異変と協定
その衝撃は渚と深夜の間に深い溝を作り、まるで縄張りのラインを示すかのように刻まれていた。こうなる事を予見していたように、渚は手で煙を払いながらため息をついた。深夜はというと、渚を守るかのように立つ土煙の中の人影をじっと見つめていた。
「帰れ。鵺月深夜」
ズンと低く響く声には、憎しみと殺気が込められていた。土煙の中からゆらりと影が伸びる。深夜は声の主の姿を捉えた。棘のある言葉を放った青年は、海のような青い髪の毛をはためかせている。
「はぁ……水早」
渚が水早に声をかけると彼は目を一度閉じ、まるで人を殺すかのような鋭い眼光を潜めた。そしてもう一度目を開けると、愛おしいものを見るような、いつもの優しい眼差しで渚に振り返った。鞘から抜いていた刀をかちんと収め肩に担ぐ。
「ごめん渚。聞き耳立てるつもりはなかったんだけど、俺の嫌いな気配が近づいていたもんでな。許してくれ」
「いいよ、でももう少し穏便にしてくれると助かるかも。せっかくの絶景スポットが台無しだ」
「あ、確かに。ごめん次からは気を付けるよ」
月明りと、最も朝に近い夜の底で、純白のような主従の二人が言葉を紡ぐ。しかし、永遠ともいえる数分の時間は、すぐに終わった。
「もうずっと夜なのに、絶景スポットなんて気にしてどうすんの。」
ド正論である。うげぇと舌を出し、信じられないというようにため息をついた後、深夜は再び口を開いた。
「ねぇ、暁の龍騎士。そんなに怖い顔しないでよ」
「……なんだ、まだ居たのか鵺月深夜。帰れって言ったよな。なんでまだ居んの」
水早は潜めていた眼光を再び覗かせ、深夜に淡々と告げた。その眼差しを真正面から受けた深夜は、にっこりと目を細めて不気味に笑い、服の袖をひらりと揺らした。
「へぇ……ねぇ、渚(」
「ん?」
「まだ家族ごっこやってんだ」
「!」
「貴様……!」
深夜に『家族ごっこ』と言われた渚は目を見開き、水早は怒りを露わにした。当然だ。
渚にとって、自分を支えてくれる部下達は何よりも大切な家族そのもの。何よりも守りたいものだ。水早にとって、同僚のみんなは主を同じにするもの。そして渚は人生を共にするもの。『暁』に所属する全ての者が、同じ事を口にするだろう。それが屋敷に住む部下であろうと、昼や夜に潜伏している諜報員だろうと、皆同じなのだ。
けらけらと深夜は不気味に笑う。渚を嘲笑い、水早を馬鹿にして深夜は月明りをスポットライトに黒髪を輝かせる。きらりと光る金色の瞳に、十字に刻まれた瞳孔が怪しく揺らめいている様子は、まるでミュージカルの主役ようだった。
「いつまで夜でいるつもりなのかな、渚。この国の現状を知らない訳ないよね。だって君は管理者だから」
渚は静かに耳を傾けていた。深夜の言っている事が分からない程、渚も愚かではない。そして一度大きく息をついた後、渚は水早に言葉をかけた。
「水早。少し二人にしてくれ。深夜と話したい事がある」
水早は渚の言葉を受け止めたが、その場を離れたくないといった様子だ。不機嫌に眉を顰めている。渚はそんな水早を見て少し微笑んだ。
「大丈夫だよ。絶対危険な事にはならないから。それに、君も知っていると思うけど、僕は君より強いよ」
「……そう、だけど。あいつは、お前を傷つけた奴だぞ」
「そうだね、でも僕は朝の問題を解決する義務がある。絶対帰るって約束するから」
「…わかった。絶対だぞ」
水早は渋々といった様子で姿を闇に隠した。移動したらしく、渚が目を向けると屋敷の玄関前に佇んでいるのが見える。
「…もういいか?」
深夜は渚達が話している間ただ黙って水早が去ってくれるのを待っていた。気配が遠ざかったのを感じたのだろう、二人きりになったらすぐ渚に声をかけた。
「うん、大丈夫。待っててくれてありがとね、深夜」
渚が素直に感謝を口にすると、深夜は少しだけ口を窄ませて目を逸らした。これから話す事が、他の人物に聞かれてはならないと分かっているからだ。深夜も、渚も。
「別に」
「先に僕に言わせて。この五年間、この国を守ってくれてありがとう」
深夜は目を見開いた。驚いた衝撃で話そうと思っていた言葉が一気に吹っ飛んでしまった。深夜が黙っていると、渚は構わずまた口を開いた。
「この国が今も存続しているのは、君がいるからだ。百妖軍は流石に強いね。朝や昼も軍を持ってはいるけど、やっぱり夜が一番強い。君が食べてくれたんでしょう?」
渚の瞳が深夜の姿を捉える。月明りが雲に覆われて、辺りは夜に沈む。手に持つ明かりが無ければ何も見えなくなっていただろう。
静寂が訪れて深夜はようやく、渚が言った事に答える事が出来た。
「別に」
「あははっ。こんだけ溜めといてそれだけ?」
渚は思わず噴き出した。
「うるさい。俺がやりたくてやってた事なんだから、礼を言われる筋合いはない」
「まあ確かに頼んでないけど、それでも感謝してるんだよ。朝…というか僕は中途半端な存在だからね」
雲が晴れて、またもや月光が二人を照らす。渚は少しだけ目を伏せて、自嘲するように笑った。
「朝である渚は中途半端じゃないと意味無いんだからそれでいいんだよ。それに、確かに百妖軍は俺の優秀な武器だけど、朝や昼とは規模が違う。夜が狂暴なのは当然だ」
二人の言う百妖軍とは、夜の主である鵺月深夜が頭領を務める軍隊の名だ。夜の世界に生きる妖が多く所属しており、団結して行動をしている。今や群れる事を嫌う捻くれた妖を除き、朝や昼に所属している以外のほとんどの妖が加入しており、その規模は八咫烏よりも大きくなっていた。
「本題に入ろう」
深夜が会話を切り上げ、渚の人外じみた瞳を見つめる。渚も微笑んでいた顔を戻し、深夜に向き直った。
「昼の管理者が死んだ」
瞬間、渚が大きく目を見開く。どくりと心臓が大きく鳴る。最後に会ったのは何時だっただろうか、渚は記憶の引き出しを漁った。
__あぁ、そうだ。最後に会ったのは、あの戦争が始まる前だったっけ。
白髪の温和な紳士で、名前は確か華宮桐人と言ったか。目を細めて笑っていた時の皺から察するに、寿命だったのだろう。
「…そっか」
「それだけか」
想像通りの反応だったのか、深夜がポツリと言葉を零す。
「深夜は会った事あるの?」
「ある。戦争前の会合で。というかお前も居ただろ」
「そうか、あの時君も居たね。夕方の会合だったから君も参加できたんだっけ。懐かしいな」
深夜は何度目かわからない溜息をついた。
「問題は、新たな昼の管理者が発見されていない事だ」
「え…どういう事」
渚は困惑する。
この世界の管理者というのは、次の管理者を任命できるのだ。勿論、同時に同じ役職の管理者は二人は存在しないので、任命するのは大抵当代の管理者が死ぬ時だ。死の淵に立たされた時、管理者は持ちうる全ての権能を鍵に込めて、次代の管理者へ引き継ぐ。文字通り、鍵を差し込まれるのだ。
渚は、その仕組みを一番理解していた。おもむろに自分の心臓部分に手を当てる。死ぬ目際でないと鍵の譲渡が出来ないのは、世界に鍵を差すこと自体が老いても簡単にできる事と、権能を渡すことで起こる記憶のすれ違いを回避する為だ。世界のシステムにより、譲渡は簡単には行えない。
「死んだのは今しがただ。まだ誰も気づいていないだろう。華宮桐人はもうずっと昼を呼んでいない。それはお前が朝を呼ばないからだ。毎日は循環していた筈だったのに、お前が止まるから。後が続く筈の昼もお預けを食らっていたんだ」
「知っているよそんな事。僕だって、本当に朝を求めているんだ。でも、無いんだよ。僕には、鍵が」
「……」
渚の言葉に偽りは無かった。この国の民達が朝を待っているのと同じように、渚もまた、本当に朝を求めている。しかし深夜は渚の言葉を聞いて首を振り、静かに言葉を零す。
「違う、あるよ。渚、あるんだよ…。朝の鍵…黎明の鍵の所有者は、お前だ」
「なんで、深夜にそんな事わかるの」
「俺は宵闇の鍵を持ってる。夜の管理者だ。管理者には管理者同士の繋がりが生まれる。お前は知らないかもしれないが、俺と桐人じいさん、それからお前はどうやっても切れない縁があるんだよ。俺は長い事管理者をやってるからな。渚よりもその繋がりを感じる事がある。桐人じいさんが死んだって事を知ったのはその繋がりのせいだ。つまり、俺が渚に管理者の繋がりを感じている時点で、お前は管理者である事に違いは無い」
渚は目の前の青年が何を言っているのか理解できなかった。
__管理者同士の繋がりなんて、僕は感じたことない。
渚には、他の管理者の事は、世界のシステムに組み込まれた哀れな者達という認識しかなかった。他の事を考える前にやらなければならない事が山積みされていたせいで、気が回らなかったのもある。
深夜への返答に迷っていると、彼はまた声を上げた。
「渚、自分でも分かってるんだろ。過去を悔いているんだろ。もう諦めればいいじゃん。全て諦めて、受け入れるんだ。暁を家族ごっこって言ったのは謝るよ。でも、もう割り切ったら?このままじゃ、お前が朝を呼ぶ前にお前が死ぬかもしれない」
深夜が渚の方へ歩き出す。足取りはゆっくりで、深夜が渚の手を取るまでのタイムリミットのように感じられた。
__諦めれば、楽になる…か。確かにそうかもしれない。もうどれ程、過去の自分を殺したか分からない。正直もう疲れた。
深夜がもうすぐそこまで来ている。月光のスポットライトは、この哀れな管理者達の紡ぐ劇の続きを求めていた。先程まであった雲も、もう見当たらない。
__諦めて、僕がただ朝を呼ぶ傀儡になってしまえば、それで…。
渚は必死に自分を説得しようとした。説得しようとして、そして失敗し続けている。渚は自分が管理者になったその瞬間から、自分を抑え込もうとした全ての思考を排除して、今の渚は出来上がっているのだ。
__馬鹿。守りたいものは何か忘れたのか?
丸め込もうとする詭弁に、渚の本性が刀を抜く。
気づいたら、渚は自分の領域から呼び出した刀を抜いて、深夜の首元に切っ先を向けていた。
「やめて深夜。僕を守ろうとしないで」
「……」
「僕の家族を悪く言うのもやめて。僕の部下は皆優秀だし、ちゃんと自分の意志を持ってる。僕の傍にいてくれるのは皆が優しいからだ」
「お前の事を曙栞だと思っていても?」
「確かにね。僕の記憶と彼らの記憶は一致しない部分が多い。僕はどうやらずっと前から主だったようだし、僕の戦闘技術も護身用に鍛えたものだと思ってる。でも、僕の記憶では、皆は昔から家族で、一緒に訓練した兄弟だ。僕の価値がほんの少し上がったところで僕らの関係性が全部消えてなくなる訳じゃない」
「いつかお前は、その家族にすら忘れられるんだぞ…」
深夜は眉を顰め苦し気に言葉を零す。その表情を見て渚は驚いた。妖で人間よりも達観している目の前の青年が、人に忘れられるのを恐れているように悲し気に呟くからだ。しかし例え深夜がそう思っていても、渚は違う。人に忘れられるのは、渚にとって本望だ。
「構わん。むしろ忘れてくれるなんて嬉しいまである。僕のせいで苦労かけたんだ。僕が死んだら新たな人生を歩んでほしいよ」
渚はそう言うと持っていた刀を鞘に納め、自分の領域に再び仕舞った。
「僕はね、深夜。過去の僕が起こした全ての事を呪っているよ。栞を死なせた事。黎明の鍵を使う事が出来ない事。家族に傍にいてほしいと願った事。悔いても悔いても足りない。でも、でもね。僕は、栞を忘れる事が出来ない」
「分からんな。お前は何を望んでるんだよ」
先程まで首元に刃を向けられていたとは思えない程冷静な声で深夜は問う。渚は一度深呼吸をして、薄く色づいた灰桜色の柔らかな唇から言葉を漏らした。
「栞を、忘れない事…それから、家族を守る事」
凛とした声だが、その言葉はほんの少しの悲しみを孕んでいた。忘れてほしくないと願った元の主。忘れてほしいと願う今の主。朝を司る管理者は、随分と願いの方向性が違うようだ。
「そうかよ。俺にも望みがある。まずは新たな昼の管理者を探す事だ。お前に原因があるかもしれないんだから、付き合ってもらうぞ」
「分かった。最初からそう言えばいいものを…わざわざこんな回りくどいやり方してさ」
「ふん。お前が如何にも病んでそうだったからからかっただけだ」
深夜は眉毛を寄せてそっぽを向いた。髪の毛から覗く金色の耳飾りがゆらりと震えた。渚は深夜の顔を見たまま静かに笑った。
「優しいね」
「何処が?お前頭おかしいよ」
かくして朝の主と夜の主は「新たな昼の主」捜索の為、歪な形の協力関係を築くことになった。