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柿の青さ

作者: 櫻木水仙

これは途中までしかありません。





 庭の柿の木が葉を落とし、隠れる場所を失った小鳥なんぞは何処とも知れぬ太陽を目掛け、チュンチュンと喘ぎながら空を駆けて行きます。空から落ちるその影がチラチラと私の眼前に映るものですから、何が飛んでいるのだと見上げてみますと、そのお姿は光に熔け、実に綺麗でありました。命あるものは皆、太陽に恋い焦がれるものです。イカロスもよろしく皆愚かで美しいのだと、哲学に酔っておりました。

私の家は、小高い丘の荒屋にございます。葉牡丹の花が咲き、見ていて飽きないものですから此処に居座っているのです。合わせて、ちょうど向町の方まで見下ろすには良い塩梅なのでございます。しかしながら街までの交通の弁は悪くあるので浮世とは隔絶され、人を見かける事は滅多にありませんが、今は不自由なく生きております。ちょうど街はは、新しいビルやら映画館やらが出来始めているようで、私には未だに何が良いのやらよく分からないですいます。元より世情や流行りなんてものには疎いというのもありますが、この暮らしを始めてからは、尚のこと俗世間は縁遠いものになりました。あまり街に降りることも御座いませんので、物を用立てるのには初めのうちは苦労しましたが、大方慣れてきました。

食事も質素に済ませます。畑でとれた少しばかりの野菜とたまに兎でも捕まえては鍋にでもして食べます。味の良し悪しは分かりませんが、悪くないと思っております。

今年でこの山が燃え尽き、色褪せるのを見るのもこれで3度目でございます。

元々荒屋でありましたが、この季節になると、やはり寒さには敵いません。初めの冬は、近くの廃屋からご挨拶も兼ねて二、三切れの木板を拝借しましては隙間に嵌め込み、凌いだものです。夜中によくピューピューと言う音に起こされたのを覚えています。しかし最近は少しの隙間風だろうが、気にならなくなりました。逆にその音が無いと、なんとも言えない寂しさに取り憑かれるのです。

慣れとは、怖いものです。

ふと、部屋の隅っこに空の茶碗と女物の寝巻きが目に入ります。何時ぞやの来客の物ですが、捨てることも出来ずにそのまま飾っています。物を溜め込むのは昔からの悪い癖なので仕方がありません。しかし、それを見るといつも何とも言えぬ寂しさと同時に焦燥が、私の胸の内を蝕んでいくのです。というのも(誠に勝手ながら身の上を記す事をお許しください)だいぶ前に、思い人が肺を患い、あれよあれよの間に死んでしまったものですから、私もどうして良いものかと途方に暮れているばかりでございます。今では涙も底をついてしまいました。それからというもの、あの人の思い出をなぞる様に流離うばかりで有りました。しかし、そんな生活に疲れ果て、何時の間にか此処に流れ着いたのでございます。

今では一緒にいるはずだった時間を只々、庭の木を見る事にしか充てがうより他に無くなってしまったからでございますから、いよいよ私とは何者なのかも忘れてしまいそうです。

「自分」という存在に価値を見出せないというのも、より一層この景色から色を奪っていく要因ではあるでしょう。私は自分の生きる意味を人に見出していましたので。しかしながら、誰が為に生きてきたと口にするのは恐れ多く、今もこうして破屋紛いに住み着いては、その日その日を何となく生きるより仕様がありません。私は存外、愚かなのでしょう。何時からこういう人間に成り下がったのか、今では思い出す事も憚られます。庭先に今冬も霜が降りたのでしょう、土の肌は割れ、目も当てれぬ程の有り様で、なんと労しい事かと思えます。

これでは気も晴れぬと再三思い立って、やれストーブでも出そうと腰を起こすも、昨年の冬にタンクが壊れてしまった事を思い出し、中途半端に浮いた腰をストンと落としました。私もまだ老いた身ではないものの、何故こんな老爺の様な暮らしをせねばならぬのか物憂げに考え込むのですが、一向に解る兆しが見えません。

誰ぞ来客はないか、便箋でも届いてないかと玄関を見ても私の草履がポツンと在るだけでございます。はぁと溜息が零れてしまい、どんどん蝕まれていくばかりであります。

遠くで、鹿の鳴き声が響いてきました。彼らも寂しさで身を震わせているのでしょうか。

 去年の暮、珍しく来客がありました。こんな辺鄙な荒屋を訪ねて来る者など年に一人有れば良いものでしょう。しかし大概は、便箋ですとか、そういったものが届くばかりで私に用がある者はおりません。

木枯らしが吹き、夜に星が爛漫と煌めいている晩のこと、戸を叩く音で起こされました。

来客自体珍しく、尚更晩にここを訪ねる客初めてだったのもあり、顔に冷や水をかけられた様に飛び起きたのを覚えております。戸を少し開き外を見ると、小綺麗な女が汗を額に滲ませ立っておりました。久しく女というものを見ていないものですから、私もたじろいでしまいました。すると女は、口早に「一晩で良いから、泊めてくれろ」と申しました。これは厄介な類であるとは、直ぐにでも分かりました。

初めのうちは、誰が泊めるものかと裏返り混じりの声で拒みました。

しかし、女は私に「どうか、どうか」何度も食い下がりましたので、とうとう私もこれは参ったと戸を締め、関をかけました。女にはこれが大分応えたらしく、ついには折れてか「失礼しました」と呆気なく力ない声が戸の反対から聞こえ、肩透かしを食らった気分でありました。

それからパタっと人の気配が無くなりましたので、やっと何処かへ消え失せたかと胸を撫で下ろしました。いったい何者であったのか私の知るところではありませんが、何とも言えない静けさが戻ったこの空間が少し恐ろしくも思えました。

やれやれと寝床に向かおうと足を土間から上げようとした時、ふと私は「今、酷い仕打ちをあの女にしたのではないか」という罪悪感に苛まれたのです。実のところはそんなに大した訳でもなく、ただ一晩だけ寒さを凌ごうと藁にも縋る思いで私を訪ねたのではないか。ここでもし野垂れ死などされた日には、私は悔やんでも悔やんでも申し訳が立ちません。胸中を毒にも似た流動体が流れていくのを感じました。シュレーディンガーの猫を殺そうとしている、そう思った時には既に私の手は戸に掛かっておりました。

外に出ますと、女はトボトボと肩を落としながら坂を降っていく途中でございました。しかし、どう言えばいいのか分かりませんで出かかった「待ってくれ」という言葉を、つい飲んでしまいました。「分かった、一晩だけだ」とぶっきらぼうな物言いしかできませんでした。わざわざ断っておいて、軽々と掌をクルリと返す意志薄弱な男としてあの女に見られたと思うと、自分とは何と恥ずかしい生き物かと、心底思えて仕方がありませんでした。

続きは本で。

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― 新着の感想 ―
[一言] 素晴らしい作品ですね! ☆5個つけさせて頂きました。 これからも頑張って下さい! 応援してます。
2021/11/13 08:20 退会済み
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