夜の到来
街の灯りを一望できる崖。其処に建つ大きな屋敷の窓から、一人の人物が街を眺めている。
彼、とも彼女とも見える容姿のその人物は、そんな街並みをじっと見て静かに息を吐いた。
__もう何年、夜明けを見ていないんだろう。
決して口には出さない。すぐ傍に自分の側近がいるのだから、余計な事、彼らが知らなくていい事は言わない。
部屋の隅からこちらを見ている秘書のような従者が、ようやく口を開いた。
「渚、今日の予定。まず街路灯製造会社の新商品の打ち合わせ。その後医療機器メーカーショ―ルーム見学。帰宅後に八咫烏の作戦記録の監修がある」
海のような美しい青い髪を腰まで伸ばし、緩く三つ編みされている青年は、こちらに問いかけているがその場から動く事は無い。
白いスーツジャケットに梅紫と曙色でグラデーションのかかったネクタイ、深海のような青のベスト、下は裾にスリットの入ったパンツに磨き上げられた革靴を合わせた青年は秘書というよりは王に仕える騎士のように見える。左腕に通された梅紫の腕章が、彼の所属する組織を表していた。
騎士の青年は空間に浮かんでいるホログラムを片手で操作し、もう片方の手は肩に担いでいる刀に添えられていた。ずっしりとした重厚感のある刀は深海色の鞘に金糸が龍のように上品にデザインされており、彼と同じくらいの迫力を感じさせる。
渚と呼ばれた主人が従者である青年の言葉を無視していると、彼はもう一度口を開いた。
「主」
宙に浮かぶホログラムを指で弾いて消し、青年は刀を担いだまま渚に近づいていく。僅かな足音を感じて渚はゆっくりと振り返った。
年齢は十代後半から二十代前半くらいだろうか。梅紫の瞳に、この国では珍しい蜜柑のようなオレンジがかった虹彩。肩まで伸ばした青い黒髪から夜明けの太陽を想像させるような曙色のインナーカラーが眩しい。髪色と対比するように身に纏う衣装は白く統一され、気品のある軍服のようなデザイン。下半身にはインナーカラーと同じ色で一本ラインが入ったパンツの上から、それを覆い隠すほどの長さで羽のような模様が入った腰布を巻いている。
どこからどう見ても、普通とは言い難い容姿をしている。それが渚という人物だ。
「聞いてるよ。医療機器メーカーは老舗だよね。資料は一応印刷しといて欲しい。それから作戦記録の監修には御庭番を同席させる。皆を呼んどいてくれる?」
「了解」
渚がしっかりとした口調で青年に主としての言葉を言い放つ。忠実なる騎士が予定を調整する為にホログラムをいじっていると、渚は青年を人外じみた瞳でじっと見つめながら再度口を開いた。
「ごめんね水早。僕は大丈夫だから、そんな顔しないで」
その時、従者水早はやっと自分が険しい顔をしていたことに気が付いた。そしておもむろに刀を高級感あふれる濃紫色に金糸の模様が施された絨毯に置き、渚の前に膝をついた。突然の行動に渚が何も言わずにいると、水早は渚の手を取って、自らの額に寄せた。
「主、主…俺の唯一。頼むから、御自身の身を案じてください。御身の全てが、我々の生きる理由なのです」
悲痛な声で思ったそのままを口に出すと渚は驚いたように目を開いて瞬き、そしてふわりと微笑んだ。口元の黒子が妖艶な色気を醸し出す。
「水早、そんなに畏まんないでよ。僕達、家族でしょう?」
水早の言った事に答えず、渚は自然に話をすり替えた。実際問題、主と従者という契約関係を渚はあまり良く思っていない。確かに拾ったのが主で、拾われた者が従者だとしよう。だが、最初の出来事がどうであれ、一緒に過ごした時間は家族同然なのだ。渚は自分を支えてくれる従者を、何よりも大事にしている。
そしてそれは、従者も同じ。
「家族だから言っているんだ。これ以上夜明けが来なければ、本当に渚の体が死んでしまう…なぁ、家族にも理由…言えないのか」
従者としてだけではない。家族として、水早は渚の身を案じていた。夜明けが来なくなってから、渚の体が少しずつ衰弱していっている事に気づいていたからだ。
渚は、黒と橙の髪の隙間から水早の海色の瞳をじっと見て、そして静かにふっと顔を背けた。水早がちらりと見た渚の表情は、何かを諦める直前のようで、手を離したら崩れ去ってしまいそうな、そんな顔をしていた。
「…言え、ないよ。これは…僕の我儘、僕の傲慢が招いた事だ。君達を巻き込みたくない」
「それはもう何回も聞いた。家族なら俺達の命だって賭けてみろ。渚一人じゃ無理な事も、俺達が居れば_」
「いや、違う。そうじゃないんだ」
渚は水早の言葉を遮ってはっきりと言った。そして顔を夜の広がる街に向けて、掴まれていた手を先程よりも強く握り返すと、水早が同じように渚の手を両手で抱きしめる。絶対に話さない、という気持ちが言葉にしなくても溢れ出ていた。二人の体温がじんわりと交わっていく。
暫くして、渚は口を開いた。
「約束する。僕は必ず、夜明けを導いて見せるよ。水早、僕を信じて」
屋敷の一部屋の灯りだけが二人の様子を見守っている。
午後九時、仕事を終えた渚は一人で屋敷の外へと出た。季節は冬に差し掛かろうとしており、この時間帯の夜は羽織るものが無いと寒い。一息つき息を吸うと、澄んだ空気が肺に流れ込んでくるのを感じた。渚は水早が持たせてくれた上着に袖を通しながら目の前に広がる庭を眺める。
屋敷をぐるりと一周する大きな庭には、等間隔で足元に灯りが配置されており季節の花々をぼんやりと照らしている。尤も、時間が過ぎようと景色はずっと夜なので庭師が手入れしてくれた花の本当の色を確認することはできないのだが。
渚の住む屋敷は、国の中でも大規模な丘の上にぽつんと建てられている。国の最も東にあるその丘は「薄明の丘」と呼ばれ、朝日が最も美しく見られる場所として有名だった。丘の隣には、「星影の浜」と呼ばれる浜辺があり、水平線に広がる海に星々の明かりが反射している。夜明けに太陽が昇ってくる様は美此世で最も美しい景色とされ、昼や夜にはない「朝」ならではの特権であった。
少し歩くと、その絶景スポットに辿り着く。標高が高い影響で風が少し強い。午後九時にしてはやけに外が明るいのは、今日が満月だからだろう。渚は海に反射する月をぼうっと眺めながら、時間が過ぎるのをじっと待っていた。風がざわめき渚の髪を揺らそうとも、内側にある朝日の橙色は暗さゆえに隠され、光が指す事は無い。
「自己陶酔中?」
背後から声が聞こえ、渚は素早く振り返った。声の主に覚えがあったからだ。
そこには、黒曜石のような黒い髪と今日の満月のように爛々とした金色の瞳を持つ青年が立っていた。着ている服は渚と似てはいるが、白基調の渚とは違い闇に溶け込むかのような黒を基調とした衣装を纏っている。和服風にアレンジされているのも、彼の持つ怪しげな雰囲気にはぴったりだろう。足元の高い下駄が地面とぶつかり、からんと音を立てる。髪の毛で隠された耳からは螺旋と一本の棒で構成された美しい金色の耳飾りが揺らいでおり、青年が動くたびに月明りを激しく反射する。
渚がじっと青年を見据えて黙っていると、青年はむすっと不貞腐れた様にまた声を発した。
「聞いてる?」
そう言われて、渚は目を何回か瞬きさせて青年に声をかけた。
「聞いてるよ。久し振り?深夜」
こてんと首を傾げ、渚は少し目を細めながら深夜と呼ばれた青年に言った。すると、深夜はまたもや不満げな顔をした。
「俺、お前に嫌味を言ったつもりだったんだけど」
「自己陶酔はしてないけど、自分の事を考えていたから。君の言ったことは案外間違いじゃないかもね」
渚は何ともないように答えた。
夜の丘に、二人を照らす光は月明りのみ。お互いがお互いを見つめていると、先程よりも風の音が激しく聞こえてくる。
「何しに来たの?」
埒が明かない、と渚が困ったように笑い、深夜に問うた。すると深夜は深くため息をつき、額に手を当てて答える。
「そんなもん決まってるだろ。お前に、朝を呼んでもらう為だ」
「……」
「いつまで意地になってるつもりだ。もうとっくに鍵は使えるだろ?」
呆れたように、咎めるように…しかし安心させるように、深夜は渚に告げた。しかし渚は、また困ったように笑い、静かに目を伏せた。
「知らない。僕は鍵なんて持ってない。朝を呼ぶのは、僕じゃない別の人だ。君も知っているでしょ」
「あの時はそうだったかもしれねぇけど、今は違うだろ?…言い訳は聞かん」
「…深夜、僕は__」
眉を顰め渚が何かを言おうとしたその時。けたたましい轟音が鳴り響き渚の目の前で激しい土煙が舞った。その衝撃は渚と深夜の間に深い溝を作り、まるで縄張りのラインを示すかの様だった。