頬に刻まれていて、いつも覇気のないくたびれた表情をしており、細かい仕事はそつなくこなすが体力はあまり無かった。そういう訳で「あいつ暗いしやる気ないね」と職場での評判は悪かったが、僕は森口さんに不思議と好感を持っていた。滅多に人を好きにならない僕だったけど、森口さんだけは好きだった。


 何より森口さんの飾らない、雲った夜空のような芯の通った暗さが好きだった。彼は辛いときに無理して平静を装ったりしないし、つまらないのに愛想笑いをしたりしなかった。そういう真っ直ぐな暗さに触れていると、嫌いになりつつあった変に明るい職場の連中を忘れられる気がした。……しかし、僕はそんな森口さんを裏切ってしまった。


「こんな事をしていると、何のために生きているのか分からなくなります」


 二人でお中元の入った箱を仕分け終わり、一息ついている時だった。

 森口さんの溜息のような声に僕は一瞬固まり、何と返していいか分からず、冗談を言った人に対していつもそうしているように反射的に声を立てて笑っていた。


「……ごめんなさいね変な事言って。松下さんはまだ若いのに」


 寂しそうに俯く森口さんの横顔にハッとなり、僕はすぐ後悔した。どうして笑ってしまったのだろう。僕だって何の為に生きているかもわからないし、将来の希望も何もないと言うのに。森口さんとなら分かり合えたかもしれないのに。どうして森口さんの苦しみをどうでもいい冗談と同じように扱ってしまったのだろう。……もしかしたら、森口さんも僕の苦しみを分かってくれていたのかもしれないのに。僕の奥底に沈んだ暗がりを好きになってくれたのかも知れないのに。なのに……僕は最低の事をしてしまった。


 渦巻く後悔に心ここにあらずのまま何とか仕事をやり過ごし、薄汚れた白の軽自動車で県道の夜を突っ切り、帰宅の途につく。食事を済ませて浴槽に一人沈んでみても、後悔は僕の中に淀んでいた。

 世間一般で見れば、明るく元気にハキハキするべき職場で観念的な愚痴をこぼす方が間違っていて、それを笑ってごまかす僕の対応の方が正常かもしれない。しかし僕には……彼の苦しみを哂った僕の罪は窃盗よりも殺人よりも何よりも重い罪に思えてならなかった。


 謝らなければ。森口さんに。


 翌日。昼休みが明け、森口さんが華奢な作業服で音も無くやってくる。軽く会釈するだけで会話も無く、無機質な日用品が入った化粧箱の仕分けが始まる。僕は……謝罪を決断した人間に特有なのだろうか。ある種の神妙な、堂々とした心持ちのままチェック表に鋭く目を通し「3番」「1番」「6番」と森口さんに化粧箱を手渡していった。やがて仕事が一段落つき、一息つくタイミングで意を決し、僕は切り出す。


「森口さん」


「はい」


「昨日は、笑ってしまってすみませんでした」


 傍から見ればただの平謝りだったろうが、僕なりに誠意を込めたつもりだった。そして少しの沈黙が流れて、それから森口さんは飲み込むように小さく頷き「いいんです。気にしてませんから」とだけ零していた。彼の口元は心なしか優し気に緩んでいるように見えた。


「あの……森口さん」


「はい」


「もしよかったら、今度カフェにでも行きませんか?」


 そうやって僕が森口さんを誘ったのは、ちょっとした思い付きに過ぎなかった。はぐらかされるのを覚悟した、社交辞令の延長のような誘いで、一種の好意の表明でもあったかも知れない。対する森口さんはというと断るでもなくはぐらかすでもなく、細い顎で軽く頷いて了承してくれていた。それから森口さんの方から「今週の日曜日とかどうですか?」と具体的な話が進んでいき、駅前のカフェで会う事になったのだった。


 そして約束の日曜日。居てもたってもいられなくて約束の30分前にカフェについた僕は、チビチビ冷たい水を飲んだり、たまに思い出したように本を読んだりして待っていた。森口さんがカフェの木目扉を開いたのは約束の3時5分前。灰色のカーディガンを緩く着こなし、白のスラックスをタイトに決めていた。かなりオシャレだったので、僕は自分のくたびれた白シャツと下品なGパン姿が恥ずかしくもなった。誤魔化すように軽く会釈を交わし、僕は日替わりお勧めブレンドを、森口さんはエスプレッソを注文した。それからこのコーヒーは美味しいとか香りがどうとか言い合いながら(森口さんはバリスタを目指していた時期もあるらしく、コーヒーに詳しかった)ゆっくりと時間が流れて行く。……森口さんが切り出したのは、僕のカップが殆ど空になった頃だった。


「松下さん。私は思うのです」


 淀んだ瞳と軽く目が合って、また軽く逸らす。それから彼の視線はすっと僕の肩の辺りに向かっていた。


「この世界は滅んだほうが良いのではないでしょうか」


 僕はまず身構え、また同じ過ちを繰り返さないように反射的に唇を噛み締めた。それから言葉を受け止めた合図をするように鼻で深く息をして、ゆっくり俯いて、彼の言葉を時間を掛けて咀嚼していった。コーヒーの残りを傾け、ミルクと砂糖に隠れた苦みを掻き分けていく。しかし考えても考えても、何も頭に入ってこない。


「どうしてそう思うのですか?」


 小さな声でそう返すのがやっとだった。


「形ある物はいずれ滅びます。遅かれ早かれ……この世界は滅びるのです」


 知識としては知っていた。何十億年か後に、太陽は膨張して地球を飲み込んでしまう。その頃には僕はとっくに死んでいるので、大して気にした事もなかったが。

 

「全てが跡形もなく滅びるのです。この国も、この社会も、何もかもが」


「はあ」


「原因なんていくらでも考え付きます。自然災害だって彗星の衝突だって核戦争だって何だっていい。遅かれ早かれ滅びるのです。なのにこの世界のシステムも、社会も、人間達も、何もかもが、この世界が永続すると心のどこかで信じているのです。そう思えてなりません。そして現に、今この瞬間も……破滅など存在しないかのように動き続けている。下手すると自分の死すらも忘却の彼方に置き去っている。その事が私には、どうしても我慢ならないのです」


 森口さんの声は切羽詰まった調子でもなかったが、芯の通った諦観に押しつぶされたように低い声だった。声はまた続いた。


「例えるなら、今にも崩れそうな積み木が、バランスを崩したままで凍り付いたように止まっている……私がこの世界に対して抱いているのは、そんな不自然さです。世界は凍り付いたまま死に続けているのです。この止まった時間を進めて、世界を本来あるべき自然の姿……完全にフラットな状態に一刻も早く戻すべきだと私は思うのです」


 森口さんの言葉を何とか飲み込みながら、僕はあるおかしな妄想に囚われつつあった。

 ……もしかしたら、森口さんは世界を破壊するだけの力を実際に持っているのではなかろうか。その妄想は絶対にあり得ない与太話に過ぎなかったが、それでも奇妙な確信を伴って僕の腑に落ちてしまうのだった。あるいは……森口さんがこの世界の外側の存在だと考えれば、絶対に妄想だとも言い切れないかもしれない。


 つまり、こういう事だ。絶大な力を持った森口さんはこの世界をいつでも滅ぼす事が出来るし、実際にそうしようと思い立ったが、人間として生きて来た彼が自然と獲得した常識やら倫理やら罪悪感やらが邪魔をして中々実行に移す事ができず、同じように世界に後ろ暗い思いを持つであろう僕に背中を押してもらう事にした。……そう考えると辻褄が合う。


 もちろんあり得ない話ではあるが、もし仮にそんな成り行きだとしたら……森口さんが本当に世界を滅ぼそうとしているなら、僕はどうしたいのだろう。僕はどうすべきなのだろう。


 僕は世界が滅びるべきかどうかなんて考えたことも無かった。いや、考えた事くらいはあったかもしれない。しかし、真剣に考えた事は間違いなくなかった。どうせ自分にも誰にも世界を滅ぼす力なんてないし、僕が生きている間に世界が滅ぶ事もないと思っていた。しかし、現に今世界は滅ぼされようとしている。そして世界の命運は僕の手の中に握られている。……もしそうだとしたら。


 目を閉じてまた開いて、水を少し飲む。それでも胸の中に灯った熱は鼓動を打ち、どこまでも広がっていく。確かに森口さんの言葉にも一理あるかも知れない。世界は滅んだほうがいいのかもしれない。しかし、そういった勘定とはまた別に、僕の中で沸々と燃え上がる輝きがあった。


 僕はこの世界を守りたかった。守りたくて仕方なかった。それは汚れを知らない子供の正義感に似ていた。理屈ではない。崖から落ちそうになっている誰か助けたいと思う様に、僕はただただこの世界を守りたかった。世界が醜いとか美しいとか、間違っているとか正しいとか、そんな事はどうでも良かった。結果的に守れなくても良かった。ただ僕はこの世界を守ろうとする者でありたかった。この世界を守る意志そのものになって、今この瞬間に燃え盛る事ができれば、それ以上は何もいらなかった。それは最初で最後の青春の輝きだった。下らない連中や最悪のブラック企業の為に燻ぶって来た僕の青春が、最後の最後に行き場を見つけて激しく揺れ盛っているようだった。


「僕はそうは思いません。この世界は滅びるべきではないと思います」


 自分でも驚く程声は通っていた。


「……そうですか」とカウンターの方に目をやる森口さんはがっかりした風でも無かったが、もう僕の方を真っ直ぐ見る事はなかった。

 それから当たり障りのない会話をして、僕がグラスの水を飲み終えてそのまま解散となった。


 その一月後、森口さんは体調を崩して仕事を辞め、僕も後を追うように退職した。あれから彼とは会っていないし、多分これからも会う事はないだろう。……今思い出してみるとバカバカしい話だ。ただの一人の人間に世界を滅ぼす力がある訳がなかった。そもそも、こんな世界とっとと滅ぼした方が良かったのではないか……無駄に年を喰った今となってはそうも思える。


 しかしそれでも、僕の最初で最後の青春が散り際に放っていたあの輝きを心に描いてみると、僕はどうしてか誇らしく、愛おしく、懐かしくて堪らなくなってしまうのだ。


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